※一部に男性同士の露骨な生描写が見られます。18歳以下の方は閲覧しないで下さい。

『 All or Nothing 』

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「お疲れさまでした」

 昼間の交通整理のバイトが終わり、現場の待機所で一息ついた刹那が6時間ぶりで携帯を見ると、メール着信が二件ある。一つは大学の研究室にいる先輩から、もう一つはグラハムからだった。少し迷ってから、刹那はまず先輩ニール・ディランディからのメールを開いた。彼からの連絡なら大体予測ができる。案の定、中身は他愛のないものだった。
『元気か?あんま無理すんなよ。今夜ウチに飯食いに来ないか?ライルたちと鍋するからさ』
 教えてもいないのに、彼は刹那のバイトのシフトを熟知しているらしい。週に五日二種類のバイトを掛け持ちしている貧乏学生の刹那へ、マメに食事や健康管理に口を出す。長男気質とはああいう人間を言うのだろう。ニールからのメールに、了解と返信しようとして、はたと意識的に後回しにしたもう一件のメールのことを思い出す。彼からのメールが嫌な訳じゃない、その逆でむしろ心待ちにしていると言ってもいいくらいなのだが…いかんせん少し疲れる、ニールや沙慈たちのように気楽には読めないのだ。それは最近頻繁に連絡を取るようになった相手だった。十歳以上年の離れた男で、名前をグラハム・エーカーという。職業は小説家だそうだ。刹那はいまだ彼の本を読んだことがないが、そこそこ売れているらしい。今度の新作がなんとか文学賞の候補に挙がったとかで、ここ最近は特に忙しく、これまでだったら日に何回も来ていて煩いくらいだったメールがここ3日間は全くなかったし、最後に会ったのは1週間前だ。その間、二度ほど彼のマンションを訪ねたが、留守だった。特に事前に予定を聞いていたわけではないから、留守ならしょうがないと諦めて帰った。グラハムがそれを知ったら、きっと怒りだすだろう。せめて電話でもよこしたまえ、と緑色の瞳を炯々と光らせて掴みかかってくる様が目に浮かぶ。
 彼と逢うのはほとんどが彼のマンションだった。何の連絡も無く刹那がマンションを訪ねることもあったし、グラハムから誘われることもあった。大体半々くらいだろう。彼のマンションは刹那が住む築20年以上のワンルームとは違い、地上20階建のタワーマンションの上層階だ。彼は高い場所が好きらしい。カーテンのないリビングからは、絵葉書のような夜景が見えた。まるで玩具箱のような光景。外国製のソファやベッドで、二人は抱き合った。他のことはいつも後回しで、考えてみれば、付き合い始めて一ヶ月ほどにも関わらず、満足に二人で出かけたこともない。それは彼とのセックスが信じられないくらい気持ちがいいということもあるが…
 そうセックスはする。むしろそれしかない。だからだろうか、彼との関係を思うとき、恋人という言葉に違和感を感じてしまうのは。グラハムのことは好きだ。彼の年の割りに童顔な顔も、蜂蜜のような金色の髪も、鍛えられた無駄の無い四肢も、全てが刹那の胸を掻き回し、爪を立て、容赦なく欲望を暴き立てる。彼の前に立つと、理性とか感情とかは霧散して、ぐつぐつと腹の底から湧き出すような衝動に突き動かされ、気づけばその皮膚に、唇に、歯を立てて齧りつく。そうしてまた彼の明るい表情の裏に隠された、彼の全てを、暗い欲情の本流を暴きださずにはいられない。
 優しさなんて欠片も無い。
 ただ、目も眩むような衝動だけ。
 だがグラハムが自分のような何も持たない人間に、執着するのもそのためだろう。
 彼は激しい行為が好きだといった。痛みと同時に与えられる快感に、我を忘れて没頭する、その瞬間が好きだといった。だからこの関係は、恋人ではないと思う。こんな風に互いを暴き合い貪りあうだけの破壊的な関係など、きっと違うと思うのだ。

 グラハムからのメールを開くと、それまでの夢想が一瞬で散り、胸が高鳴った。
『君に会いたい。一時間後に下記のホテルに来てくれ』
 簡潔な用件のあと、丁寧にホテルの最寄り駅から行き方まで書かれていた。おそらく行ったことが無い刹那への配慮だろう。着信時間を見ると、40分前だ。
 ここからなら指定されたホテルまで電車を乗り継ぎ30分以上かかるだろか。
 指定時間には間に合いそうにないが…しかし…
 長時間屋外で立ちっぱなしのバイトで身体は泥のように疲れていた。今すぐ家でシャワーを浴びて汗を流したい。それから、温かいものを腹に入れて…鍋なんて理想的だ。ニールとは同じアパートだから移動も楽だし。 しかし、刹那の右手は携帯を取り出し、ニールへメールを書いた。
『わるい、別件がある』
 身体は休息を求めていた。グラハムに会っても疲れのせいで、きっとろくなことにならないと分かっている。
 それでも刹那は駅に向かって、汗と泥で汚れたスニーカーで駆け出した。

 埃一つ落ちていない大理石の床に立ち尽くし、刹那は見上げても天井が見えない吹き抜けの空間に息を飲む。ロビーに規則的に並ぶ柱には蕭奢な文様ときらびやかなシャンデリアが煌めいている。ゴールドを基調にした都会的で落ち着いた装飾は豪華だが華美ではない。上質という言葉を体現したような空間、演出された非日常、その中を行き交う人々は映画の中でしか見たことの無い背中が大きくあいたロングドレスの女性をエスコートするタキシードを着た紳士だ。あまりに自分の日常から掛け離れた世界に刹那は軽い目眩を覚えた。その時、ドアマンが穏やかな笑みで話しかけてきた。
「どうかなさいましたか、お客様。」
 思わずギクリと肩を竦めてしまい、刹那は自分の過敏な反応に舌打ちした。
「………」
 どうしたといわれても、刹那は言葉に詰まった。グラハムからのメールには部屋番号も書いてあったが、しかし刹那は迷っていた。勝手に部屋まで行ってもいいのだろうか?その前に部屋が何階なのか分からない。うつ向いた刹那の視界に、黒く汚れたスニーカーが入ってきた。バイト先からそのまま来たから、ジーンズに白いパーカーという至ってラフな格好で、明らかに浮いている。自覚した途端に恥ずかしさが込み上げてきた。いたたまれず言葉がでない刹那をドアマンがいぶかしそうに睨んだ時、
「やぁ、刹那クン」
 聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、振り返ると非常に長身で痩せた男がニコニコと笑って手を振っている。それを見てドアマンがさっと一礼する。
「カタギリ様」
 ああ、そうだ…思い出した。グラハムから一度だけ親友だと紹介されたことがある。名前はたしかビリー・カタギリ。科学者だ。
「その子はグラハムの客なんだ、通してやってくれないか?」
 するとドアマンは綺麗に一礼して二人の前から姿を消した。
「刹那くん、グラハムが部屋で待っている」
 穏やかな笑顔を浮かべた男に違和感を感じる。多分今の彼の服装のせいだ。前に会った時にはくたびれた白衣にサンダルという格好だったカタギリが、艶やかな絹の黒いタキシードを着ている。白衣では痩せ過ぎで猫背気味な身体がやや頼りない印象だったが、それが今は凛として堂々としてきらびやかな装飾の中で引き立って見えた。いささか頼りない印象だった長い手足が今は収まる処に収まって、腕時計を見る仕草まではっとする。刹那は長身の彼を見上げる気にならず、うつ向いた。すると視界に再び自分の汚れたスニーカーが入ってきた。埃一つ落ちていない床、自分の歩いた跡だけ汚れている気がして、刹那は唇を噛んだ。
 埒もない。
 この場でそんな惨めな思考に囚われているのは間違いなく自分だけだろう。誰もが悩みなんてなさそうな晴れやかで上品な笑みを浮かべている。非日常的な空間を当たり前のように軽やかに流している。息苦しいのは自分だけだ。賑やかな雑踏のなか、刹那はひどく孤独を感じていた。

 コンコン。
 カタギリに教わったグラハムの部屋は最上階のスイートだった。
 ノックと同時に勢い良くドアが開いた。ヌッと白い二本の腕が伸びてきて、腕を掴まれ、引き込まれる。
「グラハム」
 世話しなくからんでくる白い腕に息を飲む。
「十分遅刻だ」
 緑色の瞳を濡らして炯々と光らせて、みる間にそれが近づいた。そして唇に触れた温かい感触。待ちかねたとばかりに刹那の薄い唇を熱い舌が舐めていく。唇の皺を伸ばすように、乾いて出来たひび割れに唾液が染みた。
 ドアも閉めぬまま、壁に押し付けられて、キスされる。
「…おいっ…」
 トレーナーを捲り上げようとする腕を押さえるが逆に振り払われて、刹那は焦った。
 しかし経験からいえば、スイッチが入ったグラハムは止められない。
「ちょっと待て、せめてシャワーを…」
 せめてもの譲歩だったが、「ダメだ」とあっさり拒否されてしまう。
「君が遅刻するから、あと30分しか時間がない」
 言いがかりだ、と叫ぼうとするが、熱い舌が傍若無人に口内を蹂躙しはじめたので、かなわない。こうなったら流されるしかないか…刹那は諦めた。
 抵抗がなくなったのに気づいたグラハムが艶然と微笑む。隠しているのかいないのか…緩くあわされただけのバスローブでは臍のあたりまで肌が露わになっていて、体毛の薄い白い肌は、その下の血管の血流を反映して薄赤く染まっていた。金色の襟足に鼻を埋めると、微かに湿った髪からは花のような香りがした。
「だから、早くキミを感じさせてくれ」
 導かれるままに、刹那はキングサイズのベッドに押し倒された。
 グラハムにパーカーを剥ぎ取られ、跨られて息を飲む。バスローブの腰紐を引くと、それは何の抵抗も無くあっさりと解け、その下には下着すらない、生まれたままの姿が顕わになった。グラハムは刹那の腹に下半身を擦り付けるようにして、荒い息を吐いている。
「……ぁ、ぁあ……」
 そこはすでに濡れていた。
「自分で、慣らしたのか?」
 口で問うと、グラハムは嫣然と「私は我慢弱い」と呟いた。
 そして膝立ちで軽く上体を持ち上げると、後ろから指を差し入れた。くちゅくちゅと濡れた音が聴こえる。次第に激しくなる指の動きにあわせて、水音に混じりグラハムの高い喘ぎ声が混じっていく。
「…はっ、…ぁ…せつな……も…はやく…」
 自分を差し出された右手に指を絡めると、グラハムが自身に埋めていた指を、刹那の熱杭に絡ませた。すでに立ち上がっていたものをぬるついた指に扱かれて、思わず息を飲む。グラハムが嬉しそうに笑った。
「…君と、セックスした後は、気分が高揚して自分が無敵になったような気持になる…」
 オレンジ色の照明を受けて、グラハムの金糸が踊る。
 ずぶずぶと熱い内部に入っていく。まるで媚びるように誘うように蠕動する内部に、鋭い快感が走った。
 ……だめだ、止まらない。
 体勢を入れ替えて、突き込もうとした瞬間、グラハムの太腿が刹那自身を咥えたまま、きゅっと締まった。
「あっ、あああ」
 高い声が上がる。そして喘ぎながらグラハムが自ら腰を上下し始めた。ぐちゅぐちゅという淫らな音と共に、視界には、接合部分と立ち上がり蜜を零すグラハム自身が良く見える。無我夢中で腰を振るグラハムの顔は紅潮して、薄く開いた唇からは唾液が一筋零れていた。緑色の双眸が欲望に霞む。
「…っ、…刹那っ……」
 目が眩むほどの快感に、刹那は我慢せずグラハムの中に欲望を吐き出した。

 快感で飛んだ意識が目を覚ます。
 ゆっくりと起き上がると、すぐ側にグラハムが立っていた。
「おはよう、刹那」
 彼はすでに黒いスラックスとシルクのシャツを身につけており、今は襟元の黒いタイに指を掛けている。少し仰け反った顎、その下に噛み付いたのだと思い出し、頬が熱くなる。
「出かけるのか?」
 グラハムはベッドに腰掛けて、刹那の髪に触れた。
「ああ、実はこれから受賞記念パーティなのだよ」
 シルクらしい光沢のあるシャツと、黒い蝶ネクタイがとても似合っていた。まるで映画の主人公のようだ。
「賞、取ったのか?」
 コクリと頷かれ、刹那は素直に感嘆の声をあげた。
「凄いな…」
「なに、たまたま他にいい本が無かっただけのこと、運が良かっただけだ」
 緑色の双眸は力強く輝いていた。謙虚な言葉とは裏腹に、口調には自身が漲っている。
「しかし、候補にすら上らない本は星の数ほどあるのだろう?」
 此処までのし上がるために、恐らく相当の努力を費やしてきたのだろう。だからこそ、自らの手で勝ち取ったという自信、満足、達成感が彼の全身から漲っていた。なんて綺麗な男だろう、刹那は素直にそう思った。
 自身に溢れた笑顔を向けられ、刹那は目を細めた。
「パーティは2時間ほどで切り上げる…それまで待っていてくれないか」
 何かルームサービスで取るといい、額にキスを落として、グラハムは黒のタキシードに袖を通しながら、刹那の額にキスを落として、颯爽と部屋から出て行った。その真っ直ぐな背中には、先ほどまで刹那の上で淫らに腰をくねられていた名残など微塵も感じさせない。
 刹那は、両手を伸ばしても余るほど広いベッドに横たわり、寝室を眺めた。オレンジ色の照明が、照らし出す室内で、目に付いたのは、脱ぎ捨てたパーカーとスニーカーだった。それらは明らかにこの空間には似合わない、異質なものだった。
「…腹が減った」
 グラハムが言っていたルームサービスのメニューを見た。
 笑っちまうな。サンドイッチ一つで刹那の今日の食費がぶっ飛ぶ。
 広い寝室に自分の腹の鳴る音だけが異質で酷く生々しい。今頃グラハムはパーティ会場にいるのだろうか。煌びやかなホールで、フォーマルドレスに身を包んだ人々と談笑する姿が目に浮かぶ。きっと嫌味なくらい様になっているに違いない。グラハムとの距離をまざまざと見せ付けられたようで、刹那は堪らない気分になって仰向けになり両腕で視界を塞ぐ。彼とのセックスは最高に気持ちがよかった、なのに、今の気分は最悪だ。こんなことなら、ニールの家に呼ばれれば良かった。今更、選ばなかった選択肢を考えたってどうしようもないのに…だけど、そちらのほうがこんな高級ホテルのスイートよりも、明らかに今の自分には相応しいし、居心地がいい。今更ながらそんな事実を突きつけられて、刹那は憂鬱になった。
 そういえば此処を教えてくれたカタギリというグラハムの友人もタキシードを着ていた。きっと彼もパーティに参加するのだ。…あの、カタギリとかいうグラハムの友人なら、置いてきぼりになって落ち込んだりはしないだろう。むしろ、自然と彼の隣で微笑んでいられるのに違いない。

 床に所在無く転がるスニーカーが酷く惨めで、空しかった。

2009.02.28

後編へつづく…