『 三日月とサクラ 』



4月7日の朝。きわめて普通の朝だった。

 燦々と朝日が降りしきるリビングで食後のコーヒーを飲んでいた刹那は、ぼんやりとテレビの天気予報を眺めていた。本日は全国的に晴れの予報となっています、という女子アナの説明通り、簡略化された日本地図には全国的にお日様マークが並んでいた。絶好のお花見日和でしょうーーなどという。バカも休み休み言ってもらいたい。天気の前に全国的に今日は平日だ。木曜日だしあと2日働かなければならないサラリーマンには到底花見などしている暇はない。特に新人の刹那には仕事を覚えるだけで精一杯なのだから、とてもそんな余裕はない。……が、それはあくまでも建前のこと、本音を言えば……そこでふと刹那はキッチンを伺った。
 キッチンでは、グラハムが鼻歌を歌いながら朝食の後かたづけをしている。ジャージャーと水を大胆に流しながら、皿を洗っている。朝食は刹那が作ったので、後かたづけはグラハムの仕事だ。彼の方が出るのが遅いから……というのは建前で、本音を言えばとても危なっかしくて台所に立たせられないから……というのが理由だった。しかし黒いエプロンの紐で縛られた細い腰を眺めていると、それも悪くないと思えてくる。そのときテレビの時刻表示が一つ進んだ。さて行くか、と刹那は立ち上がった。
「行ってくる」
 一言声をかけて、スーツの上着を羽織る。するとキッチンからグラハムが手を振きながらやってきた。
「そういえば、今夜はなるべく早く帰って来てくれたまえ」
 玄関先で靴を履いてから振り返る。
「……なにかあるのか……?」
「君という男は、今日が何の日か忘れたのかい?」
 グラハムはいたずらっぽく笑って言った。忘れていたわけではない、がことさら主張するほどのことでもないと思うからだ。
「俺の誕生日だが」
「そうだ、だから今夜は二人で祝おう!ケーキとワインも用意しておいた!絶対に残業はするなよ」
 わかったな、と念押され渋々とうなづいた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
 日常になりつつある触れるだけのキスをしてから、ドアを開いて会社へと向かった。

「さぁ、みんな今日の仕事はここで切り上げて、準備してちょうだい」
 午後12時を回ったとき、刹那が所属する部のチーフであるスメラギ・李・ノリエガが突然立ち上がるり宣言した。午後に回る予定だった営業先の資料を確認していた刹那は、訳が分からず立ち上がった。
「……そんな、急に、どういうことですか?」
 すると先輩であるライル・ディランディが答えた。彼は大学で世話になったニール・ディランディの双子の弟に当たる。ここに就職が決まったのもライルから、このスメラギさんを紹介して貰ったのが大きかった。今はライルについて仕事を一から教わっている。
「ああ、わりい。言ってなかったっけ?」
 彼は仕事はできるが、同僚に対しては少々お茶等桁言動が目に付く。今もそんな重要なことを連絡しないで笑っている。……が、ライルについて回るだけの刹那には何を言うこともできない。
「これから、全員でお花見よ、あなたも支度してちょうだい」
「……でも、平日の昼間からいいんですか……?明日も仕事だし……」
 恐る恐る尋ねると、スメラギが華やかな女性らしい美貌を綻ばせた。
「いいのよ、一年に一回くらい」
「そういうこった、じゃあ張り切っていこうかぁ」
 と未だにこの事態に追いつけない刹那をよそに同僚たちは皆仕事をまとめて支度を始めた。
「昼間っから酒飲んで顰蹙を買わないのは正月と花見くらいだよなぁ」
 ラッセから肩をたたかれて、ふと我に返った。これはまずい事態だ。今朝のグラハムとの約束が脳裏を過ぎる。思い切ってスメラギに申し出る。
「あの……俺……今日は5時で上がらせてもらえませんか?」
 すると、皆の視線が集中して、萎縮する。花見で宴会とくれば、終わりはいつになるかわからない。新人の自分がそんなことを言ったら場が白けて顰蹙を買ってしまう。しかし、出がけのグラハムの顔がちらついて、言ってしまった。するとスメラギが何か思いついたようだ。
「そういえば、あなた今日が誕生日だったわね」
 核心を突かれて、刹那は焦る。
「いえ……はい、それで……今日は」
 スメラギはにやりと笑う。
「あら、そう……ひょっとして恋人との約束でもあった?」
 頭に血が上るのをじっと見つめられて、何をどう答えたらいいか考えているうちに、だんだん訳が分からなくなり、ついに渋々ながら小さく頷いた。その様子を見てスメラギはさらに笑みを深くした。
「なら、その子も呼べばいいじゃない」
 そんなこと、できるはずがない……!別に隠しているわけではないが、かといってこんな時にグラハムがきたら、一体どんな展開になることか予想がつかない。普通なら遠慮するだろうが、グラハムならわからない。喜々としてついてくるような気がする……一体どんなことを暴露されるか、グラハムが同僚たちに囲まれている様を想像して、目眩がした。刹那は急な展開に目を白黒させているとき、イアンは暢気に家族の話を始めた。
「俺の家族も来るから、遠慮しなくていいぞ、一人娘のミレイアも一緒だ、だからって手ぇ出すんじゃねぇぞ」
 そういう問題ではなかった。だが、ともかく今は彼らの興味をそらすことが重要だ。さも最もらしく在り来たりの理由を述べる。
「……仕事もあるし」
そこへライルが余計な口を出す。
「いいじゃねぇか、どうせあいつ小説家だし、勤め人じゃねぇんだから、大丈夫だろ」
 すると、ライルの言葉にクリスティナが反応した。
「小説家なの!?刹那の恋人」
 余計なことを、と内心吐き捨てても後の祭りだ。クリスティナはすごい、見たいーと連呼している。テンション高く囃し立てられ、あおられて刹那はさらに頑なになった。グラハムを呼んだらからかわれるのは目に見えている。そんなのはとても絶えられそうにない。どんな修羅場だ。
「無理だ、絶対無理だっ」
 しかしそんな刹那の切実な声は、テンションの上がった同僚たちの歓声に掻き消されて、もみ消されてしまった。
 そして話題は、いつしかグラハムの外見やら性格、果てはつきあい始めたきっかけなどなど、そういうプライベートな話は止めろ、とライルを止めようとしても、他の連中の勢いに負けてしまって言えない。

 そうしていると、同じく同僚のラッセがどこからか、青いビニールシートを抱えてきた。
「さて、これが今日のあなたのミッションよ」
 そしてそれをスメラギから渡された。
「いいこと、絶対にこのシート分のスペースは確保すること!」
 否など言えようはずもない。ひとまず、グラハムの件はうやむやに出来そうだとふんだ刹那はブルーシートを抱えて、花見会場になる公園へと向かった。
(――済まない、グラハム)

 花見終了後、漸く解放されて帰路についた頃は10時を過ぎていた。解散してから何度か、グラハムの携帯に連絡しているが、返事はない。
「――はぁ」
 怒っているのだろうか、いや怒っているに違いない。
 早く帰ると約束したのに、満足に連絡も出来なかった。途中、何度か早引きしようとも思ったが、気づけこんな時間になっていた。正直、駅について漸く気づいたのだ。帰ったら真っ先に謝ろう――歩きながら刹那はそう心に決めていた。
 郊外のベッドタウン、駅前には人影は疎らだった。自宅のマンションへの道のりには、公園がある。普段は子供たちの歓声で賑わうこの公園にも歩道に沿って桜が植えられていた。まだ若くて枝も細いが、ぽつぽつと立つ街灯に照らされて、ピンク色が暗闇に浮かび上がって並んでいる。白い光に照らされて、青みを帯びた透明なピンク色になった桜の下を通り抜けたとき、ふと見慣れた金色の輝きが目に止まった。刹那は目を疑った。街灯の下に蹲っている塊、その金色には見覚えが、それに気づくいた刹那は慌てて駆け寄った。
「グラハムっ?」
 暗がりで、膝を抱えるようにして丸くなって男が一人街灯にもたれ掛かって蹲っていた。その白いシャツの肩には桜の花びらが降り積もり、ピンク色の斑点を描いている。今も一片、落ちてきた。数分のことではここまでにならない。それに気づいて、花見の酔いが一気に覚めた。座り込んでいた肩を揺さぶった。金色の小さな頭がゆさゆさ揺れる。
「……ぅ……」
 頬が随分冷たい。やはり相当の時間外にいたのだろう、こんな薄着で……春とはいえ、夜はまだ冷える。それを何故、疑問が頭を過ぎった時だった、グラハムの長い睫が小刻みに揺れて、その奥の緑色が顕わになった。瞼が開いても、瞳の焦点が合ってない。茫洋としたまま、彼はまた数度瞬いた。そして小さな声で刹那を呼んだ。その吐息に刹那は顔を顰めた。
 酒臭い……
「――ん……」
 どうやら酔っ払って、眠り込んだらしい。バカが、理由がわかると緊張が一気に解れた。もう、今度は溜息しかなかった。
「酔っ払いめ……」
 心配かけて、さてどうするか……ぺちぺちと頬を叩くと、うぅうと低いうめき声を上げて、顔を背けられた。膝に顔を押しつけている。
「おい、起きろ」
 腕を取って、立ち上がらせようとするが、全身がくたりと脱力したままで、立ち上がろうとしない。無理矢理引き起こしても刹那が手を離すとくったりとまた倒れ込む有様だ。軟体動物のように締まりがない。こうなったらしょうがない。刹那一人の力では、到底抱えられそうもなし、起きるまで待つかと隣に腰を下ろした。
 愚痴の一つも零したくなった。
「なにやってるんだ、あんた……」
 自分だって酔っているから、責められる筋ではないのは理解している。それに多分、グラハムがこんなになるまで酔ったのは自分のせいなのだろう。しかしながら、コレはないだろう。呆れを通り越して怒りが湧いた。待っていていると言ったのに。理不尽とは思いながら、考え出すと止まらない。まったく、これでは誕生日どころではないだろう。腹が立ったので、せめてもの腹いせに、左耳を思い切り引っ張ってやる。
 すると、痛みからか、低いうめき声を上げて、グラハムが顔を上げた。
「起きたか」
 目を開けたグラハムは不思議そうに辺りを見渡している。そして隣に座る刹那を見て、ふにゃりと相好を崩す。
「お帰り」
「まだ、家じゃないがな」
 そう返すと、グラハムはとろんとした目で、そうかそうかと笑って、立ち上がった。そして自分で歩き始めた。千鳥足だが、一応は一人で歩く様子にほっとする。これで担がなくて済んだ。
「楽しかったかい?」
「まぁな……アンタもお楽しみだったようだな」
 家に帰れなくなるほど酔ったことを揶揄すると、思いがけない返事が帰ってきた。
「まぁな、賞味期限があるから、ケーキは食べておいたぞ!」
 なんだって、思わず聞き返してしまう。その様子にグラハムがにやりと笑った。
「帰ってこない君が悪い」
「……だからってホールケーキを一人で食べたのか?!太るぞ」
「だからこうして歩いている」
 つまりは、家で待っていたけど待ちくたびれて酒を開けて酔った勢いでケーキまで平らげたと、そういうことか……刹那は渋面を作りながらも足下がおぼつかないグラハムの腰を抱いて支えてやる。
「誰がいたんだ?」
「同僚と、同僚の家族と、あとニールたちもいた」
 そういうと、グラハムがなんとっと大声で叫んだ。
「だったら、私も呼んでくれてもよかったのではないか?!」
 何故だ、何故だと連呼するグラハムに詰め寄られて言葉に窮する。恥ずかしいだろう、そんなこと――とは口が裂けても言えなかった。第一、どういって紹介すればいいのか。うっかり変なことをいうと、あとで泣かれそうだ……そんなことを考え始めると、頭がグラグラしてどうにもこうにも。それでグラハムを傷つけた日には、以外とナイーブなところがある彼だから。実は些細なことでも傷ついていることを知っている。それから嫉妬深くて執念深いことも。面倒くさい男だ。
そこでグラハムがふっと微笑んだ。
「いい誕生日だったか、刹那」
「まぁな」
「私は、面白く無い、無いと言った!」
「……ああ、そうだな」
 不満を顕わに食いついてくる、グラハムは、ガーガー五月蠅いアヒルのようだ。くちばしの代わりに頭が黄色い。そんな頭を撫でると、気持ちいいのか目を閉じて肩に凭れてきた。
「来年は二人で、花見で、祝杯だ……」


 視界にはらはらと薄紅色の破片が舞う。朝はは満開だった桜が、今は既に散り始めている。暖かい日差しに照らされて、花の寿命は短くなったか。
「春だなぁ」
 グラハムが呟いた。
「――散る桜残る桜も散る桜」
 それはある禅僧の辞世の句だと言われている。桜はすぐに散ってしまう。だが今盛りと残っている花もいずれは散ってしまうのだ、という意味だ。
「サクラに関する詩は多いが、皆が桜の華やかさと儚さに心奪われ、桜が咲くと美しさに感嘆し、哀惜の情に胸を乱す。あっという間に咲いて、あっという間に散ってしまう、盛りがきたかと思うと、いつ散ってしまうかとはらはらして落ち着かない。心沸き立たせながら、もの悲しいと沈ませる。まさに刹那の美だ。君は、一年で一番華やかな季節に生まれたのに、無愛想で。」
「感傷的だな」
「ロマンチックといいたまえ」
 そんな感傷は無意味だ。するとグラハムが何か思いついたらしい、そうかと呟き、桜の花を指さした。
「……君の名は桜から採ったに違いない。なぁ、刹那」
「……一人で、歩け」
 支えていた腰の手を離して、すたすたと歩き出す。
「私は、好きだよ。それでいてもの悲しくて、それでいて華やかで、潔くて」
「いつか散るのが定めでも、精一杯咲き誇り、そして未来に種を繋ぐ。刹那も繰り返せば長い時になる」

「……来年も二人で桜をみよう」

 見上げると、桜の梢にオレンジ色の三日月が浮かんでいた。ちょうど桜の海を越える舟のようだ。同じ夜空を指さしてグラハムが言った。
「見ろ、刹那。月が舟のように揺れている」
「それは、あんたが酔っているからだ」
 刹那は、ふらついているグラハムの手を取った。
 
 花の海をいこう。

++ end ++



2011.4.24