『 乙女座の占い 』



2305年 地上ユニオン領内





 久しぶりの休暇で地上に降りたロックオンは、アメリカ東海岸のフロリダに来ていた。休暇を過ごす場所にこの街を選んだのには大した理由は無い。ガイドブックにクラブとカキが旨いと書いてあって、午睡の小島、水晶の砂…青い空と白く延々と続くビーチが美しかったから、そんな程度の理由だった。ホテルにチェックインしたあとは取りとめも無くぶらぶらとビーチ沿いの遊歩道を歩いた。等間隔に並ぶ椰子の木に夕日が反射して長い影をでこぼこしたタイル張りの歩道へ落としている。今は秋でバカンスシーズンではないので観光客も比較的少なくて、ビーチにはパラソルとビーチチェアがあるばかり。海水浴客よりも犬の散歩やジョギングを楽しむ人々の方が多かった。道路の反対側には白く塗られたマリンハウスやホテル、レストラン、カフェなどが立ち並ぶ瀟洒な街並みが続いていて、道路に張り出した庇の下のテーブルに、店員がディナー用にキャンドルをセッティングしている。秋とはいえ、気温は暖かく北半球の高緯度地方生まれのロックオンにしてみれば夏のような暑さだ。夕日に紅く色づいた水平線の上にはソフトクリームのような積乱雲がぽつぽつと浮いていいる。空は本来の抜けるような青を失い、迫りくるような赤が眼に痛い。
 そんな光景をぼんやりと眺めながら、ロックオンはビーチにある白いカウチに腰掛けていた。大きなパラソルがロックオンの白い肌を強烈な西日から遮ってくれる。真っ白い砂の上に落ちる円い影の中で、目の前の光景はまるで夢の中のように現実感が無かった。全てが美しく整っていて痛みのない光景。そんな光景に囲まれている自分、ふと手を見た。むき出しの両腕から突き出している黒い皮手袋、オレンジ色の夕日に照らされたそれは、爬虫類のような濡れた艶を発していて、返り血を浴びたあとのようだと、ロックオンの目に映った。こんな平和そのものの街にきてまで、自分の中に血の匂いを嗅ぎ出さなくてもいいだろうに…自分自身に呆れつつも、しょうがないかと諦めてもいる。忘れられるはずは無いのだ。今身を置くこの平和そのものの光景こそがかりそめに過ぎないと知ってしまった14歳の時から、この手袋が象徴する血生臭い戦いの世界、狙撃主として命を奪う行為、それこそが自分の本分であり、使命であり、生きる意味だったのだから。
 そこまで思って、ロックオンは放っておくと際限なく落ち込みそうな思考に自嘲して目を閉じた。視界を閉ざしてしまえば、宇宙にいるときと変わらない暗い闇が落ちてくる。偶にはこんな平和ボケしたリゾートで場所で何も考えずに過ごすしてみればストレス解消になるだろうか、そう思っての休暇だった…最近はトレミーで新しくマイスターに決まった刹那という少年と相部屋になったため正直気が休まる時間が無かったから…別に刹那が悪い訳ではない。彼のことは嫌いじゃなかった。無口で無愛想だけれど、性根は真っ直ぐで真面目な奴だと思う。ただ彼を見ていると同じ年頃の自分のことを考えてしまって、彼の赤銅色の瞳に見つめられると息が詰まるのだ。だから休暇ぐらいは彼らからはなれて、馬鹿みたいに太陽を浴びてはしゃぐのもいいかと、この街へ来たのだが、結局自分は闘いのことを根本から忘れることなどできないらしい。
 つらつらと、結論の出ない思考に埋没していくと、次第に意識がうつろになっていく。夕暮れ時の海岸には人はまばらで、自然と警戒心も薄らだ。しばらく目を閉じていると、うつらうつらとした眠気に襲われ、瞼が落ちた。腹は減ったが、動くのが億劫で、ロックオンは腹の上に手を置いたまま、カウチにだらしなく寝そべった。

 しばらくそうしていたのだろうか。
 不意に、間近に人の気配を感じた。すぐ近くを通り過ぎようとする足音を聞いて、意識が覚醒する。しかしロックオンは眼を閉じたままでいた。此処で急に眼を開けては相手に警戒されるかもしれない。ただ単に歩いているだけなら、このまま寝たふりをしていればじきに通り過ぎるだろう。もしくは、なにがしか自分に用があるのだとしても、寝込んでいればさすがに手も出せまい。そう思ったロックオンはなるべく自然な寝息になるようにして、寝たふりを続けた。スナイパーの耳は近づいてくる足音を正確に聞き分け、分析し、警戒心を強めた。さくさくと砂を踏む足音が、迷いなくロックオンに向かって近づいてくる。歩幅からいってどうやら背の高い男のようだ。それもどちらかというと痩せ型の。しかし妙だな…足音はビーチサンダルによくあるパタパタという軽い音ではないし、さくさくと砂を踏む音だけで、サンダルと足裏がこすれる音もない。すると足音はロックオンの正面で止まった。
 舐めるような視線を感じて、堪らずに僅かに薄目を開けると、赤い物が見える。と今度は腹の上に温もりと重さを感じてロックオンは眼を開けようとした、その時、急に視界が暗くなり、唇に温かい感触が…視界が何かに覆われて何も見えない。かろうじて鼻と鼻がぶつかっているのが分かる程度だ。そう気付いた時、温もりは離された。ロックオンは眼を開けたまま息を殺す。視界を覆うものが離れて行って視界がクリアになると、まず最初に目についたのは金色の髪、ゆるくウェーブがかかって白い額をたっぷり覆う。その隙間からのぞくグリーンの瞳。続いて少しだけ上向いた鼻とその下にある薄い唇…女のように赤くはないが、ふっくらと脹れてやわらかそうで、微かに濡れて淡いピンクに色づいている。
 この状況は、つまり…
 ロックオンは、力いっぱい圧し掛かっていた男を突き飛ばした。そして、男が触れただろう唇を手の甲で拭った。
「なにしやがる!?」
 しかし返ってきたのは、さらに珍妙な言葉だった。
「キスで目覚めるとは…まさしく、眠り姫だな!」
 この際だ、自分が男だとか同性同士だとかを差し引いても、たとえば自分が女でも、いきなり寝込みに通りすがりの男にキスされるなんてそうそうあるもんじゃない。というより訴えられたら警察もんだ。「いやー痴漢!」と叫べば間違いなく御用になるだろう。疑う余地もない現行犯逮捕だ。しかしロックオンは叫ばなかった。いや、むしろ言葉も出ない。パクパクと息をするでもなく口が泳いで舌が渇く。開いた口がふさがらないとはこのことだ。
 男は無駄にキラキラと瞳を輝かせて、ロックオンへバラの花束を差し出した。
「私は取り立てて占いを信じる人間ではないが、しかし今日の乙女座の運勢は最高だった」
男は滔々と自分の占いについて語り始めた。
曰く―――。

「運命の恋の予感あり、外出先で思いがけない運命の出会いが待っているかも」
「赤いバラで運気がさらに上昇!」
「ラッキースポットはビーチ」

―――だそうだ。

くだらねぇ。ロックオンは思わず目を細めて男を睨んだ。占いなんてくだらない。そんなものを間に受ける男はさらにくだらない。
 しかし、目の前のスーツの男は無駄に姿勢のいい背をさらにそらせて自信たっぷりに言い放った。
「つまり、それらを総合すると、“赤いバラをもって海岸へ行くと運命の出会いがある”ということになる」


「いや、勝手につなげんなよ!」
 思わず突っ込んでしまった。しかし聞いてないのか、男はエメラルドのような鮮やかな緑眼をうっとりと眇めると、胸に手を当てて膝まづく。

「私の名は、グラハム・エーカー。今この瞬間、君は私の運命となった」
再び触れるほどの距離に近づいた顔に、思わずのけぞってロックオンが叫んだ。
「おいおいおいおい…ちょっと待て、飛躍しすぎだろうそれは!!」
 まだ、逢って数分しか経ってないのに、こいつ頭のどっかネジが飛んでんじゃねぇのか?厄介な奴に捕まった。ロックオンは盛大にため息を吐いた。「ビンボウクジ、ビンボウクジ」…脳裏に相棒のハロの赤い目玉が瞬いて、高い声が響いた。
 海面に太陽が落ちる間際、耐えきれなくなったのか涙のように滴り始めた夕日が、男の金髪を炎のような赤に染めていく。全てがとけるようなピンク色に染まったビーチ、潮騒と遠い雑踏を後ろに聞いて、空が茜色に染まるころ。しかしロックオンにはこの光景がロマンチックだと感じる心の余裕は全くなかった。頭の中が混乱しすぎてぐるぐるする。星が飛ぶやらめまいがするやら。やたらに綺麗な緑色の星がちらちらと瞬いては金色の雲の中に隠れてしまう。

 瞬きの音まで聞こえるようだ。
 そのくらいの距離で見つめあう。

 その時、ロックオンは自分がその緑色の瞳に見入っていたことすら意識していなかった。そうしてどのくらい見つめあったのだろうか、綺麗だなと思ってしまった自分にロックオンは慄いた。いやいやいや、ありえないから。慌てて否定するものの手を伸ばせば触れるほどの距離にある男の顔を真正面から眺めて衝撃を受けた。ロックオンはどちらかというと面食いだという自覚はあった。最初は大体顔から入る。悪いことにその男の顔は明らかにロックオンのツボに入った。円く大きな瞳は幼げだが、視線は鋭く自信にあふれていた。きりりと引き締まった唇も悪くない。たぶん、いくらか年下なのだろう。認めよう、確かに好みの顔だった。
 いやいやいや、ココで流されてどうする。
 気をそらすために、ロックオンは男の服装に目をやった。濃いグレーのスーツと同系色のネクタイ、シャツは明るい青。シャツのブルーと鮮やかな金髪がよく映えている。姿勢のすっと伸びた立ち姿は、一切の隙がない。足元をみると上質そうな黒い皮靴が砂のせいで白く汚れてしまっている。砂は靴だけではなくスラックスの裾まで汚していた。此処が常夏のフロリダのビーチでなかく、ビルに囲まれたオフィス街ならさぞかし人目を引くことだろう…いやある意味此処でも目立っている…悪い意味でだが。しかし男はそんなことはお構いなしに、膝まづいている。考えてみると妙な格好だ。言動だけでなく、服装もおかしい。真夏ではないとはいえ、何故にビーチにスーツなんだ?熱いし、それにビーチといえば遊んだり寛いだりする場所で、こんなかちっとしたスーツは明らかに場違いだ。
「…なぁ、あんたなんでスーツ?」
 気になる出すとどうしても問わずにいられなかった。
 すると男は答えた。
「うむ、運命の相手に出会うのだから、やはり正装がいいかと思ってな!」
 朗らかに宣言されて、ロックオンは脱力した。変な奴。だが、可笑しすぎてなんだが笑える。いやむしろ可愛いかも?まっすぐに見下ろしてくる緑色の双眸は、まるで気に入りのおもちゃをねだる子供のように、キラキラと光っているものだからどうしても憎めない。おかしな思考回路だが本人はいたって真面目らしい。本気で運命の相手とやらに出会うつもりでいるようだ。可笑しくなって、思わずくつくつと笑いがこぼれた。
「歩きにくくねぇの?その靴」
 すると男は眉を寄せて足元を見下ろした。すると男は眉を顰めて困ったように逡巡したあと、耳打ちするような小声で言った。
「うむ、実をいえば靴下の中まで砂が入りこんで、大変不快だ。」
 そして僅かの間、俯いて考えるポーズをとる。
「どこかでシャワーを浴びられないだろうか?」
 再び持ち上げられた眼差しには、先ほどとはいささか違う色が混じっていた。魂胆があるのだと明らかに匂わせる。
「…それって、俺の部屋へ上げろって意味?」

「無理強いはしない。しかし私は我慢弱い」

 早めの回答を望むと、ねだる男に、ロックオンは今朝地球へ下りるリニアの中で暇つぶしに見ていたニュースのなかの自分の占いを思い出した。確か自分の運勢は最悪だったはず…たしか、「初対面の相手から思わぬ災難が降りかかるかも」だ。なるほど、結構当たるもんだな。


「シャワーを貸すだけだ」


 気付けばそう呟いていた。ああ、俺って馬鹿だな…これでは相手の思う壺だ。そう思いつつ立ち上がってしまった自分にあきれたが、しかし、振り向いたとき、男が浮かべた笑顔に、胸が温かくなる。自然とロックオンも笑っていた。グラハムが抱えていたバラの花束を握り締めると甘い香りが鼻を突く。血の匂いはもうしない。手のひらを覆っていた赤い血の幻想も消えていた。

「ただし、どっかうまいレストランでも教えてくれたらな。昨日食ったカキは最悪だったから、今日はまともな物が食いたい」

「ならば先に食事にしよう」

 鮮やかに立ち上がると、グラハムがさっそうと歩きだす。大股でさっそうと歩く彼の後をついて、グラハムも歩き出した。
 ビーチの夜は、もうすぐそこまで来ていた。人々の足も自然と帰路へと動いている。その浮足立った人並みと同じようにロックオンの足取りも軽かった。
 食事の後は、…またその時考えればいいことだ。

 長い夜の予感に、胸が微かに疼くのを、ロックオンは楽しんだ。



2009.05.16

大した中身もないのに、無駄に長い…
中途半端ですいません…