『 とろけるビーフシチュー 』



 目が覚めると、陽は随分高くなっていた。慌てて傍らをみるが、白いシーツの海の中に彼がいない。ボフボフとシーツを叩いて波を一つずつ潰したが、やはりそこには自分意外の姿はなくて、分かった途端に、温かかったベッドに冷えた外気が流れ込み、枕に顔を埋めて溜め息をついた。枕からは微かに彼の髪の匂いがする。珍しく今日は二人揃ってオフになるというので、昨夜は、感極まって彼をここに押し倒し、自ら跨がり彼の熱を受け入れた。思い出すと身体が疼いて、きれいに流したにも関わらず彼の熱情を注がれた中が熱く感じる。
 自重しろ。傍らに彼がいなくて良かったと一人ごちた。もしここに彼がいたら、きっとまた堪らず押し倒してしまっただろう。なにせ私は自他共に認める我慢弱い男だからだ。まぁそれも悪くはない、悪くはないが…しかし、こう盛ってばかりでは彼に好き者だと誤解されはしまいか。確かに、彼と抱き合うことは喩えようもなく気持が良くて、私はいつも我を忘れてあられもなくよがってしまうが、それは彼の身体が堪らなく嫌らしいせいだと私は思う。張り詰めた筋肉を内包する、雪のように白く滑らかな肌が興奮で赤く染まる様はとても淫らで、衝動を堪える時の硬く寄せられた眉は壮絶なまでに官能的だし、引き結ばれた唇がほどけた瞬間はまた堪らない。
 あぁ、確かに私はおかしいのかもしれない。
 彼の美しい青碧の瞳に見つめられるだけで、年甲斐もなく胸踊らせている。こんなにも好きだ。彼になら、跪いて情けを請うのもいとはないのに…私は寝乱れたベッドの上で一人溜め息をつく。
 と不意に嗅ぎ慣れない匂いが鼻孔を掠めた。
 なんだろう…匂いはキッチンの方から漂ってくるようだ。くんくんと鼻を動かし匂いを嗅ぐ。それは不快な香りではなかった。ただ無性に……腹がへる。
 匂いに釣られた私は、キッチンへと向かった。

 キッチンには予想どうり彼がいた。
「なにをしている?」
 引き締まった腰に腕を絡め彼の首筋に顔を埋めると、ぴったり抱きつく。
 すると肩越しに彼が笑ったのが分かった。おはよう、と額に軽いキスが落ちる。
 私からも挨拶と唇へのキスを返して、手元を覗き込む。銀色の深鍋に赤茶色の液体が煮えていた。どうやらシチューのようだ。
「朝から随分しっかりしたものを食べるんだな君は?」
「違うよ」
 彼は小ぶりで先の尖ったお玉でソースの表面を撫で灰汁をとっていた。時折ぷくりと泡がたつ。それ以外はほとんど変化がない鍋を彼は真剣な面持ちで眺めていた。何となく面白くなくて、すぐ側にある美味しそうな耳に噛みついた。
「イタッ……おい、なにすんだよ?」
「腹が空いた」
 すると長い指があやすように髪をすく。
「これは晩飯ようだ。朝食ならテーブルにパンとサラダがあるから」
「これが食べたい」
 何となく意地になって、更に強く抱きつくと、しょうがねぇな、と溜め息が前髪に落ちた。このままじゃ食えないから前に回れよ、と促されたので抱きついた腕を弛める。するといきなりグイッと腕を捕まれ、引き寄せられた。
「にに…にーる?」
 背中に彼の熱を感じる。剥き出しの太ももに彼の指が触れた。
「やらしい格好」
 そういえば下を履いていなかった…いまさらだが、パジャマの上着だけを羽織った格好だったと自覚した途端、恥ずかしさが込み上げてきた。悪戯に指が太ももを這い上がる。その微妙な感触に肌が粟立つ。離れようとしたが、さっきと真逆の体勢で腰を固定されてしまい身動きが取れない。相変わらず、鍋は静かに煮えていた。代わりに自分の心臓が沸騰する。
「鍋が焦げてしまうぞ」
「大丈夫だ、弱火だし暇つぶししながら様子見で十分」
 そういうと、後ろから強引に顎を持ち上げられてキスされた。今度は触れるだけではない、舌を絡めて貪り合う。しかし、良いところで唇が離れてしまった。思わずもっとと続きをねだるが、彼は再びお玉を手にとり、小皿に鍋の中身を掬って手渡してきた。
 不満はあるが、食欲をそそる匂いと好奇心に負け口をつける。がそれは想像とはまったく異なる味だった。
「……酸っぱいが、味が無い」
「今はな、でも夜になったらすげぇ美味くなってるから」

「とろとろに蕩けたビーフシチューを食わせてやるよ」

 だから大人しく待ってな、と耳元に吹き込まれたら、堪らない。おまけに腰を抱く腕は弛むことはなくて、肩に顎を乗せられ、頬を柔らかいくせ毛が撫でる。ほとんどゼロに近い距離。このまま夜まで待てというのか…?
 待つのはいい。だがしかし重ねて言うが私は我慢弱いのだ。



 シチューの前に私自身が溶けてしまうにちがいない!

+end+



2009.3.7 拍手掲載
2010.1.3 サイトup

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