※後編に男性同士の露骨な生描写が見られます。18歳以下の方は閲覧しないで下さい。

『 ねこ日和・番外 ホワイトデー編 』

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「ただいま、ニール!」
 バンと音を立ててドアを開いたグラハムだったが、家の中の様子がいつもとは少し違っていた。いつもなら、対面式のキッチンに立つニールが笑顔で「お帰り」と返してくれるのだが(八割はグラハムの妄想だ)、今日はそのニールがいない。
「ニール、いないのか?ニール、姿を見せておくれ、そんなに私の帰りが遅かったのが寂しかったのかい。なんて可愛い人なんだ、私の眠り姫――」

「うるさいっ」
 とその時、バスルームから求めた相手の声がした。
 バスルームを覗くと、トレーナーを肘まで捲りあげたニールが泡だらけになりながら、かがんでいる。
「……何をやっているのかね?」
「見ての通りだけど」
 するとニールの泡だらけの手の中から、これまた泡だらけの白い塊が飛び出して来た。飼い猫のグラだ。グラは尻尾を立てて全身をプルプルと振った。そのせいでグラハムのシャツにも泡が飛ぶ。……染みが付いてしまった新品のシャツに、軽い怒りを感じたが、ニールの声で我に返る。
「おい、こら大人しくしろって」
 ニールが叱ると、グラは鋭い威嚇の鳴き声を上げて抵抗した。どうやらお互い一歩も引かぬ徹底抗戦の構えらしい。普段は比較的大人しい(ニール限定で)猫だが、風呂は徹底的に嫌っていた。それらしい気配を見せるだけで逃げようとするから、いつも半日掛かりになってしまう。
「……どうしても今洗わなければならないものだろうか?」
 ニールが青緑色の切れ長の双眸を鋭く細めてグラハムを睨んだ。
「しょうがねぇだろ……ちょっと買い物に行ってる隙に台所へ入っちまったんだよ……で乾物の棚に気づいたみてぇで、煮干しを食われちまった。まぁそんなのはいいんだけど、一緒に入ってた小麦粉を袋ごとひっくり返しちまってさ、キッチンは真っ白になるし、おまけに小麦粉が珍しかったんだろうな、俺が帰って来た時には小麦粉の上で転がって遊んでてさ……こらこら、動くなってっ」
 なるほどそれは大変だっただろう、と想像した。とその時、一瞬の隙を突いてグラがニールの手から飛び出した。慌てて捕まえようとするが、シャンプーのせいでぬるぬるしていて上手く掴めない。
「ドアを閉めろ!」
 ニールの叫びにグラハムは慌てて、バスルームのドアを閉じた。するとバンと何かがドアにぶつかる音がして、ガタガタと格闘する気配が数秒間。そのあとは先ほどまでの騒ぎが嘘のように静かになった。
「……あの……」
 ドアを開けてもいいものだろうか、様子が気になったグラハムが恐る恐る伺いを立てようとした時だ。ドアの中からニールが言った。
「悪ぃけど、夕飯ないから、ピザ取ってくれよ」
 なんと、仕事帰りの恋人を使うと言うのか?喉から出かかった不満を寸でのところで飲み込んで、グラハムはバスルームを後にした。反論しようにも出来ない雰囲気だ。あそこで再びバスルームへ突入する勇気はグラハムにはなかった。


 とりあえず、ピザを2個とビールを頼む。味は適当にグラハムが好きなサラミ入りのとミックスにした。後で文句を言われても知ったことではない。と電話を切ったところで、ニールが出てきた。髪までぐっしょり濡れている。
「お疲れ様だな」
 まったくだ、と長い溜息を一つつき、そのままカウンターのスツールに腰掛けた。腕の中にはバスタオルに包まれた猫がぐったりと伸びている。
「今日は特に酷かったな、まぁ、俺も最初に見たとき、ついカッとなって怒鳴っちまって悪かったよ」
 ごめんな、怖がらせちまって、そういうとニールはバスタオルの中の小さな耳にちゅっと小さなキスをする。タオルから覗いた白い頭は毛が濡れて張り付いているせいか、いつもの半分ほどの大きさしかないように見えた。
その小さな頭を、そっとタオルで拭うニールの手は壊れ物を扱うように慎重でとても優しい。さっきまで怒鳴っていたのと同一人物とは思えないほど慈愛に満ちている。
「でも、正直小麦粉くらいで済んでよかったな。アレが洗剤とか毒だったらと思うと、ぞっとするぜ」
 ニールの双眸は今は穏やかに凪いでいおり、愛しげに腕の中の小動物を見つめている。その表情には先ほどまでの殺気だった様子は皆無だ。基本、ニールは穏やかで優しい、特にグラに対しては顕著で、甘過ぎると思うときもあり、めろめろだと言っても過言ではなかろう。だがその愛情が時にはあのような激しい怒りを引き起こすのを、グラハムは身をもって知っているだけに、猫に同情する気分もあった。だがしかし、ニールの腕に包まれていたグラは最初こそ強張っていたが、その緊張も徐々に解れて、気持ち良さげに緑色の丸い目を細め、喉を鳴らし始めた。
 まったく、嵐のような存在だ。というより、この一月は嵐のような日々だった。家の庭で蹲っていた子猫を拾ってグラと名付けたのはニールだった。しかし、子猫を飼うというのは想像以上に大変なことで、予防接種を受けさせたり、トイレの躾や、猫グッズを買いそろえたり、部屋の中もグラに合わせて変えなければならなかったし……何せ動けるようになったグラはちょっと目を放すと直ぐに家具や電化製品の隙間に入り込んでしまうのだ。そのたびに、何か変なものでも食べたりしないかニールは必死で探し回っていた。で、結局部屋の模様替えをした。餌やりもあるし、日常生活を猫中心に変えざるを得なかった。しかし飼うと決めた以上は責任を取らなければならない。小さくてぬいぐるみのように可愛らしくてもグラは自分と同じ一個の命で、一緒に暮らすなら家族同然、子供みたいなものだとグラハムも思っている。
 全てはニールが決めたことだ。グラハムとしてはニールが幸せなのなら問題はない。
 するとグラがコチラを見上げてナァーオと鳴いた。緑色の丸い瞳が問いかけるようにコチラを窺っている。
 この目が曲者なのだ……
 如何にもか弱い光に甘い眼差し、頼りなげな鳴き声に、折れてしまいそうなほど小さな身体、庇護欲を掻きたてる為に生れたような存在だ。その実、この生き物は自分の魅力を理解して人間に取りいる狡猾さも持っている。全部分かっててニールにだけ甘えているのではないか?そんな風に感じる時がある。

 グラハムはちゅちゅっとキスをしながら、猫とのスキンシップを楽しんでいるニールを眺めた。
 とても楽しげな二人(正確には一人と一匹だが)を眺めていると、なにやらもやもやとした感情が湧きあがってくる。その時、ピンポーンとチャイムが鳴った。グラハムが出ると、ピザ屋だった。代金を払ってピザと缶ビールを受け取る。ビールはあまり冷えていないようだった。リビングに戻ると、相変わらずニールはグラを構ってご満悦だ。グラはタオルの上に小さな身体を仰向けに横たえ、腹を撫でられていた。気持ちいいのだろう、リラックスして伸びた手足が時々揺れる。グラは基本は雪のような毛皮を持った白猫だが、腹にアメーバのようなの茶色い模様があった。今のところ腹を撫でさせるのはニールだけで、グラハムなどひっくり返しただけですぐさま逃げられてしまう。この温度差はないんじゃなかろうか、私とて一応飼い主なのだが、とは常々感じていることだ。私だって慾を言えばあの柔らかそうなお腹を撫でてみたいのに……。なんだか一人だけ取り残されたようで面白くない。むしゃくしゃついでにいちゃついている二人を無視してソファーに座ってピザの箱を開けてみる。
 すると中に入っていたのはグラハムが注文したサラミではなくて生ハムがトッピングされているではないか。なんだか踏んだり蹴ったりだ。
 それでもチーズの焼けた匂いを嗅ぐと、空腹が騒ぎだす。とりあえずニールに、冷める前に食べようと誘うが、ああと頷くだけで一向に動こうとしない。
 全部食べてしまうぞ、と脅してから一人で食べ始めた。食べ始めると最初は上手いが二切れ目を超えると飽きてくる。時間が立って固まり始めたチーズともさもさした生地を黙々とビールで流し込んでいると、ニールが言った。
「ビールも頼んだのか?そういや切らしてたもんな。でも言ってくれれば買ってきたのに……こういうやつは高いんだよなぁ」
 不満そうな口ぶりにカチンときた。
「悪かったな、どうせ私は満足にピザも注文できない半端者だ!」
 なんだか無償に腹が立つ。
 生ハムだって嫌いではない、嫌いではないが今日はサラミが食べたかった。それに本当のことを言えばニールの手料理が食べたかったのだ。というより至極当然だと思っていたことが叶わないとこれほど凹むものなのか。
一度不満を口にしてしまえば際限なく吐き出してしまいそうで、グラハムはぐっとこらえて立ち上がった。
「風呂に入ってくる」
 昨日の夜は基地詰めで、丸一日以上ニールの手料理を食べていない。それに今日はホワイトデーだ。バレンタインデーの時は、二人でお互いにプレゼントを贈り合って、夜には少しだけ高いワインを開けてニールの手料理を食べた。二人だけで向き合って他愛のない会話を楽しむ、手がこんだディナーではないけれど、グラハムが買った赤いバラの花が飾られたテーブルの向かいに座るニールは綺麗で、彼を独占出来るのは喜びだった。ささやかに演出だけで十分特別な夜だったのだ。だから今夜だってそういう風に過ごすんだと、勝手に期待していた。
 こんなことで、落ち込むなんて馬鹿なことだ。まったく自分らしくない。私はもっと打たれ強い男だったはずなのに。
 こんなことではいけない。グラハムは浴槽の中で膝を抱えて決意した。
 これもすべてあの狡猾な小悪魔のせいだ。
そして、私という恋人がありながらあんな小猫にうつつを抜かすニールに、私の魅力を見せつけて、メロメロにしてくれよう。

 そうと決まれば、善は急げだ。グラハムは今夜のための準備に入った。

+ continued...



2010.3.19