『 天使のうた 』

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 雨粒が、灰色の石畳を黒く塗りつぶしていく。


 ロックオンは石造りの三階建ての建物の屋根裏部屋でターゲットが現れるのを待っていた。仕事が終ったら痕跡を残さず素早く撤収するために、暖房は付けていない。吐く息で、小さなガラス窓が白くかすんだ。
 ターゲットであるマフィアの幹部が一人でレストランに現れるとの情報を得て、張り込みを始めてはや三時間。慎重な男で、単独で出歩くことなどほとんどなく、ロックオンは一か月も待って漸くつかんだ情報だった。場所は市内のレストラン。白茶けた外壁に赤い庇がかけられている玄関、そこにターゲットが乗る黒いセダンが乗り付けられるはずだ、そこから男が下りてレストランの庇の影に入るまでの1メートル弱がチャンスだった。入口の前は結構大きな通りで、人通りも多く、通行人が行きかい石畳の歩道には色とりどりの傘の花が咲く。そこに目をやると、足早に通り過ぎる通行人の中で、一人だけ動かない人間がいた。玄関の庇に隠れるかどうかというところで、独特な青い制服を着た男が立っている。ロックオンは男にスコープを向ける。
「…ユニオンの軍人がなんでこんなところにいるんだよ…」

 ここはアイルランドだ、AEUの軍人ならまだしも、海の向こうのユニオンの軍人が何故…もしやターゲットの護衛か?いやそんなはずはなかった。確かに男はAEU軍上層部とのつながりが噂されているが、噂の域を出ない不確定の情報だった。ましてやユニオン軍など…ひょっとしてユニオンの要人でもいるのだろうか、だとしたらいささか厄介だ。今回のターゲットとは関係ないだろうが、しかし騒ぎが大きくなると逃げにくくなる。それとも、ただの偶然なのか。いぶかしむと同時に、左側から黒塗りのメルセデスが現れて、ロックオンは慌ててライフルを構えた。ナンバーを確認する。今回の暗殺のターゲットの車に間違いない。どうするか。迷った一瞬、スコープの中で、男が顔を上げた。男にしては大きな意志の強そうなグリーンアイズがロックオンを捕らえた…気がした。ほんの一瞬…それも大通りを隔てたビルの屋根裏部屋に身を潜めたロックオンに気づくなんてありえない…しかし、次の瞬間、黒塗りのハイヤーが横付けされた。来た、ロックオンは銃を構える。ドアが開き、男の背中が見えると同時に、ロックオンは引金を引いた。この瞬間を待っていた。このまま心臓を打ち抜く、そうすれば一瞬で終わりだ。がその時、ロックオンが予想だにしなかったことが起きた。スコープの中に青い影と金色が割り込む。
「…なっ…」

 倒れたのは、青い制服の男だった。

 ほこり臭い屋根裏部屋のなかで、まるでスローモーションの映画を見ているように、鮮やかな色彩が踊る。
 ライフルに装着された狙撃用スコープの円い視界のなかで、この北国では珍しい鮮烈なセリリアンブルーが踊った。それは軍服だった。ユニオン軍の制服を纏った男の背中だった、そして一瞬の静止の後、弾かれたように仰け反る背中にロックオンが放った銃弾が貫通した。ゆっくりと広がる金髪が、重く湿り気を帯びた大気中にも関わらず、きらきらと中で広がっていく、その一本一本まで判別できるほど、視界はクリアで、ゆっくりとそれこそ踊るように揺れながら、男は倒れた。

 倒れこむ男に合わせて、スコープをわずかに下げる。すると今度は石畳に広がる金色の髪が見えた。まるで木漏れ日のように鮮やかな金色。その色彩の対比に眇める。濡れて黒光りする石畳に広がる軍服の青、それから金色。それらの鮮やかな色彩を塗りつぶすように、どす黒い赤が侵食していく。

 視界の端に、殺すはずだったマフィアの幹部が、呆然と尻もちをついているのが見えた。しくじったのか?両腕に軽い戦慄が走って、もう一度ライフルを構えなおそうとした。失敗した…信じられない思いと同時に、今ならまだ狙えると冷静な殺し屋の自分が言った。やるなら今だ、今ならまだ間に合う。マフィアは今茫然自失状態で動けない。もう一度構えて発砲すれば間違いなく狙ういてる。簡単な作業だ、だから早く銃を構えろ。早くしろ。しかし理性に反して、ロックオンは倒れた軍人から目を離すことができなかった。正確には、彼から零れおちていく赤い血から。男の命が、あの赤い血になって冷たい地面に零れおちている。誰にも受け止められることもなく。
 ちょうどその時、ポニーテールの長髪を靡かせて駆け付けた背の高い男が、膝まづいて軍人に覆いかぶさるのが目に入って、そこで漸くロックオンは軍人から視線を外すことができた。



 生暖かい血で覆われていく石畳。見る間に人垣ができて男はロックオンの視界から消えた。

 彼は死んだのか?

 …俺が殺した?


「お前が、殺したんだ!!」


声が、聞こえた。






ピンポーン。


 マヌケなインターフォンの呼び鈴で、目が覚めたロックオンは、己の右手を透かして天井を見た。あまりに鮮明で…なんだって、またあの時の夢、一番最近の仕事の夢だ。…あまりに鮮明で、すぐには夢だと認識できないような夢。ロックオンは呆然としながら頭上に翳した自分の右手を眺めた。そう、ここは自分のマンションで、俺は今ライフルを手に標的を狙っていたわけじゃない。

ピンポーン。

 繰り返されるベルの音に、ロックオンは不機嫌に眉を顰めた。

「…こんな夜中に、なんだってんだ…」

 まだ重い手足を、叱咤して玄関まで行く。サイドボードにしまってある拳銃を持って。固いオーク材のドアに向って拳銃を構え、インターフォンの通話ボタンを押した。液晶画面には金髪の若い男が映っている。
「なんの用だ?」

 液晶画面に映った男の顔を見て、ロックオンは驚いた。

 似ていた。さっきまで夢で見ていた男、間違って殺してしまったユニオンの軍人に。

(…そんな訳はない…あの男は死んだ。ニュースにもなったじゃないか…)
 新聞によると、男の名はグラハム・エーカー。ユニオンのモビルスーツ部隊MSWATに所属する中尉だという。仕事で訪れたアイルランドを訪問した際、たまたま寄ったレストランでライフルで撃たれて死んだ。新聞ではマフィア幹部との関係は取り上げられていなかったが、男はアイルランドを訪れるのは初めてで、知人も無いということから、彼を狙ったというよりも、事件に巻き込まれた可能性が高いとの推測が書かれていた。
 そう確かに、あの男は死んだのだ。

 俺が殺した。

 あれ以来、暗殺の仕事はやってない。
 ライフルを構えるたび、あの時の光景が甦る。黒い石畳とセルリアンブルーと金色。鮮やかな色彩、それらを覆うどす黒い赤。鮮血。どれもさして珍しいものではないのに…なぜかロックオンの指は震えが止まらなくなってしまう。振り払っても振り払っても付きまとう。
 まるで恋い焦がれた女の面影のように。

 その時、インターフォンから明るい男の声が弾けた。

「初めましてだな、ロックオン・ストラトス」

 何故、名前を知っている…?
 新たな驚きに、悪夢は払拭され、警戒心が甦る。その名を知っているということは、彼は恐らく裏の家業の人間だ。仕事の依頼か?…いや、ありえない。この部屋のことはロックオンにいつも仕事を回すエージェントにすら教えていないのだ。ロックオンはもう一度拳銃を構えなおした。
 しかし、続いた言葉は、ロックオンの予想のはるか斜め上をいっていた。
「私の名はグラハム・エーカー。今日から君の守護天使だ」

 …グラハム・エーカー…?
 何故、その名を言う?

 驚愕は、成層圏すら突き抜けて、ロックオンは暫し言葉を失った。




2009.02.07

…いきなり死にネタですいません。