『 終息とシャムロック 』

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 エントランスにふと、明るい金色を見つけて、ライルは微笑んだ。薄暗い中、整然と並んだ郵便受けを真剣に睨みつけている一人の男がいた。濃い茶色のダウンジャケットを羽織り、白いニットのマフラーを首に巻きつけている。後ろから見ると、フードの淵に着いたファーの毛が取りの巣のように見えて、金色の頭はヒヨコのようだ。薄暗いコンクリートの壁に明るい金色がよく映えて、暗がりに溶け込むような地味な服装なのに引きつけられる。ライルは声をかけようかどうか迷った。声を掛けなければ、彼は立ち去ってしまうだろう。かといって声を掛ければ逃げてしまうかもしれない。
 しばしの逡巡ののち、ライルの部屋の郵便受けに手を掛けたところで意を決した。
「ハイ、どうしたの?」
 グラハムは驚いたのかビクンと肩を揺らして振り返った。その小動物じみた仕草に思わず笑みが零れた。
「……ライル」
「どうした?」
 近付きながら声を掛けて緑色の瞳を覗きこむ。すると直ぐに目を逸らされてしまった。ココに来た理由は分かっている、が知らないふりをする。するとグラハムは黙ってジャケットのポケットから何かを取り出した。
「これを返しに来た……済まない、昨日何かの拍子に上着のポケットに入ってしまったらしい」
 彼の白い手の中には銀色の四角いライターが乗っている。使いこまれて四隅は凹んで傷だらけだった。とても見覚えがある。それもそのはず、それはライルがいつも愛用していたジッポで、昨日の夜ライルが自分で彼の上着に仕込んだものだ。
「そっか、わざわざありがとな」
 そう返すと、グラハムは僅かにホッとしたような顔をした。しかしライルがいつまでも手を出さないでいると胡乱げな眼差しを向けてくる。その視線もお構いなしでライルは勤めて軽く彼を誘った。
「折角だから、部屋上がってけよ」
 いや、と断ろうとするのを腕を掴んで引きとめる。
「いいだろ、そいつは部屋まで返しに来てくれ、そうじゃなきゃ受け取らない」
「そんな必要ないではないか」
「いいじゃねぇか、コーヒーぐらい飲んでいけって」
 しかし、と尚も渋っているので、耳元に囁いてやる。
「いいだろ、その為にわざと仕込んだんだから」
 なんと、と耳元ででかい声で叫ばれる。思わず耳を塞いだ。
「わざとだったのか?!」
「そうでもしないと、もう逢えないと思って」
 種明かしはあくまで軽く。グラハムは呆れたように目を見張っていた。驚くと目が開いて幼さなげになる。最初は不気味に感じていた右半分の傷があまり気にならなくなっていたことに気付いた。勿体ないな、と思う。仰向けた細い面は僅かに頬が赤らんで、金色の癖毛が白いマフラーのせいで跳ねている。外は青空で穏やかな日光が降り注ぐいでおり、冬にしては温かい日和だった。ダウンジャケットにマフラーを着こんでいれば暑いだろう。顔が赤いのはそのせいかもしれない。大きな瞳はライルの背後に開けた街路の景色を映し、正面に立つビルのガラスや横切る車のフロントガラスの反射などを拾ってきらきら光る。薄暗いパブで俯いていた時には分からなかった。彼には、存外、光にあふれた青空の下が似合うのかもしれない。存分に光を浴びて、彼自身清々しく輝くのかもしれない。もし、傷のせいで俯いているなら、何とももったいないことだ、とライルは思った。気にすることはないと言ってやりたい。たぶん自分の言葉では気休めにもならないだろうが。
「あんたさ、そうやって顔あげている方が可愛いよ」
 すると、グラハムはきょとんとボケた顔をした。唐突過ぎて、誤解されたかな…だが無防備な表情を見れたことで、満足する。
 とワンテンポ遅れて、グラハムの顔がさらに赤みを増した。
「なっ……何をいっているのだ?!」
 やっぱり可愛い。存外素直な感情表現をする男なのかもしれない。ライルはそんなグラハムの表情の変化にいつの間にか夢中になっていた。




 無理やり部屋に連れ込むと、グラハムは借りてきた猫のように大人しくなってしまう。狭い肩をさらに小さくすくめるようにして、リビングのソファに収まっている。暖房が利いた室内で、ジャケットを預かるとき一瞬戸惑われてしまった。が意を決したのか、さらりと流れるような動作で上着を肩から滑らす。出てきた身体は濃いグレーのタートルネックのセーターで覆われていた。上質なセーターは彼の薄い身体にぴったりと張り付いて、背中に二つのこぶを作る。ライルは彼をソファに導きながら、彼の耳たぶに残る赤みが、暑さの名残か、それとも自分のセリフに対する反応の名残か考えて悦にいった。
 キッチンでコーヒーを淹れながら、ふと思い至る。そういえば自分はグラハムを通して彼の保護者(と言っていいのかどうか分からないが、愛人とは言いたくないので敢えて避ける)から軍の情報を得るために近付くのではなかったか?ついさっき、クラウスとそんな会話をした。こういうとクラウスに対する言葉が全て薄っぺらな嘘っぱちになってしまうかもしれないが、アレはアレで本心からの言葉だったのは間違いない。ただ、今こうしてグラハムといるとソレはソレでとても楽しいのも事実だった。彼の一挙手一投足に嬉々とする。もしくは耳をそばだてるように彼の言葉や息遣いを拾おうとする。階段を上る時の僅かな喘ぎも聞き洩らさなかった。そのためだけにまたエレベーターを使わなかったと言ってもいい。怪我をしているらしい人間に対してなんて鬼畜な、と呆れるが、昨日の夜の記憶がそうさせた。酔ってふらつく足元を支える為に密着した身体の感触は忘れがたくライルの記憶に残っている。あの螺旋階段が齎した親密感をもう一度味わいたかった。
 などと、小奇麗に言い繕ってみたものの、本当のところは単純に、下半身が齎した欲求というか、ぶっちゃけエロ心だよなぁ、とライルはため息をついた。そうしているうちに、いつの間にかコーヒーメーカーから湯気が立ち上り、ポットには並々と琥珀色のコーヒーが溜まっていた。出来上がったコーヒーを来客用の白いマグと自分用の黒いマグに注いでリビングへ運ぶ。
 するとキッチンへ背中を向けるようにして置かれたソファにグラハムがいない。ついさっきまでココに座っていたはずなのに…一瞬冷やりとした。がその心配は杞憂に終わった。気配を察知したのか黒いソファの背もたれから金色の頭が飛び出したのだ。振り返ったグラハムの目が光る。
「済まない…勝手に観てしまって」
 どうやら身を乗り出してローテーブルに置かれた画集を広げていたらしい。
「ああ、いいよ別に」
 目が利くことだと感心する。
「これは君の?」
 それは先ほどクラウスから借りてきた古い日本美術の画集だった。かなり昔の本らしく、肩手では余るほどの大きさと重さで、難渋したが、どうやらグラハムは早速その画集に気づいて広げていたらしい。
「いや、さっき借りてきたとこだけど」
「素晴らしいなぁ、この色!まさしく黄金の国という形容が相応しい」
 ため息をつくように吐き出された感想に、ライルは内心にやりと笑った。実を言えば、この本はグラハムのために借りてきた本だった。希覯本だからと渋るのを無理をいって借りてきたのだが、正解だった。
 彼の隣に腰をおろして、開いた図版を指差して説明する。
「これは中世の京都を描いた屏風で、洛中洛外図という」
「京都か…」
「これが宮殿で、コッチがお城」
「この巨大な風船はなんだ?」
「……これは京都の祭りの光景で、人が乗れるほど大きくて音楽を鳴らしながら街中を練り歩くんだってさ」
「凄いな!本当に面白い!とても細かいし、何より描かれた人々が生き生きしている。私もこんな所へ行ってみたいものだ。」
「同じような祭りが現代まで続いているらしいしぜ…」
 ライルのいい加減な説明もグラハムは画面に見入りながら真剣に聞いていた。そして次々に画面を捲ると、現われた作品についてあれこれと質問してくる。その一つ一つに答えようしているうちに(中には分からない質問もあったが)自分も本の中の作品に没頭していた。
「君も日本が好きなのか。随分詳しい。」
「…まぁね、大学ん時美術史の授業取っててさ。ほんの齧った程度だけど」
 大学時代美術史の授業を取っていたのが役に立つとは。当時は美術に興味があったというよりは、単に女の子の受講生が多いというだけの理由で履修した科目だったが、話を聞けば面白く、比較的真面目に聴講したので、甲斐があったというものだ。
「大学か。私はハイスクールが終わったらすぐに軍に入ったから知らないが、きっと楽しいのだろうな。私は日本が好きだが絵とか芸術とかいうものはからっきしダメなのだ…折角司令から色々見せていただいても全く分からない…全て同じに見える。私も君のように勉強すれば分かるようになるのだろうか?」
 淡々とした口調から言葉以上の含意は感じられなかったけれど、外見からして良いとこの生まれのエリートだと勝手に想像していた分、少し意外だった。実はかなりの苦労人だったりするのだろうか。
 話すうちに少しずつ彼の違った表情が見えてくる。意外に子供っぽくて、夢中になると周りが見えなくなるらしい。その隙をついて、ライルは一度彼の首筋に鼻を近づけてみた。香水の香りはしない。その代わり微かに芳ばしいような日向の匂いがした。第一印象はことごとく裏切られた。しかし悪い気分ではない。
 気がつくとテーブルの上で置き去りにされたコーヒーが冷めていた。

「なぁ、アンタさ日本美術に興味があるなら、今国立博物館で日本美術の展覧会をやっているから、一緒に来てくれない?」
 するとグラハムは目を細めて俯いて何か考えている。どうやら迷っているようだ。即答で断られると思っていたから(一度断られたくらいで引き下がつもりはない)、これはまた嬉しい誤算だった。
「休みになったら一人で行こうと思ってたんだけど、どうせなら興味がある奴と一緒に行った方が楽しいし」
 嘘ではなかった。全てでもないけれど。思惑はあっても、確かなのはグラハムと一緒なら楽しめそうだ、ということ。
「アンタさえ良ければ、他にも色々案内するから」
 結局グラハムはイエスとは言わなかった。
 けれど、待ち合わせ場所の地図と時間を書いたメモは受け取ってくれたから、上出来だと思うことにした。

++ continued...



2010.1.25