『 終息とシャムロック 』

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 壁一面の本棚を古い背表紙の本が埋め尽くして並んでいた。そのほとんどが骨董的な価値がある古書で、ライルはその中から赤い革に瀟洒な金文字が浮かび上がる渋い革製の背表紙の本を一冊選んで抜き出して適当なページを覗いて元の場所に戻す。同じように隣の本も目を通す。チョーサーの『カンタベリー物語』に、隣は『シェークスピア全集』、『イェーツ詩集』が続く。英語、フランス語、ラテン語の表記もあって知らない本ばかりだ。
 今時、効率の図書館の開架スペースにはこんな年代物は置いていない。しかし手にとった本のどれもがきつく締まっていた。ページを開くと癒着した紙同士が引き剥がされる感覚が指先を通して感じられ、埃っぽい独特な匂いが立ち上る。まるで初めて男を受け入れる処女みたいだ、そんな連想がよぎって、ライルは馬鹿馬鹿しさに笑みをこぼした。そうだ、連想ついでに、この部屋にグラハムを連れて来たらどんな顔をするだろうかと考えた。泣きそうな顔をするだろうか、それとも怒るだろうか。膨大な文字の集積を指でなぞりながら、ライルは兄のことを思い出していた。本好きだったなんて知らない、少なくとも一緒に暮らしていた時には本を読むよりもゲームとか外で遊んでいることの方が多かったように思う。そんな兄の知らない面を教えられると、自分たちが如何に遠い双子だったか良く分かる。今となっては、彼の顔さえ分からない。ただ、本が好きだということは、勉強だって出来たはずなのだ。なのに大学へも行かず、働いていたのは、きっと自分のためで。それを知っていながら、自分の現状はなんだ。仕事は嫌いではないし、やりがいもあると思う。だが、安穏とした日常に流されるようにして毎日を過ごしているという思いもどこかにあった。
「なぁ、コレ全部お前の?…、一体何冊あるんだ?」
 机上の端末に向かっていたクラウスが顔を上げた。ずり下がった細い銀縁の眼鏡を指で持ち上げる仕草がこの部屋には変に似合っている。さすがはこの国でも有数の旧家の主といった趣だ。
「爺さんの頃にはほぼ現状になってたらしい…親父はまったく無関心だったし…まぁ集めたのは爺さんの爺さんかその前か、どっちにしろ、実用品というよりは道楽だな」
 ライルはクラウスの正面左側に置かれた椅子に腰かけた。ゆったりとした椅子で、背もたれと肘掛の緑色に金糸の草花模様があしらわれたクロスが貼られたビクトリアンチェアだ。ライルは惜しげも無く長い脚を優雅に組んで顎を傾けた。
「なぁ、クラウス。火貸してくれよ」
 部屋の主は親友の願いに渋面を作って答えた。
「書斎は禁煙だ。本が痛む」
 碌に読みもしない癖によく言う、ライルは肩をすくめて指に挿んだ煙草をくるくる回した。
「あんたの先祖の煙をさんざん被ってんだろ、今更俺のが加わったくらいで何も変わらねぇよ。なぁ、外じゃほとんど吸えないんだからいいじゃねぇか。」
 するとクラウスは一瞬だけ呆れた顔をしてから再び端末に視線を戻して言った。
「勝手にしろ」
 ライルは思い通りの返答にやりと笑うと、煙草を口に加えてぷらぷらさせて言った。
「…火貸して?」
「お前、愛煙家の癖にライターも無いのか」
「しょうがねぇだろ、お気に入りの奴が手元にねぇんだから」
 クラウスは小さくため息をついて、机の中を探ると一個のジッポを取り出して投げてきた。弧を描いて飛んできたジッポを両手で挟むようにしてキャッチする。
「サンクス」
 火をつけて、煙を深く吸いこむと、ゆっくりと吐き出した。芳ばしい香りが口に広がって舌が少しぴりりとする。社内やパブはほとんど禁煙のため、愛煙家にとっては肩身の狭い世の中になってしまった。だから彼のような理解者は貴重なのだ。
 たっぷりと煙草を吸ってから、ライルは今日クラウス邸を尋ねた本題を切りだした。
「ホーマー・カタギリって男知らないか?」
「…ホーマー・カタギリ?……さて、何者だ?」
「おそらくは連邦軍の偉いさんで、日系人」
 クラウスは端末で調べ始めた。暫くして短い口笛が聞こえたので、ライルは立ち上がってその画面をクラウスの肩越しに覗きこんだ。
「ビンゴか。」
「元ユニオン軍司令官か…かなりの大物だな」
 出てきた軍のデータベースをざっと見てライルは昨晩の車の男の顔を思い出す。鋭い眼光に面長の顔に顎髭を蓄えている、確かに同じ男だった。
「こいつなら、今軍が構想している新しい治安維持部隊について何か知ってるだろうな」
 クラウスは頷いた。
「間違いないだろう、だが、新しい治安維持部隊構想については極秘にされていて軍内部でも極一分の人間にしか知らされていない。全く情報がないんだ」
「だからさ、俺がこいつからその治安維持部隊の情報を探ってくれば、かなり使える男ってことになるだろう。お前の組織にとって」
 それまで、穏やかな表情が一変した。険しい眼光でライルを睨みつけた。
「ライル、何度も言うが、俺は君をこのことに巻き込むつもりはない」
「巻き込まれるんじゃない、俺自身が望んでいることだ。今の政府の遣り方はフェアじゃない」
 クラウスの気持ちも分からなくはない。二人は大学の同期で、その中でも一番親しい友人だ。クラウスは成績も優秀で性格も真面目、政治と宗教について勉強しており、中東へ留学もしている。イスラム文化にも詳しい。その伝手を通して彼が、中東を拠点にしている反政府組織のメンバーになったということを知ったのはつい最近のことだった。それを知ってまずライルが考えたことは、自分はどうしたらいいのか、ということだった。安定した仕事と収入があり、食う物にも困らない。家族はいないが友人も多いし寂しいことも無い。ただ、そのことを知った時、最初に浮かんだのは自分のことだった。自分は今のままでいいのか、とその時初めて疑問に思った。ライルも商社マンとしてあちこちへ行ったが、連邦政府が成立した後も、格差の広がりは改善されるどころではない。むしろ悪化している。先進国の国民が安くて美味い食品を得るために、中東や東南アジアの人々が信じられないほどの安い賃金で働いている。それどころか、連邦政府樹立後、政府は連邦に賛同しない国々への制裁を強め、特に中東は酷い。ただでさえ、起動エレベーター完成後石油資源を失った中東諸国は疲弊しユニオンなどに対する反感も強まっていた。そこへ連邦など口にしたところで、はいそうですか、と諸手を挙げて参加出来る訳もない。そんなこと分からないはずはないのに、彼らは平和の名の元、反対勢力を武力で抑圧しているのだ。それがどれほど過酷なものか、一般には知らされていないのが現状なのだ。
「俺が情報を持ってきたら、カタロンに入れてくれ」
 幸い、自分には昔鍛えた射撃の腕があるし、モビルスーツの操縦研修も受けていた。だから役に立つはずだ。
「しかし、どうやって探るつもりだ。治安維持組織についてはトップシークレットで、俺たちでさえほとんど情報を持たない」
 二日目の晩、グラハムの持ち物をチェックしておいて良かった、とライルは思った。
「そのホーマー・カタギリと極親しい人間を知っている」
 何?とクラウスが真剣な表情になる。もしそれが本当なら、クラウスとしても捨ててはおけない情報だった。連邦軍は未だに組織が固まっておらず流動的で誰がどれほどの権力を持っているのか掴めていない。だから軍内部に関する情報だったらどんなものでも喉から手が出るほど欲しい。特に新しい治安維持組織の構想はカタロンを始めとした反政府組織に対しての取り締まりの強化につながる。死活問題だ。だがクラウスはダメだと突っぱねた。
「クラウス、俺は本気だぜ。お前が反対しても俺はやる。お前は、俺が持ってきた情報を見てからカタロンに入れるかどうかお前が判断すればいい」
 グラハムを利用するようで罪悪感は拭えないが、彼には絶対に迷惑は掛けない。ただ、あのホーマー・カタギリという男に関する情報を探るだけだ。それに、ライルは個人的にもあのカタギリという軍人に興味があった。というよりも、カタギリとグラハムの関係について知りたかった。
 バスルームでのグラハムの口調は、上司と部下といった堅苦しい調子で、そういえば、グラハムは自分をパイロットだと言っていたから、ひょっとすると、本当に部下だったのかもしれない。しかしだ。ただの部下なら、わざわざ迎えになど来たりするものだろうか。それに。
(最後のあの目、ありゃあ明らかに俺に対しての牽制だよな)
 鷹のように鋭い眼光を思い出すだけで、背筋に震えが走る。グラハムは気づいていないのかもしれないが、アレは明らかに上司と部下といった関係ではない執着が感じられた。
「どこで知り合った?」
「パブでナンパ」
 なるほど、とこんな所ばかり納得しているクラウスが憎らしく思って思い切り彼に向けて煙を吐き出してやる。クラウスは軽くせき込んで確認してきた。
「本物なのか…?」
「じゃなきゃ、俺が偉い軍人の名前なんか知るかよ」
「確かに…で、どの程度親しい人間だ?」
 グラハムにカードと泊まるホテルを宛がい、強い執着を持つ人間。
「同じホテルの部屋に泊まる程度」
クラウスの目が光る。ライルはそれに笑みを浮かべて答えた。
 あの男とグラハムの関係を知りたい。それは確かに本音だった。だからコレは自分の個人的な興味でもある。
「でもって、俺の愛用のジッポは今そいつが持っている」
 少なくとももう一度グラハムに逢える。そう思うと気分が高揚していくのを感じた。

++ continued...



2010.1.13