『 終息とシャムロック 』

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 と突然、グラハムが笑いだした。
「こんな醜い男ですよ、傷だらけで、盛りも過ぎた敗残兵を……分かってないのは貴方の方だ!」
 激昂したグラハムに対し、ホーマーの腕が強く肩を掴んだ。ピリピリとした怒りの空気が伝わってくる。分かっていた。彼はそんな外見のことなど気にしたりはしないだろう。純粋に私のパイロットとしての資質を見込んでくれているのだ。だからこれは自分の甘えだった。そんなことはないと否定してもらいたいがための虚言だ。もしくは、醜くともこの身体が欲しいと求められたいのだ。そうすることで今の自分の価値を確認しようとしている。
 最低だ、とグラハムは唇を噛んだ。そんなグラハムを力づけるように、肩を握る手の力が強くなる。握りしめられた骨が軋んで鈍い痛みが走った。
「君は誰よりも青空が似合う青年だった。私はあの頃の君を取り戻して欲しい。ユニオンの旗手として先陣を切って空を駆けた君に」
 真摯な言葉に、顔を上げると、墨のような真っ黒な瞳がグラハムを一身に見つめている。ははは、とグラハムの口から神経質な笑い声が溢れた。
「ならば、私を抱いてください」
 彼の胸に縋りつく。そこはグラハム一人が縋りついても余りあるほどに広い。この胸に抱かれたいと思った。それがたとえ逃避でも。許して下さいと内心で詫びるながら彼の着物の襟を掴んだ。
「お願いです…そうでなければ狂ってしまう。身体の奥から酷い腐臭がするのです。私は…私は」

 こんなことを口走って、パブで、彼を見た時から自分はおかしくなったようだ。

 人混みを縫うようにして、近付いてくる男は、長身のため、人波から頭半分抜きんでていた。最初に気付いた時、頭が殴られたようにぐらぐらして、茫然として言葉もなくて。ニールだと思った。ニール、ニール…生きていたと歓喜が全身を駆け巡る。顔に火がついたように熱い。なのに同時に、足先は熱が地面に拡散していくように冷えていく。どうして今頃?そんな気持ちが、全身の筋肉を硬直させて動けない。ただ、近付くにつれ錯覚ではなく、現実なのだと分かって、いよいよあの他にたとえようのない海のような青緑色の瞳の色まで判別できる距離まで来た時、彼と目があう。声を掛けられるまで、グラハムは茫然自失状態だった。
 だが結局、それはグラハムの勘違いだった。
 彼はライル。ニールの双子の弟だ。同じ顔をしていても別人だ。

 このような戯言をぶつけて、女のように縋りついて、情けに縋って、無理やり心の奥に抑え込んで漸く忘れかけていた、ニールに棄てられた、という現実を忘れようとしている。ライルに会ったことで思い出した、これまで見て見ぬふりをしていた不安や悲しみが胸を塞いで息苦しい。この暗い影を払拭してもらえるなら、どんなものでも構わないと思った。私は、彼の好意を利用しようとしている。そう思うとグラハムは胸が痛んだ。酷いことをしているという自覚はあった。だがもう止められない。

 ホーマーの鋭い視線が突き刺さる。その冷酷なまでに鋭い視線が、取り繕った外面を引きはがす。司令には自分の醜い内面も見透されているだろう。グラハムには分かった。恥と思う気持ちと同時に、彼の前に全てを晒しているという感覚が気持ちが良い。
 ホーマーが乱暴に、グラハムを床に押し倒した。シャツ越しに毛足の長い絨毯が当たる。そのままホーマーの手がシャツの袷から覗く白い首筋を抑え、息がかかるほどの距離に近付いた。そしてついに熱い唇が襟の間で剥き出しの鎖骨に触れた。最初に少し乾いて堅い表面が触れた後、軽く吸われると今度は内側の柔らかい皮膚が触れて、その奥のさらに柔らかく湿った舌が掠めていく。他人の唇が皮膚を這う感触はとても久しぶりだ。アルコールに火照った身体にはたやすく火がついて、吸われると赤い跡がつく。
 いよいよだ、いよいよ時が来たのだ。
 司令に抱かれようとしている。山のように聳える巨体が作る黒い影の中で、グラハムは身体をこわばらせた。緊張しすぎて息が上手く出来ない。…司令の顔が上向いてグラハムの顔面に向けて近付いてくる。額と額がぶつかって、二人の鼻頭が交錯する。あまりの近さに相手の表情は分からない。ただ甘さの欠片も無い鋭い眼光が剥き出しであることは分かった。キスされる。そう思った途端、身がすくんでグラハムはきつく瞳を閉じてしまった。
 しかしそれ以上、司令はグラハムに触れることはなかった。グラハムが瞳を開けると、既に司令は上体を起こし、そのまま、グラハムが開いたシャツのボタンを一つ一つ元通りに直していく。
「…心にもないことを言うものではない」
 驚きで茫然とするグラハムの肩を支えて上体を起こさせる。今度は先ほどとは違い、温かい手のひらが肩甲骨から肩までを覆うように支えてくれる。相変わらずその手は熱く、乗り上げている下半身が堅く隆起していた。ホーマーが非常な自制心で感情を抑えているのが分かる。
「…なぜ…」
「もっと自分を大切にしなさい」
 そういうと、グラハムをそのままにして立ち上がってしまった。
「ホーマー様!私は、…私は貴方にそのようにしていただく資格などありませんっ」
 だから好きなようにしてくださいませ、そう叫んだグラハムに司令は厳しい表情を僅かに緩めて笑みを浮かべた。いっそ乱暴に抱いて、自分の中に澱のように溜まるかつての恋の残留物を払い落してくれればいい。
 しかしホーマーはそんなグラハムの弱気を振り払うように、力強く言い切った。
「私が勝手に信じているんだ。君という存在を、その価値を」
 だから好きなようにする、そういうと司令はベッドルームへ下がってしまった。
 なんというお方だ…グラハムは再び床に横たわって天井を睨んだ。己の汚い内面を見透かしてなお、信じて下さるというのか。
 グラハムの頬を涙が伝った。

++ continued...



2010.1.7