『 終息とシャムロック 』

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「お兄さん、観光客かい?」

 突然、そう声を掛けられて、グラハムの意識は過去から現在の酒臭いパブの喧騒へと立ち返った。すると目の前に、あの懐かしい顔があった。予想外に近い距離だった。あまりの近さに顔をそむけるが、頬が熱い。きっと赤くなっているに違いない。それを見られるのが嫌で、顔を戻した。すると、青緑色の双眸がうっすらと眇められて、グラハムを見ている。今となってみれば、おかしな話だが、あの時はよほど舞い上がっていたようだ。記憶の淵から、目の前で言葉を掛けられたことに舞いあがって、何を言われたか理解していなかったらしい。観光客かと聞いてきた時点で、おかしいと思うべきだったのだが、その時のグラハムは言葉より、胸を締め付けられるような懐かしさに他のことを考える余裕はなかった。
 後はもう衝動のままに、口走っていたため自分でも何を言ったのかよく覚えていない。ただ、久しぶりに触れた他人の唇はとても温かくて僅かに湿った息が掛かってくすぐったかった。キスの感触も同じとは…それとも、単に自分の記憶が不確かになっているだけなのだろうか。グラハムはそっと自分の唇に触れた。ニールとのキスを思い出そうとするが、甦るのは昨日のあのキスの感触で…こうして塗り替えられていくのだろうか。
 グラハムは一つライルに嘘を吐いていた。ニールについて何も分からなかったと言ったが、アレは嘘だった。本当は漠然とだが知っていたのだ。彼は常に黒い革手袋を着けていた。愛用のベストの本が入っているのとは反対側のポケットに常に小型拳銃を忍ばせていた。そして複数の携帯を持ち、相手によって使い分けているようで、時々、グラハムに隠れて誰かと連絡を取っていた。なのに、彼の口からは一度も友人の話が出たことはなくて、…あんなに人好きのする青年だったにも関わらず…それらの状況が示す可能性にグラハムは思い当たる節はあっても敢えて黙殺していたのだ。私の時はどれを使うのだろうか、と埒も無く想像して嫌な気分になったものだ。
 だが、その狡さが致命的になるとは、今更後悔しても遅い。
 ライルはどうなのだろう。自分のことばかりで精いっぱいだったが、思えば彼にとっては双子の兄だ。それが二年も音信不通になっていたのだから、心穏やかであるはずがない。突き放した物言いで、何か複雑な心情を明かしていたが、言葉通りとは思えない。もっと深くて重い感情が透けいたように思う。彼はニールをどう思っているのだろうか?そしてニールは…何を思ってあのブックカバーをライルに預けたのだろうか。
 考えれば考えるほど分からなくなる。
 もうこれ以上、混乱させないでくれ。グラハムはそっと目を閉じた。すると頭に大きな手が置かれた。
「具合が悪いか?」
 手のひらがそっと額に置かれて、そこから温もりが沁み込んでくる。ホーマーの温もりはグラハムの混乱した思考をゆっくりとほぐしてくれた。グラハムは僅かに肩の力を抜いて、肩に回された力強い腕に体重を預けてみる。そのくらいでは揺るがない力強さに全身の強張りがほどけていく。大きな手がゆっくりとグラハムの髪を撫でていく。その感触を感じながら、ホテルに着くまで数分間、グラハムは目を閉ざし続けた。


 ホテルは、ライルと出会ったパブから数ブロック離れた場所にある。石造りを模した建物は洗練され高級感が漂っている。礼儀正しいドアマンに促され、中に入ると、先ほどとは打って変わった上質な空気に背筋が伸びた。二人がカタギリ司令の会議中滞在しているのは、スイートで、夜景が見えるリビングとクイーンサイズのベッドが二つのベッドルームがある。毛あしの長いワインレッドの絨毯を踏みしめながら、夜景を眺めると、不思議な気持ちになった。
 まさか、ニールの故郷をカタギリ司令と二人で訪れることになろうとは、考えもしないことだった。司令は何処まで知っているのだろう。おそらく、司令はグラハムに男の恋人がいたことは知っているようだ。そしてその男と別れたことも。アイルランドがその男のゆかりの地であることも、知っているのかもしれない。思い起こせば、ココに来てからのグラハムは確かにいつもと違って情緒不安定だったから。こうやって司令の仕事についてくることも何度かあったが、夜中にパブへ出掛けるようなことはなかったし、それどころか、普段はほとんどホテルから出ることも無く、それで心配を掛けていた。

「君が自分から街へ出るのは珍しいことだ。思えば今回の同行も自分から申し出たしな…何かこの地に縁があるのかな?」
 特には、と呟いてからグラハムはうっそりと微笑んだ。
「私が外へ出るのはお嫌いですか?」
「そうではない。君も時には息抜きも必要だと理解している…君はまだ若い」
「お戯れを、私はもういい年です」
「ならば私は老人か?」
「…すみません、貴方こそいつまでも壮健でいらっしゃいます。私には貴方が軍で担う重責にはとても耐えられそうにありません」
 するとホーマーはグラハムの正面に立つとじっと探るように睨んだ。
「あの男は何者だ?」
「只酒場で行きずりに一緒に酒を飲んだだけです」
「たまに出掛けると思っていたが、そんなところに通っていたのか」
 呆れたように眉を顰める元上官に、グラハムは申し訳ありませんと答えた。

「最近酒が過ぎるぞ」
 案に酒場通いを窘められて、グラハムは笑った。その通りだ。だが酒でも飲まなければやっていられなかったのだ。ココに来た時から、ニールのことが思い出されて辛かった。だから最初は部屋の酒を飲んだが、それでは司令に酒量が知れてしまうのですぐやめた。次にホテルのラウンジへ行ったが、コチラはあまりに高級で性に合わない。それで昨日から当ても無く街へ出た。そして最初の店で、ライルに出会ったのだから、冗談にもほどがある。
「貴方がかまってくれないからです」
「私は君の身体のことを思って言っている」
「貴方が命じるなら、酒場通いを止めますのに」
「これは命令ではない。私は君の上官ではない、今は」
「ならば、命じてくださるまで止めません」
 グラハムは己の顔の傷口を指でなぞりながら挑発的な視線を投げる。
「彼は…この傷が珍しかったのでしょう。向こうから話し掛けてきました。気さくな男で、私が今日同じパブで酔っぱらいに絡まれたところを上手く逃がしてくれたのです。ただその時にギネスをかけられて…」
 細い指でシャツのボタンを一つ、また一つと外していく。顕わになるのは傷だらけの醜い肌だ。がそれを食い入るように見つめるホーマーの視線にゆっくりと肌が熱くなる。焼けるようだとグラハムは思った。熱くて熱くて、薄い表皮を通して内臓まで透かしてみせるほど、グラハムは空いた手をホーマーの胸に置く。
「シャワーを借りただけです」
 パン、と激しい音が部屋に響いた。司令の大きな手がグラハムの左頬を叩いた音だ。彼の視線に籠る熱はあからさまで、セクシャルだ。それを利用する己が一番汚い。そう思った。
「お前は、何も分かっていない」
 鈍い痛みとともに、シャツのボタンがはじけ飛ぶ。大きな手がシャツの襟を力づくで引き裂いたのだ。
「その身体を、見せたのか?」
 ホーマーは褐色の瞳を眇めて、矢のような視線をグラハムの白い肌に突き刺した。その強さがグラハムの心が疼く。彼の視線に晒されるのは、求められているということをまざまざと感じさせ、心地よくもあり心苦しくもある。
「あまつさえ、その肌に触れさせたのではあるまいな?」
 司令は強い自制心でもってそれ以上先へ進むのを耐えている。
 しかしグラハムはそれがもどかしい。どうせもう惜しむことなどない身体だ。乱暴に、力づくで、征服してくれればいいのに。彼の腕に全てを委ねてしまえれば、残骸のようにこの身体にこびり付くニールの記憶を消せるだろう。ライルのキスが、ニールのキスの感触を上書きしてしまったように。

++ continued...



2009.12.16