『 終息とシャムロック 』

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 諜報部から送られたデータを見ながら、グラハムは細い眉をしかめて、パイロットスーツのグローブに覆われた右手で、目の前の強化ガラスを叩いた。その向こうにはたった今整備を終えた愛機がいる。背中にはグラハムをいつも空へと運んでくれた二対の翼、フライトユニットの代わりに、円錐形の疑似GNドライブを装着している。カタギリが不眠不休で働いたおかげで、漸く、CB殲滅作戦に間に合った。この機体で、今まさにグラハムは出撃しようとしていた。
「このタイミングで、最後通告とはな」
 ずるりと力が抜けるままに、膝をついた。顔を覆う左手の隙間から、金属の低い天井が見える。喉の奥から乾いた息が込み上げる。吐き出された息は、笑いのような咆哮のようなリズムに変わり喉を震わせた。まるで荊を吐き出すように、グラハムは呟いた。
「…君は一体誰なのだ、ニール」
 諜報部からの簡潔なメールにはこうあった。ニール・ディランディは十年前のアイルランドで起こったテロ事件の際以来、生死不明――と。


 別れは、最後とは意識することなく訪れた。タクラマカン砂漠での合同軍事演習の頃からだ、ニールからの連絡がぱったりとなくなったのは。何度も電話を掛けたが通じなくて、メールを送ってもアドレスが存在しないと返ってくる。最初は、旅行にでも行っているのだろうと思った。もともと毎日連絡を取っていたわけでもなし、一月ほどは気にもしなかった。だが、一月を過ぎて、なおもメール一つ届かないことに、さすがに怪我か病気でもして入院しているのではないかと心配になった。だから思いつく病院に全て連絡してみたのだが全て空振りで、安心すると同時に、そこで気づいた。自分は彼の住所も、生年月日すら知らないということに。そんな基本的なことすら知らないのだ。知っているのは名前と年齢…それからAEU出身で、ジャガイモが好きで、いつもグローブを外さないこと。笑うと目じりに細い皺が出来ること、グラハムはその皺が好きだった。本が好きだったこと。いつもベストの胸ポケットの中に小さな文庫本を忍ばせていて、読み込まれた紙の表紙が寄れて皺が出来ていた…だからブックカバーを送ったのだ。彼も気に入ってくれたようで、次に会った時からは彼のベストには茶色い皮のブックカバーが収められるようになった。本の中身は様々で、小説のこともあれば旅行記やエッセイなど多岐にわたっている。どちらかというと最近の作品より20世紀以前の小説が多かったように思う。そのほか現代のエッセイ、旅行記や政治評論などジャンルは多岐に渡っていて、是といったこだわりは無いようだったが、一つだけ共通点といえるのはいずれも紙の書籍だということだ。データ配信が当たり前になった昨今では彼が持っているような紙の本は骨董品扱いで、グラハムも実際一冊も持っていなかった。携帯端末で幾らでも読めるのに、彼は敢えて紙の本を選んでいるという。紙を一枚一枚めくる動作が好きなのだと。文字を追うごとに後ろへずれていく栞の位置を確認するのが好きだと言った。いつも手袋をしているからページを捲るのが大変だろうに、彼の仕草は淀みなく一切苦労している様子がない。それが不思議で、彼が読書する様子をただぼんやりと眺めていた。だが我慢弱く落ち着きがないからすぐに飽きて、ソファの背もたれから覗くニールの首筋、おくれ毛とTシャツの間の柔らかい皮膚にキスをして、振り返ったニールに「邪魔をするな」と怒られる。そんなささやかなやり取りの記憶が脳裏に浮かんで。思わず目頭が熱くなってしまう。本当に愛すべき日々だった。何ものにも代えがたいものだったのに。全ては失ってから気づいた。本当はもっと早くに話し合うべきだったと後悔しても、もう遅い。彼はいなくなっていた。本当は彼の仕事や住所など聞きたかったけれど、日々の何気ない優しいやり取りが愛しくて、そんなことは些細なことだと思ったのだ。自分のこととなると途端に口数が少なくなり、気まずげに眼をそらす。だから、話したくないなら聞かなくてもいいと思った。聞こうと思えばいつでも聞ける。それよりも、話をそらそうと触れてくる指や唇が気持ち良かったから、そんな柔らかな接触に絆された振りをしたのだ。いつか彼が話す気になったら、冗談混じりさり気なく聞いてみればいいことだと。だが、"いつか"は結局来なかった。完璧に姿を消したニールに、そこまで来るとさすがに楽天的なグラハムにも事態の本質が理解できるというものだ。いくら調べてもニールの素性は分からなかった。たった一つを除いては。

 ニール・ディランディという人間は、十年前のテロ事件で生死不明となっていた。つまり、世間的には既に死んだ人間だったということだ。
 ならば、自分が愛していた彼は、一体だれなのか?予想もつかない結果に、目の前が真っ暗になる。
 ニール…君は一体誰なのだ?
 それとも、ニール・ディランディという名前すら嘘だったのか。
 漆黒の機体が静かにグラハムを待っていた。グラハムは呼吸を納めるように深呼吸を繰り返す。出撃時間が迫っている、もう後戻りはできない。迷っている時間はない。グラハムは意を決して立ち上がった。




 最初から、こうなる運命だったのだ。そう思い始めていた。いくら掛けても繋がらない電話にももう慣れた。諦めがゆっくりと思い出を侵食して、穴だらけになっていた。グラハムは宇宙にいた。GNフラッグは順調に起動していた。無理やりGNドライブを乗せたため機体バランスが悪く、気を抜くとすぐにバランスを崩す。がそれは然したる問題ではない。乗りこなしてみせよう、グラハムには自信があった。フラッグでガンダムを倒す、それは誓いであって、今やグラハムを動かす唯一の動機だ。全ては、ガンダムを倒すため。そのためなら阿修羅をも凌駕する。
 緊張で張り詰めた意識をほぐすために、パイロットスーツのバイザー越しに漆黒の宇宙空間へ視線をやると、同時に、眼下に広がる地球を見た。地球はまるでガラス玉のように青く透明に輝いて、美しかった。思わず、張り詰めていた呼気が緩み、長い溜息が零れた。そして、懐かしい面影が脳裏をよぎる。
(君は、そこにいるのか?)
 フラッグの手を伸ばし、地球へ向けた。そしてフラッグの黒い手のひらに乗る地球を眺めた。なんと美しいのだろう。透明な大気圏の輝き、宝石のような青い海と白い雲の渦。眺めていると、何故だか目頭が熱くなった。胸の奥に切なくて温かいものが込み上げる。それは愛だった。この小さな青い惑星がこんなにも愛おしいのは、愛する人がそこにいるからだろうか。グラハムは目を閉じて一度だけ、ニールの名を呼んでから、再び機体の出力を上げた。
 この剣がこの星を、君を守るためにあるのなら良かった。だが、今のグラハムを突き動かすのは強い憎しみであり、復讐のためだ。単純な破壊衝動。君を守る、そんな優しい言葉は今の私には相応しくない。
(だから、さよならだ)
 グラハムは美しい地球に別れを告げ、戦場へと愛機を走らせた。

++ continued...



2009.11.28