『 終息とシャムロック 』

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 ホテルに戻るまでの僅かの時間、薄ぼんやりとけぶった外気と反対に、引き絞られた弓のようにピンと張りつめた空気が、狭い車内を覆っていた。グラハムは背筋をまっすぐに伸ばし、両手を膝の上で握り締めて前を見て、フロントガラスの放射状に流れる風景の中心を睨みながら、皮膚感覚は全力で隣の男の一挙手一投足を必死で追った。未だにグラハムは元MSWDの司令官だったホーマー・カタギリという男の隣では緊張で身がすくむ思いがする、が今はそれに加えて予想外の事態が巻き起こした混乱で苦しいほどだ。そんなグラハムを知ってか知らずか…おそらくは前者だろう…グラハムより頭一つ分背の高い男は、ゆったりとした日本の着物を着た長い腕を身体の前で組みをしたまま微動だにしない。二の腕から前腕へ流れる鈍茶色の絹がつくるたっぷりとした襞が太股を覆う。
 ホーマー・カタギリはグラハムの親友だったMSWADの技術顧問ビリー・カタギリの叔父にあたり、軍ではグラハムが所属したMSWADの最高責任者だった。先の戦いで地球連邦軍が成立した後も、ホーマーは南北アメリカ大陸地域を統括する重要な地位についている。彼は連邦軍上層部の懇談会に出席のため、ここアイルランドへ来ていた。出張にも部屋着に和服を持ち込むあたり、日系の一族出身という自分の出自に対する誇りの現われなのだろう。ただ、仕事中は軍服着用のため、和服姿を知っている者は極親しい人間だけだったが、渋めの落ち着いた色を着こなす様はまさにグラハムが思い描く日本の武士の姿そのものに思え、グラハムは彼の和服姿をいつも羨望の眼差しで眺めていた。
 時間は午前1時を少し回ったところで、赤いレンガの外壁や石畳、タイヤがくぼみに足を取られて車体がガタンと時々揺れる。そんな感触もグラハムには珍しい。大型タクシーは大柄な男二人並んでも十分なスペースがある。が腕を組む肘が微かにグラハムの二の腕に触れた。相手は規格外に背が高いため、隣の男もまた黙々と前を見るだけだ。その気配を感じながら、グラハムはそっと目を伏せた。沈黙が耳に痛い。グラハムは意を決して口を開いた。
「…ご足労をおかけいたしました」
 一息に言いきると、そっと隣を窺った。ホーマーの横顔は平静と全く変わらない微動だにしない威厳に満ちていた。今夜は濃い紫がかった茶色の無地に黒の帯を絞めていた。艶やかな絹と黒い髭が覆う頤の上を外灯の明かりが通り過ぎていく。
「そう思うなら、以後深酒は慎むことだ」
 決して大きくはないが、耳に朗々と響く声が苦言を呈され、グラハムは唇を噛んだ。司令の口調は厳しいが、瀕死の重傷を負い漸く回復してきたグラハムの身体を思いやる気遣いが感じられ、胸が痛む。心配をかけてしまった。グラハムは改めて自分の所業が恥ずかしくなった。彼の留守をいいことに、酔い潰れるまで酒を飲み、こうして迎えに来てもらうなど、軍人ならば厳重注意では済まされない。
 彼にとって、ホーマー・カタギリは身近であり、最も近寄りがたい存在だった。正直、今でもなぜカタギリ司令が自分を手元に置いているのか分からない。それどころか、部下の一人でしかなかった自分を、身寄りがないという理由でハワイの別荘へ住まわせ、治療費を払い、こうして海外へまで治療へ連れてくるなど、度が過ぎた好意だ。
「君をアイルランドまで連れてきたのは、コチラに腕のいい整形外科医がいるからだ。彼に聞いたが、君は皮膚の回復手術を拒否したそうだな。それどころか、通院すらしていないという」
 まるでグラハムの思考を読んだかのような言葉だ。彼の目には一切の誤魔化しは通用しないことを改めて思い知らされる。
「一生その傷を背負って生きるつもりか」
 問いかけに、グラハムは思いついたまま正直に答えた。
「この傷は、私の生きる意味を目に見える形で思い出させてくれます」
 イエス、でもノーでもない返答に、司令はそれ以上追及してはこなかったが、代わりに苦々しく呟いた。
「ガンダム、か」


 車は繁華街の表通りへと出た。間もなくホテルにつくだろう。
 グラハムは改めて顎を上げ、姿勢を真っ直ぐに正し、両膝に握りこぶしを載せて前を見据えて座り直した。
 それにしても、グラハムは街並みを眺めながら思った。この街はニールが生まれ育った街だ。そこで彼の弟と出会うとは…グラハムはライルの顔を思い出していた。彼とニールは肌や瞳の色、髪の毛の軽くカールした質感も同じで、最初はニールだと思った。それほど似ていた。白い頬に柔らかなブラウンの癖毛が掛かる風情もそれを繊細な指が掻きあげる仕草も、ニールそのもので、思わず息を飲み凝視してしまった。駆け寄ろうとしたが、しかし、身体が動かなかった。何故だろうか。最初に浮かんだ感情は、確かに喜びだったのに。続いて、連絡をくれなかったことに怒りが湧いた。
 生きていたということは、つまり、ニールが自分の意志で別れたということを意味する。
 グラハムの中で、何故だと疑問が渦巻いた。
 何故?ともに過ごした時間は多くはないが、そこには確かに愛があると、少なくともグラハムは疑うことすら無かったのに。
 それを何故、何も告げずに捨てたのだ?
 いろんな思いが一度に溢れて、止まらない。忘れようとしていた思い出が奔流となり、思考は過去へと押し流されていった。

++ continued...



2009.11.26