『 終息とシャムロック 』

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「歩きにくい」
 薄暗い螺旋階段を一歩一歩確認しながら歩いていたグラハムが真っ青の顔で不満を口にする。しかしライルは取り合わない。逆にさらに腰に回した腕を引き寄せた。
「こうしてなきゃまともに歩けない癖に。しかしアンタ、酔っても顔に出ないタイプなのな」
 正直、ウィスキーを一気に空けている様から、ザルかこいつはと呆れていたが、そうではなかったらしい。だったら最初から遠慮しろと軽い怒りを覚えた。高かったんだぞ…と今更泣きごとを言ったところで、腹に収まった酒は戻ってはこない。
「実は、パブにいた時から酔ってたとかいう?」
 するとグラハムはふいと顔を横向けて言った。
「…実は、トイレで戻した…」
「…!…はっ、馬鹿じゃねぇのアンタ……気持ち悪いならちゃんと言えよ。だから途中無口だったのか?」
「違う、アレは君が無理やり走らせたせいだ」
「やっぱ気持ち悪かったんじゃねぇか」
「………」
 俯いたグラハムの頬には僅かに赤みが増していて、ライルはひそかに笑みを浮かべた。

 最初は単に兄ニールの知り合いだという人間に対する興味から声を掛けた。グラハムのことを知ることで、兄との溝を埋めたかったのかもしれない。とライルは思った。外見も遺伝子も同じであるにも関わらず、兄弟の間には大きな隔たりがあった。他人より遥かに大きな溝だ。しかし、結果的にはその隔たりは埋まることはなく、却って深まったように思う。
 ニールが男の恋人を持っていたこと(これは言質は得ていないが、間違いないだろう)、その恋人に訳も告げず失踪したこと。その事実はライルの兄に対する認識に予想外のヒビをつけた。ライルが知っているニールは、そんな不実な行いをするような人間ではない。勉強でもスポーツでもライルより出来が良い優等生で、両親も先生もライルよりニールのことが好きだった。これは単なる被害妄想かもしれないが、少なくともそういう卑屈な人間を愛する者は少数派だ。ライルはこと兄に対してはコンプレックスを隠すことが出来なかった。ただいくら噛みついたところでニールから相手にされることはなく、それが逆にライルに小さな憎しみの種を植え付けたのかもしれない。しかしそんなことはどうだっていい、とライルは自分の肩に寄りかかっている金髪を見て思った。ふわふわとした猫っ毛からはアルコールと微かな甘い花のような匂いがした。現在、ライルは兄の恋人だった男を抱き抱えるのに近い体勢で、密着して階段を下りている。一階へと続く螺旋階段は急で、足場も悪く、酔って覚束ない足取りでは危険だから、そういって無理やりについてきたのだが、実を言えば、ビルにはちゃんとエレベータが設置されていたりする。それをわざわざ危なっかしい階段につれてきたのは、こうやって彼の腰に腕をまわして引き寄せてたりするためだ。細い腰だった。しかしながら体幹に一本芯の通った身体は、くたりと凭れかかることはなく。棒を抱いているような感触だった。



 外へ出ると通りには既に人気はない。吐く息が僅かに白い。グラハムは外灯に寄りかかるようにして立っている。まだ立っているのも辛いらしい。
「アンタさ、兄さんに騙されたとは思わねぇの?」
 もうじき迎えが来るはずだ。そうすれば彼はいなくなる。ライルはグラハムと別れがたく感じている自分に気がついた。
「結果から見たら、君がそう思うのも無理はない…だが、私に利用する価値があるとも思えんよ…私は一パイロットにすぎなかったから」
 ライルは右のポケットに手を入れて、ジッポを取り出した。煙草を吸う訳でもなく、ただ右手の中でカチカチと蓋を鳴らした。
「なぁ……」
 ほんの僅かな時間、一緒に酒を飲んで、話をしただけなのに、もう別れがたく感じているのが不思議だった。もっと兄さんの話を聞きたいという思いはある。だが、それだけでもない気がした。少なくとも、自分はグラハムと飲む酒は嫌いではない。ライルはそう感じた。それだけで、また逢いたいと思う理由には十分だった。

 とその時、一台のタクシーが目の前に勢いよく停車した。
中には大柄の男が一人、真っ直ぐな姿勢で前を向いている。異常に背が高い。タクシーの天井に頭を擦りそうだ。しかも、洋服ではなく、日本の着物を着用している。濃い青っぽい茶色。柔らかな艶のある生地はおそらくシルクなのだろう、一目で質の高さが見てとれる品物をさりげなく着こなしていた。ライルは眉を顰めた。
 グラハムはタクシーを見て驚いた。
「……し……。」
 男の登場はグラハムにとっても予想外の出来事だったようだ。呆然と立ち尽くしている。ライルはその肩に手を置いて尋ねた。
「グラハム、そいつ誰?」
 グラハムはライルの言葉に肩を強張らせた。すると反対側のタクシーのドアが開いた。グラハムは問いには答えず、ライルの手を振り払って離れていく。
「ありがとう、君には迷惑をかけて済まなかったな…」
 振り返り際、さようならだ、とグラハムは言った。すると、車のウィンドウが下がり、男が横目でライルを見た。底光りするような眼光を湛えた黒い切れ長の目がすっと細められた。まるで猛禽類のような目だと思った。狙われた獲物のように、背筋が凍りついて言葉が出ない。
「うちの者が世話になった。私からも礼を言う」
 低いが腹の底に響く通る声で、命令することになれた調子が感じられる。彼が"ホーマー・カタギリ"という訳か、ライルは思わず喉を鳴らして唾を飲み込んでいた。鋭い目つきに射すくめられて動けないうちに、グラハムはタクシーに乗り込んでしまった。

そしてタクシーは音も無くその場を離れた。

「なんだってんだ、たく…まぁ、いいか」
 ライルは空になった右手でガシガシと頭を掻いて、微笑んだ。布石は打った。あとは相手がどう出るか。
それにしても、あの黒い鋭い眼光を思い出しただけで寒気が走るとは、アレは絶対に只者じゃない。ライルはそう確信した。

++ continued...



2009.10.26