『 終息とシャムロック 』

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 胸ポケットから煙草を取り出し火をつける。吸い込んだ煙を吐き出して、また吸い込む動作を繰り返しながら、先端から立ち上る細い煙を眺めていると、煙草とウィスキーの香が混じり合い、苦くて息苦しい重い空気が形成される。
「俺はさ、家族の中で一人浮いてたんだ。双子ってのは年も顔も同じだろ、だから両親や周りの大人は、何かにつけて出来のいい兄さんと比べるんだ。それが嫌で家を出て寄宿制の学校に通った。それで両親と妹がテロで死んで、俺たちは別々の親戚に預けられることになった。それ以来逢ってない…最後に合ったのは家族の葬式の時だな。それでも兄さんは…俺が大学へ行けるように仕送りもしてくれた。おかげで俺は今の会社に就職出来たってわけ。何をして稼いだのか知らないが、きっと俺のために身を削って、働いてくれたんだ。なのに見返りも求めない。俺はただ貰うだけ。まったく出来た兄貴だよな。本当、双子だけど俺とは大違いだ」
 男はじっと黙ってライルの話を聞いていた。微かに赤らんだ間接照明で柔らかく浮かび上がった白い頬は堅く引き締まっていて、表情は変わらない。緑色の双眸がとろりと光って、その瞳を金色の睫毛が縁取る瞼がゆっくりと覆う。強い光が閉ざされると、闇に溶けてしまいそうな風情だ。
「…ニールがテロで家族を亡くしたことは聞いていた。だから彼は人一倍テロリズムを憎んで、テロのニュースを見るとどこか上の空になる。何かを考えて噛みしめているようだった」
 彼は自分でウィスキーを注ぎ、また一息で飲みほした。カツンとテーブルにグラスを置く高い音が静かな部屋に響いた。
「私は、彼のことを全く知らなかったのだな。彼の過去も、彼の願いも、何一つ」
 男は細い顎を左手に乗せて、逆の手でグラスの淵をゆっくり撫でた。ライルはその様子を眺めながら、今朝から頭の中に引っ掛かっていた名前を告げた。
「グラハム」
 伏せられていた緑色の双眸が持ち上がる。驚いたのか、薄い唇がぽかりと穴を開けていた。その様子に目を細める。
「…何故、私の名を…」
 男は心底驚いている様だった。目を丸くした表情は意外に子供っぽくて、惹きつけられる。
「これ、あんただろ」
 ライルはキャビネットから茶色い小物を取り出して、テーブルに置いた。それは革製のブックカバーだった。指に張り付くような滑らかななめし革の感触と、落ち着いた深い茶色に、開くとほんの内側、裏表紙を挟む部分に小さな金文字で『for Nirl form Graham』と書かれていた。

「今朝思い出したんだ、兄さんの車のグローブボックスに入ってた」
 ライルはその文字を指で示す。
「この送り主はあんただな」
 男…グラハムはブックカバーを凝視しながら頷いた。
「ニールはなぜこれを君に?」
「さぁな、他には何もなかったから。たまたま忘れたのかもしれないし、意図したのかもしれない。本人に聞かなきゃ分からねぇよ。……俺に分かるのは、2年前から連絡が途絶えて、代わりに車が送られてきたってことだけだ」
 黙ってウィスキーを飲む。
 グラハムはただ黙ってブックカバーを眺めていた。その指は愛しげに革に刻まれた名前を撫でている。
「何故、これだけが返ってきたのだろう、これも運命だというのか?」
 グラハムの右手は震えていた。さぁなとライルは答えた。
「これは彼の誕生日に贈った。彼は本が好きだったから…デジタルではなく、アナログな紙の本に愛着を持っていて、いつも小さな文庫本を手放さなかった。ポケットに入れておくと表紙の角が折れるといって嘆いていたから、二人で迎えた最初の彼の誕生日に、ブックカバーを贈ることにした」
「兄さんは、喜んだかい?」
「ああ、頬にキスをくれた……小鳥のように軽くて、愛情深いキスだった」
 男はライルから表情を隠すように、ソファーの上に引き上げた膝に顔を埋めてしまった。細い指が柔らかい金髪を無遠慮に掻き毟り、絞り出すように呟いた。
「もう諦めたつもりだった。ニールから連絡が途絶えてから、私は出来る限りの手を尽くして彼の居場所を探った。が、まったく分からなかった。勤め先も住所も何もかも偽りだった。それで分かった。彼はもう二度と私の前に姿を現さないと、…おそらく、彼は…」
 そこで言葉は途切れてしまった。
 覗きこむと、髪を掴んでいた右手が力なくソファに落ちる。目が閉じられて、睫毛が震えている。どうやら眠ってしまったようだ。
「おい、起きろよ」
ゆさゆさ肩を揺らすが、グラハムは本格的に寝息を立てるはじめ、ピクリとも動かない。
「おーい、起きろ。起きてくれ…」
 困ったな…まさかこんなことになるとは…予想外の展開にライルは困惑を隠せない。全く呆れてものが言えない。弱いくせに一気飲みしたあげく、見ず知らずの男の家でマジ寝とは…なんというかハタ迷惑な男だ。こうなったら殴ってでも起こして追い出してやる、そう思った矢先だった。
「弟がいるなんて、聞いてないぞ……」
 寝言だろうか。無防備に開かれた薄い唇から零れた言葉は舌足らずで、どこか甘さを含んでいて。
「…くそ、ほっとけばいいだろ、ライル・ディランディ。こいつは兄さんの男だ、俺には関係ない。このまま何も知らないで、目が覚めたら、はいさようならでいいじゃねぇか」
 そう言いながら、ライルは男をソファに寝かせた。ベッドルームから毛布を持ち出すとバスローブだけの薄い身体に掛けてやる。もう一度顔を近づけて、鼻をつまんだが起きない。深く眠っていることを確認してライルはバスルームに向かった。自分でもどうしてここまでするのか分からない。が、これはチャンスだと思った。グラハムの洋服はハンガーにきちんと畳んで掛けられていた。几帳面な性格らしい。そのジャケットとズボンのポケットを探ると、財布と携帯が出てきた。カードの名義は別人だ。「ホーマー・カタギリ」何者だろうか…次にライルは携帯を開いた。が予想通りロックされていて開けない。適当なパスワードを入れてみようかとも考えたが、何か仕掛けがあったら厄介なので止めておく。その他は小銭くらいで、めぼしい物は何もなかった。運転免許証もIDカードの類も無い。彼の個人情報を示すものは皆無だった。

 そこまでしてライルは部屋に戻った。グラハムはまだ寝ている。

 そっとグラハムの金髪に指で触れた。想像した通りそれはとても柔らかく指に絡みついてくる。
「あんた、何者だ?」
 これだけ探しても何も出てこないのは、偶然とは思えない。隠さなければいけない理由があるのだ。それが兄と関係しているのかどうかは分からない。おそらくは無関係のような気がする。ただの勘だが。それよりはむしろ、カードの名義人であるホーマー・カタギリという人物の方が関係がありそうだ。

 グラハムについて思いを巡らしていた丁度その時、浴室から携帯の着信音が聞こえてきた。
 驚いたライルが手を引っ込めると同時に、グラハムの目がぱちりと開く。
「…あ、…いや、これは……」
 焦ったライルをよそに、グラハムはすっくと立ち上がると大股で浴室へ向かった。そしてドアを開けたまま着信を取る。
「はい、……街へ出ていました……少し飲み過ぎて……」
地声が大きいのだろう、離れていても明瞭な口調ではっきり聞き取れる。開いたままのドアから覗くと、グラハムは真っ直ぐに立ち、まるで上官からの命令を受ける軍人のような姿勢で答えている。
「はい、…すみません。すぐに戻ります。いえ御心配には及びません、一人で戻れますから………。はっ、申し訳ありません、お手数おかけいたします。場所はお分かりですか?分かりました。では、外でお待ちしています。失礼します」
 かちりと携帯を閉じたグラハムがバスローブを脱ぎ棄てながら言った。
「すまないが、帰らせてもらう」
 背中の半ばを覆う傷跡が見えて、なんとなく見てはいけないような気がしてライルを目をした。その間にもグラハムは酒で濡れたスーツに袖を通していた。あっという間に着替え終わってバスルームから出てきたグラハムの表情は先ほどとは打って変わって引き締まった真面目な表情だった。
「お迎えが来るのか?」
「ああ、邪魔をしたな」
 歩き出そうとした途端、グラハムがぐらりとよろけて壁に手をついたので、その肩を支えてやる。
「あんた飲み過ぎだ…足元ふらついてんじゃねぇか…下まで送るよ」

++ continued...



2009.10.22