『 終息とシャムロック 』

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 パブを飛び出してから、振り返らず走った。
 気付くとかなりの距離を走っていたらしい。二人揃って息が荒い。もう四人の酔っ払いが追いかけてこないのを確認してネクタイを緩めた。見失ったのか諦めたのか、とりあえず逃げ切ったか、と息を吐いた。ビルの谷間に白い月が皓々と輝いていた。ふと左手で握った男の手が微かに震えているのに気づいて、顔を見ると、先ほど店で酔っ払いにビールを掛けた時に飛び散ったのだろう。スーツのブレザーが濡れて白いシャツが黒く染みになっていて、金髪も重く額に張り付いていた。
「酷ぇなり」
 相手より自分が濡れているとは世話は無い。そいう揶揄を込めていったが、男は堪えていない用だった。
「あんな酔っぱらい相手にしてたら身体がいくつあっても足りねぇぜ……で、何言われたんだよ」
 ライルはだんまりを決め込む男に畳みかけた。
「あの酔っぱらいに突っかかった理由だよ。あのさぁ、俺は巻き込まれたの。あんたのせいで平和な一夜がもろくも崩れ去ったというわけ、だからことの起こりを知る権利があると思うんだけど」
 すると男は額に張り付いた金髪をうっとうしげに払い、眉を顰めた。
「あの男たちは隣のテーブルで下らない与太話で暇を潰していた。そのうち話題が私のことに移っていって、この傷のことを色々推測していたが、そのうちビールを掛けた男が厭らしい目つきで言ったのだ。"傷ものも悪くない、結構そそるぜ"と…私はこの醜い姿が、嘲笑され忌避されるのも、同情されるのも構わない。もう慣れた。だがあの男の言葉だけは容認できなかった……私は下卑た欲望のために戦ったのではない」
「あんた軍人か?」
 金髪は答えなかった。それ以上聞く気にもならなくて、ライルは黙った。まだ掴んだままだった右手は皮膚がざらざらしている。感触が違う。内側の柔らかい皮は滑らかで温かいのに、表の傷ついた部分は堅く冷たく感じられた。
彼は辺りをきょろきょろ見渡していった。
「ところで、ココは何処だ?」
 唐突に話を変えられ、ライルも辺りを見渡した。正直にいうと走るのに夢中で、道順は全く考えていなかったのだ。
 そこは細い路地だった。ライルと男以外に通行人はいないし、時間も遅いせいか店も全てシャッターが下りていた。そのうちの一つに見覚えがあって、家の近くまで来ていたことに気づく。どうやら無意識のうちに家に向かって走っていたらしい。ココからだとホテルなどがある繁華街へもどるよりは自宅に帰った方が近いか、と考えていやいやと頭を振って否定した。この思考過程はやばい。家に連れ込む気か?いやいやいや、あり得ないだろ、しっかりしろ俺、流されるな。ライルは気持ちを切り替えるべく、軽い口調で言った。
「そうだな…アンタ旅行者だろ?ホテルは?適当に走っちまったから中心街から結構外れちまった…」
 すると男は袖口に鼻を当てスンと匂いを嗅いだ。
「こんなずぶ濡れで、酒臭い格好のままではホテルには帰れない」
「じゃあどうするつもりだよ」
「手助け無用。適当に歩いているうちに服が乾いたら帰る」
「その前に風邪ひくか、さっきみたいのに襲われるかどっちかだ」
その時、ライルは相手の手が震えているのに気づいた。
「手震えてるじゃねぇか」
「これは……古傷のせいだ。寒さのせいではない」
「あんた馬鹿だろ」
「……心頭滅却、火もまた涼し」
 また意味不明の独り言だ。本当にこいつ頭のネジがどっか飛んでんじゃねぇか。ライルは頭をがしがし掻いた。本人も放っておけというのだからそうすればいいのに。しかしだ、ここで放っておいたらどうなることか、明日の朝刊に外国人の男の死体が見つかった、なんて見出しが出たら…寝覚めが悪いったらない。という訳で、大変不本意ながら、こういう選択肢しかない訳だ。
「しょうがねぇな、シャワーぐらい貸してやるからウチに来るか?」
 なんで俺こんな変人を家に誘っているのか…考え出すと切なくなるので、ともかく兄さんのことを聞きだすためだ、と自分に言い聞かせた。すると男は戸惑った顔をしたが、小さく頷いて跡をついてきた。




「ほら、入れよ」

男は窺うように部屋のドアとライルの顔を交互に見た。
 遠慮しているのか?これまでの言動からしてかなりエキセントリックな男だが、こういうところは普通の感覚ももっているらしい、それが分かって少し安心した。
「本当に良いのか?」
はっいまさら愁傷がるなって、とライルは言った。
「酒臭い服のままじゃホテルに帰れ無いって言ったのはアンタだろ」
「しかし…」
「いいから、代えのシャツくらい貸してやるよ」
ドアを開けても、男はまだ迷っていた。
 部屋に足を踏み入れると、ぱっとオレンジ色のフットライトが足元を照らす。間接照明に照らし出された室内は広めのワンルームでリビング兼寝室に簡易キッチンがついている。大きめの黒いソファーにガラスのローテーブル、壁には古い映画のポスターが貼られていてその隣には大きな本棚があって、本の他にファイルや雑誌などで埋まっていた。どれも見苦しく無い程度には整頓してあるが、かといって潔癖というほどでもない。部屋が汚くて女の子とのデートの機会をふいにしたくはないからだ。といっても最近は全く活用されていないが。窓の脇には細長いガラス管の中で赤や青のガラス玉が浮いている。液体の密度の違いによって温度を測る温度計だ。実用的ではないがガラス管の中でぽっちゃりとした滴形の赤や青の球体が浮いている様は見ていて楽しいから飾りに置いている。まぁ実際は昔の彼女が可愛いと言っていたから、気を引くために買ったのだが…まぁそんなことはどうでもいい。ともかく、この部屋に他人を入れるのは、確かにかなり久しぶりのことだった。
 それがこんな男とは…まぁ気を遣わなくていいさ。ライルは仕事用の鞄をベッドに投げ捨てて無造作にネクタイを引き抜いた。
 とりあえず、シャワーな。とライルは男を無理やりシャワールームへ押しやった。

 クリーニングしたシャツがあったはずだとクローゼットを探っていた時、パタンとバスルームのドアが開く音がした。そして男が白いバスローブ姿で出てきた。
「すまない、貸してもらった」
「ああ、いいぜ。スーツは軽く拭いて乾燥室に入れとけば1時間もすれば乾くし、匂いも目立たなくなるだろう」
 男は言われたとおりにバスルームに戻っていった。素直なところもあるらしい。
 戻ってくると、男はソファにちょこんと腰かけた。
「何か飲むか?」
 とりあえず、話のきっかけには酒がいい。アルコールでガードが緩んだところで探りを入れる。定番だが鉄板の戦略だ。
「君が先ほどの店で飲んでいたのと同じ酒があれば」
 希望通りシングルモルトのアイリッシュウィスキーをストレートでだす。ショットグラスに並々と注がれた琥珀色の液体を、じっと眺めた後、男はその全てを一気に煽った。もう一杯注ぐと2杯目も同じようにして飲み込んだ。
「名前は?」
「忘れたと言った」
「いいじゃねぇか名前くらい教えろよ」
「なら帰る」
 男が立ち上がったのでライルは手を上げて制した。
「分かったよ、もう聞かねぇよ!」
 前言撤回。素直なんてもんじゃない。まったく強情な奴だ。
 こうなると残る話題は一つだけだ。ライルは一番聞きたかった問いを投げかけた。
「じゃあさ、兄さんとはどんな関係だったんだ?」
「………」
「これも黙秘かよ…まぁいいや、だったら俺の愚痴を聞いてくれよ」
 ライルは自分用にホットウィスキーを作った。一口啜る。喉を通ってアルコールが全身に沁み渡りじんわりと温かい。湯気に乗って酒の香りが辺りを満たすころ話し始めた。

++ continued...



2009.10.20