『 終息とシャムロック 』

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 こんな苦々しい気持ちのキスは初めてだった。どうやら兄の知り合いらしいということが分かった見ず知らずの男に抱きつかれた状態で、ライルは非常にバツの悪い気分を味わっていた。何やってたんだよ、兄さん。出会いがしらに殴られてキスされるなんて、一体どんなの修羅場か、ライルには想像もつかない。これが綺麗な女の子なら分からなくもないが、相手はれっきとした男だ。つい反射的に腰に回した手の感触は堅く、しかし驚くほど細かった。確かに大したハンサムではあるが、そのせいで顔の傷跡が余計に痛々しい。如何にも訳有りという風情だ。ライルはため息をつきたいのをこらえて、あんたの不始末の尻ぬぐいはごめんだぜ、と思った。

「人違いだぜ。ニール・ディランディは俺の兄。俺はライル、ニールの双子の弟だ」

 変化は鮮やかだった。男の顔からすっと感情が消えていく。鮮やかなエバーグリーンの瞳に映っていた困惑と僅かな怒りといった感情が抜け落ちて、途端に透明度が増した気がした。余計なものをそぎ落としたというか、あるべきものが抜け落ちているというか、そういう瞳だ。
「…失礼した。ニールに双子の弟がいるなど知らなかったのだ」
 今や彼の表情には困惑も怒りも見て取れない。僅かばかりの失望があるだけだ。それも自分に対してというより、彼自身に対してのもののようだ。彼の意識は外へ向かって開いていない。そう感じられた。内面に向かってひたすら沈没していく。そういう人間をライルは知っていた。ライルは自分の分のジョッキに手をかけたが、口はつけなかった。男はギネスに見向きもしない。重い沈黙が流れるだけのテーブルで、放置されたギネスが温くなっていく。ジョッキの表面を覆う水滴がつーと一筋、木製の艶やかなテーブルに落ちた。
 なんで黙ってるんだよ、ライルは次第に苛々し始めた。ココは普通、自己紹介とか兄との関係とか、なんで殴ったのか、はたまた抱き付いてキスした理由とか、説明するものではないのか。少なくとも俺には聞く資格があるはずだ。堪らずライルは自ら口を開いた。
「あんた名前は、兄さんとどんな関係?」
 ことさら兄という部分を強調して問いかける。が男の返答はライルの期待を大きく外れたものだった。
「人違いだと言った」
「そりゃ、答えになってないぜ。それともなに、人には言えない仲だってことか?」
 言葉尻に揶揄を込めて挑発してみる。すると男はきつく睨みつけてきた。
「下衆な勘繰りは止めてもらいたい」
 すると音も無く男が立ち上がったので、ライルは慌てて男の左手首を掴んで引き留めなければならなかった。
「おいおいおいおい…悪かったよ。ちょっと待って、せっかく奢ってやるっつうのに、口も付けないなんて、ちと酷いんじゃね。」
 ライルは丸テーブルの手付かずのギネスを指さした。
 男はギネスに冷たい一瞥を投げた後、おもむろに立ったままジョッキを鷲掴むと、並々と注がれたギネスを一息で飲み干した。
「馳走になった」
 呆気にとられたライルの前で、男は唇についた泡を舐めとった。その仕草に思わず見入ると、「これで問題ないな」と止めとばかりに宣言されて、ライルは手を放さざるを得なくなった。
 変な男だ。
 降参のジェスチャーをしてライルは言った。
「なら一つだけ教えて欲しい」
 頼むと頭を下げれば、男は黙ってライルを見た。沈黙はイエスととる。ライルは一番聞きたいが、これまでずっと逃げてきた問いを男に投げかけた。
「兄さんは何処にいるんだ?」
 すると、男は怪訝そうに眉を顰めた。
「君は…知らないのか…?」
「しらねぇよ」
「兄弟なのに?」
 ライルは皮肉な笑みを浮かべた。
「兄弟つっても、もう十年以上逢ってない。最近は音信不通で…そういや、俺んとこにも二年前くらいから連絡がないな」
 ニールとは両親と妹の葬式以来ほとんど顔を合わせていなかった。ライルが逢うのを避けていたのもあるが、ニールも積極的に逢おうとはしなかったからお互い様だ。兄が生きているのを知らせるのは定期的に振り込まれる金の通知くらいのもので、それも二年前に車が届いて以来ぷっつりと途切れている。何処でどんな仕事をしているのか、それどころか、現在の兄の容姿すら想像でしか分からない。おそらくは鏡に映った姿とそう変わりはしないだろうが。現在の兄の生活に関しては、幸せなのかそうでないのか、誰を愛しまた愛されていたのか、全然知らない。そういう意味では、目の前の男は自分よりよっぽど兄に近い存在なのかもしれない。

「そうか…私は兄弟とはもっと近しい関係だと想像していた」
 男は独特の言い回しでライル達兄弟の矛盾を指摘したが、想像していた、といういいかたには彼の孤独が透けて見えていた。
「あんた、兄弟は?」
「いない」
「そんな感じするぜ。身近だからこそ、衝突もするし逃げたくなることもあるんだよ」
 あんたには分からないかもしれないが、とライルがいうと、男はまた、何の感情も示さない透明な目でライルを見た。しかし今度は彼の意識は内面ではなく、ここではないどこか別の場所、おそらくは俺の顔に記憶の中の兄の顔を重ねてみているのだろう。こういうのはまったく反吐が出るし、飽き飽きだと、ライルは思った。それは十年ぶりに感じる痛みだった。

「だが、ニールは家族を大切にしていたようだった」
「そりゃあ、俺以外の家族についてだ」
 まったく嫌な男だ。痛い所ばかり突いてくる。ライルは思った。
 それなのに、ライルは未だに男の顔を凝視したままだ。むかつくのに、気になるのも確かで、それが自分の知らない兄に対しての好奇心なのか、目の前の風変わりな男に対しての好奇心なのか分からない。が少なくとも、会話を続けたいとは思った。そういえばまだ名前すら聞いていない、一方的に殴られたまま酒を奢ってサヨナラじゃあ納得できない。
 ライルは食い下がった。
「待てよ、せめて名前くらい教えろって…」
 しかし答えはなかった。男は一片の躊躇なくライルの横をすり抜けて店の外へと歩き出した。その途中、ライルの真横で小さな呟きが聞こえた。
「名など忘れた」
 その一言が薄暗いパブの一角に重い澱のように残された。男はパブから出ていった。きびきびして、まるで戸惑いの無い足取りだった。

++ continued...



2009.10.16