『 終息とシャムロック 』

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 ライル・ディランディが、グラハム・エーカーと出会ったのはハロウィンを間近に控えた10月終わりの夜だった。街中がハロウィンの装飾、アメリカ発祥の黄色いカボチャで溢れている。今や黄色いカボチャは世界基準で、本場であるアイルランドも例外でない。街中が黄色いカボチャに占拠される有様だ。まぁ、そんな批判的で理屈っぽい御託を並べても、俺だって子供の頃は兄弟たちとカボチャをくりぬいて電球を仕込んで家の前に飾ったりしたのだ。それはそれで面倒だったが楽しい行事で、おそらくは人生で一番楽しかった思い出の一つとなっている。一番上手なのは双子の兄さんで、兄さんは俺と年が変わらない癖に何をやっても器用で上手だった。次が妹のエイミー。彼女はもの覚えがよく、ニールの言うことをよく聞いたから、ニールのとそっくりな綺麗なカボチャを作って両親に誉められていた。で一番へたくそなのが俺。俺と言えばニールと同じのが嫌で作り方を聞くのも癪で、自己流で作った何とも歪で肩頬だけが持ち上がった不器用な笑い方だ。それでも出来上がった二つの大きなカボチャと小さなカボチャに両親は喜んだし、エイミーも嬉しそうだった。今となってはいい思い出だ。決して忘れないだろう。
 ライルは仕事が終わり、簡単な夕食と酒を求めてパブに入った。贔屓にしているパブは食事を出さないので、今夜は少し家なら遠いが店も広く料理も出すこの店にした。良心的な値段の割にきちんとしたモノを出す。その店は都心にあるにも関わらず、奥まった狭い通りに面しているためか賑やかな観光客も少なく、オフィス街や官公庁の職員や、近くの高級ホテルの客など、そういうハイソな連中がちょっとした息抜きに庶民感覚を味わうために来るような店だ。その日はいつもより早く仕事が終わって、店に入ったのは夜の営業開始間際だったから、客はライルとあとはほんの数人だけだ。薄暗く天井の低い店内は至って静かで、パブ特有の喧騒も音楽もない。バーテンに食事を頼んでビールを飲んだ。出てきたのは至って平凡なアイルランド料理だがそこそこいける。まぁ、なんにせよ腹が減っていたのでなんでも同じだ。温かいシチューをかっこみながら冷たいビールを流し込む。舌に残る滑らかな泡とほのかな甘み。やっぱこれがないとなぁ…一日は終わらない。そう一息ついた時、ふと視線を感じて、さりげなくあたりを窺うと、店の一番奥のテーブルからコチラをじっと窺う男に気付いた。
 その金髪の男は、幽霊にでも逢ったように茫然と、しかし熱心にこちらを凝視していた。きちんとした仕立てのいい茶色のスーツを着て、小さな椅子に窮屈そうに、しかし紳士然と足を曲げて座っていた。細みの体つきながら、十分鍛えられていることが、背もたれの小さな椅子に寄りかかることなく真っ直ぐな姿勢を保っていることからうかがえる。テーブルにはほとんど空のギネスが一つ。薄暗い店内で部屋の角に埋もれるようにして座っているせいか、顔の右半分が影になっていた。自分とさほど年は変わらないようだが、しかし外見から男の年齢を推測するのは難しいようだ。
 ライルは男の顔の右半分の異常に気付いた。皮膚の色が赤黒く変色している。火傷だろうか、傷跡は顔面の半分近くに及び、額から頬までの皮膚が醜く変質していた。これほど酷い傷跡をライルは初めて見た。思わず目をそらしたくなるほど悲惨な外見だ。だがライルは相手に気づかれないように窺い続けた。理由は彼の瞳が澄んだ緑色をしていたからかもしれない。綺麗な瞳は少年のように純粋そのものだ。しかし同時に、その零れおちそうに見開かれた瞳の下に深く刻まれた隈は老人のようにも見える。不思議な男。一度見たら忘れられそうもない外見だ。ライルはギネスの白い泡を眺める振りをしながら心当たりを探ったが、全く思い当たらない。しかし男は自分を見てとても驚いているようだ。ジョッキに添えられた白く長い指が、カタカタと音を立てるほど震えている。
 ライルは一口だけ残ったギネスを飲み干すとお代わり二つ注文して席を立った。なんか面白そうな男だな、その時はほんの軽い好奇心だった。

「お兄さん、観光客かい?」
 足早に男のテーブルに近付いたライルが、ギネスを二つ置くと、男の大きな瞳が瞬いた。しかしすぐに顔をそらして右を向く。
 そこでライルは気づいた。
 ところどころ跳ねたハニーブロンドは薄暗いパブのオレンジ色の照明を受けて黄金のように輝いていたし、真っ直ぐ通った鼻梁と広い額、すっきりとした顎など、まるで教会の壁画から抜け出た天使だのようだと言っても過言ではない。傷に目を取られて気づかなかったが、男はとても整った顔をしていた。傷の無い左目は大きく見開かれ、頬は僅かに引きつっていたが。それだけで男が言葉にならないほど驚いていることは分かった。むしろそんな劇的な表情が彼のドラマチックな容姿を引き立てていると言える。まるで舞台上の俳優のようで、こんな庶民的なパブではある種異質なことは間違いない。そしてその視線が自分に向けられているとすればなおのこと。
 ライルは男に笑顔を投げかけた。
「自分でカウンターに行って酒を買うのが、ここのルールだ。黙って座っていても新しいのは出てこないし、誰も注文を聞いてくれない…」
 パンと小気味よい音が耳のすぐそばで弾けた。叩かれた、と気づいた時には頬に軽い痛みが襲った後だった。

「私に対して、よくそんな軽口が言えたものだな」
 俺、叩かれた?なんで?パブで見ず知らずの男とケンカになったことはあったが、一方的に殴られたのは初めてだ。ライルは訳が分からず男を見た。金髪の男は唇を噛んで何かに耐える表情をしている。さらに訳が分からなくなってきて…さながら恋愛ドラマの修羅場のような状況だな…ライルは一人ごちた。しかしこの状況から脱したくても、全く心当たりがないだけに解決の糸口すら分からない。
「ちょっと待ってよ、俺あんたのこと知らないし、たぶん初対面だし」
 とりあえず自分的には至極当然のことから説明を試みる、が、男は聞いているのかいないのか、うわ言のようにさらに意味不明のセリフを呟き続ける。
「二年以上も音信不通で…それが…なぜ今更……」
 ライルの混乱をよそに、男は俯いたまま唇を震わせていた。

「……生きていたのだな、…ニール」

 今度は殴られた同じ場所に柔らかくてふわふわした感触を感じて、それが男の金髪だと気付いた時には、唇が塞がれていた。
 男にキスされたことよりも、触れるか触れないかの距離で囁かれた名前にライルは驚いた。こんな形で、その名前を聞くなんて…他人の口からその名を聞くのは、一体何年ぶりのことだろう。
 しかし、これで合点がいった。ライルは首に抱きついてきた男を無理やり引き離すと、堅い声で言った。

「人違いだぜ、あんた。ニール・ディランディは俺の兄。俺はライル、ニールの双子の弟だよ」

++ continued...



2009.10.15