『 桜の下で 』



 その男はいつも唐突にやってくる。



 彼は何者でもなかった。彼はいつも赤い髭を蓄えた精悍な褐色の肌に、乾いた薄っぺらい笑顔を貼り付けて、表面上は無害な人間を完璧に装っていたから。
 私が何者でもないように、彼もただアリー・アル・サーシェスという名があるだけの存在だった。ただ自分で武器を持ち、戦うことしかできない男。想像よりも破壊を本分とする者。あえて言うならば彼はすべてのものの中にある絶対的な殺意の象徴、そんな風に感じた。根拠は無い。


 戦いの中、本能をむき出しに、憎しみや殺意をぶつけ合い時にだけ生きている実感を持てる。だから彼は私に興味がないのだ。私は彼を憎んでいないから。憎しみを持たない私は、殺意を抱くに値しない存在なのだろう。だからこうして甘やかす。
 今も、彼は私をその厚い胸板に引き寄せて、太い腕で抱きしめ、無骨な指で髪を梳いていた。
 こうしてたびたび呼び出すということは、彼も存外その役割を気に入っているということか。おそらくは躾の悪い野良犬懐かれたような気持ちなのだろう。


 「なぜ、私をここへ連れてきた?」
 私は尋ねた。彼はいつも突然私の前に現れて、大抵はただ一時、こうして私を甘やかして去って行く。地上だろうと宇宙だろうと、それはいつも戦場だ。実を言うと、こうして彼が私を外へ連れ出すのも初めてだったし、戦場以外の場所で会うのは初めてだった。すると、アリーは言った。
「お前好きだろ、こういうのさ」
 私は彼の胸に頭を預けた。
 そしてただじっとして、散り急ぐ桜を見つめていた。
 どんな締まりの無い顔でいるのか確かめたくて顔を上げようとするが、強い力で窘められた。
「うごくなよ、落ちるじゃねぇか」
「何のことだ?」
 すると、黒づんだ爪が、白く薄い一片を取り上げた。私は最初、それが人間の生爪かと思って息をのんだ。拷問にかけた相手の名残ではないかと一瞬のうちに脳裏に妄想が駆け巡る。そのくらいには、彼はいつも生臭かった。アリーはそれを私の唇に含ませる。ほとんど味はしなかったが、言われるままに租借すると、うっすらと苦みと、香りが凝固したような甘みがあった。
 それは、サクラの花びらだった。


 こうやって私を甘やかすのが、彼の全てではないことは分かっている。
 もし戦場で相対することになれば、彼も私も殺しあうことに何の感傷も躊躇いも抱かないに違いない。私とて同様だ。もし彼が私とガンダムの間に立ちふさがるなら、彼がガンダムに牙をむくなら、私は私の戦いのために彼を排除しなければならない。そのことに躊躇はない。
 ただ、今の私は彼を憎んでいないし、彼もガンダムではない。それだけだ。
 もし明日、彼の主人が私を殺せと命じたら、この手は迷いなく私首を折るだろう。目の前に咲く、散りぎわの桜を手折るのと同じ容易さで。

++ end ++



2011.4.11