松下村塾 武道塾の原点ともいえる聖地です。
親おもう心にまさる親心 きょうのおとずれなんと聞くらん
松陰先生辞世の句
武道塾で子供たちに教える一番の根本となる句です。
萩城下の松本村(現在の萩市)に、吉田松陰先生の叔父の玉木文之進が1842年(天保13年)に設立したのが松下村塾の始まりです。
松陰先生は1855年(安政2年)に叔父から引き継ぐ形で松下村塾を主宰し武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入ました。
松陰先生が塾生達の指導に当たったのは僅か2年余りにしかすぎませんでしたが松陰先生の指導・薫陶を受けた松下村塾門下生達は尊王攘夷を掲げて長州や京都で活動した者や、明治維新で新政府に関わる者など幕末・明治において大きな活躍を果たしました。
この松下村塾なくして現在の日本はないと言っても過言ではありません。もしかしたら外国の植民地となっていたかもしれないのです。
松陰先生は学者にはなるな実行するべしと教えています。もちろん松陰先生の講義もあるのですが塾生どうし自由に論争させることを大切にしていて討議も盛んに行われていました。机に向かい本を読み知識を覚えるだけではなく自ら行動し体現することの大切さを教えたのが松陰先生です。
異国と平等な条約を結び開国をするためには国力を異国と同等にしてからでなくては属国(植民地)となってしまう。それを防ぐためにはまず異国を知る必要があると考えた松陰先生は当時命を落とすほどの重罪であった密航を企てたり不平等条約を締結した幕府の重臣を暗殺しようと企てたり私利私欲などなく国のためならば命をも顧みない行動力がありました。そんなところから至誠の人と呼ばれています。
松陰先生が安政の大獄で処刑された後、その意思を継いだのが高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋です。
久坂玄瑞は外国からの脅威に対抗するため国論を一つにと朝廷や他藩に働きかけましたが志半ば25歳で禁門の変で自刃。
高杉晋作は松陰先生の草莽崛起の志を実現し士農工商の枠を払い志のある者を集め軍隊を、つまり奇兵隊を創設し倒幕の大きな原動力となりました。高杉も維新を見ることなく志半ば29歳で肺結核で亡くなります。
残った志士たちは後に伊藤博文は初代内閣総理大臣、山県有朋は3代内閣総理大臣など多数の国務大臣、大学の創業者など近代日本に繋がる大きな役割を果たしました。
主な門下生には久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎などそうそうたる名前が並びます。