願
う
こ
と
初めて市の為にと叱ってくれたのは誰だったのかもう覚えていない
幼い頃から兄様の妹なんだから、と言われ続けた
兄様は蔑みと不要なものを見る時の視線しかくれなかった
もっとずっと昔は一緒に遊んだことがあったような気がする
けれどもう、何も思い出せない
期待に応えられない無力さにいつもうな垂れていた
何時だろう
もう忘れてしまったけれど、綺麗な紅葉を見たことがある
真っ赤な森の中で、大きな大きな夕日を眺めた
あの時隣にいたのが誰だったのか忘れてしまった
”お市殿、顔を上げ前を向きなさい
そのように下ばかり向いていては勿体無い”
そう言って、誰よりも綺麗に笑ったあの人は一体誰だっただろう
思い出す度に温かくて、切なくて、叫びだしたくなる
その度に、叫べる名前も、叫べる言葉も持っていないと思い知らされる
”市、体を冷やすな!”
”市、いつまでもめそめそと泣くな!”
いつもいつも怒鳴られていた気がする
でも、思い出すその声はいつだってひどく優しい
どんなに声を荒げても、市を心配してくれていると分かっているから、
その全てが嬉しくて、温かくて、とてもとても幸せだと思った
でも、市にはもう分からない
その優しい声が誰だったのかも
綺麗に笑った顔さえも、もう思い出せない
何だかとても悲しいことがあった気がする
それすらもどうでもいいと思う
兄様が戦えというから戦う
たくさん殺せば姉様が褒めてくれる
蘭丸も笑ってくれる
思い出すことの出来ないあの人も、笑ってくれるかもしれない
何人殺したかもう覚えていない
血の匂いも、肉を絶つ感触ももう慣れた
それなのに、あの人の声が遠くなる
どんどん聞こえなくなっていく
こんなに頑張っているのにどうしてだろう?
ここには、あの声の優しさも幸せもどこにもない
「…お市、また食事を食べていないの?」
「……姉様」
「**が死んで辛いのは分かるけれど、
食べずにあなたまで倒れたら**が悲しむわ」
姉様の言う言葉がうまく聞き取れない
いつだってその名前が聞こえない
心配そうに肩を抱いてくれる姉様の手はとても温かい
姉様はとてもとても優しい人だわ
でも、**って誰だろう?
**は死んでしまったの?
そう思うけれど、口に出すことすら億劫だ
「……ごめんなさい」
俯いて謝ればみんなそれ以上何も言わない
だからいつもそうやって受け流す
何かを考えるのが面倒で仕方なかった
ただ、あの声だけを思い出せればいいと思った
「濃姫様、お市様!
次は北の地の一揆を鎮静に行くみたいですよ!」
楽しそうに笑う蘭丸が入ってくる
いつもニコニコ笑う蘭丸は何も言わないから一緒に居るのが楽だ
「そう
……お市、あまり無理をしては駄目よ」
「…はい、姉様」
姉様に返事を返して立ち上がる
ああ、市の体はこんなに重かったかしら?
歩くことすら一苦労だわ
「行きましょう、お市、蘭丸君」
きびすを返す姉様の後に蘭丸と並んで続く
きっと、この戦を頑張ればあの声が褒めてくれるわ
だからもっと頑張ってたくさん殺さないと
もっともっと頑張れば、いつかあの人の顔も思い出せるかもしれない
そう考えるだけで温かくて嬉しくなる
幸せな時間が待っているんだと思える
楽しみで楽しみで、無意識に笑みが零れた
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