願
う
こ
と
いつだって笑っていて欲しい
いつも悲しげに伏せられた瞳が柔らかくほどければいい
自分のせいだ、なんて言って欲しくない
ただ、健やかに
憂い無く朗らかに
幸せだと笑っていて欲しい
「…長政様、市まだ起きていたいわ」
「黙れ、市!」
「……ごめんなさい」
「さっさと布団に入れ!
寝坊は悪だ!早く休め!」
「…でも、長政様はまだお仕事するんでしょ?」
「それがどうした
市には関係の無いことだ」
「……ごめんなさい
お休みなさい、長政様」
閉まる襖の音にため息が漏れた
また、だ
笑って欲しいと願うのに、いつもいつも悲しい顔をさせてばかりだと自嘲する
初めて会った時、俯いて何かに耐えるような横顔をひどく美しいと思った
下ばかり見詰めるその姿を勿体ないと思った
初めて言葉を交わした時のことはよく覚えていない
伏せられたまつ毛が落とした影ばかり見ていた気がする
美しい、と思っていた
初めて市が顔を上げたのは祝言を終えて三月が経った頃だ
二人で遠乗りに行った先の山頂だった
赤く色付いた紅葉に囲まれた中で、私が指差した夕日を見詰めた
柔らかく綻んだ目元
優しく上がった口角
そうして、小さな声で綺麗と呟いた
ありがとう、長政様
そう言って、確かに市は笑っていた
美しく、儚く、何よりも愛しく想った
あの笑顔を守りたいと強く願った
悲しげな顔に恋をした
だが、笑っていて欲しいと思うのだ
そう、思っているというのに日常は空回ってばかりだ
自分の言葉が優しくないことを知っている
嘘を吐くことも、取り繕うことも出来ない
ああ、こんなにも笑って欲しいと願うのに!
考え事ばかりで進まなくなった筆を置く
まとまりの無い頭で仕事をするべきで無いとため息を吐き立ち上がった
閨にはまだ灯りが点けられ、私が入って来たことに気付いた市が起き上がった
「まだ起きていたのか
早く休めと言っただろう!」
「…ごめんなさい」
肩を震わせ俯く市を見ているとやりきれなさに襲われる
いっそ兄上の元にいた方が幸せなのではないかと思ってしまう
「…謝るな、怒っていない
もう休むぞ、市」
「…はい、長政様」
俯いたまま一つ頷いて市が布団に潜り込む
それを確認して灯りを吹き消した
真っ暗な闇の中で市の静かな呼吸が聞こえる
「……長政様、まだ起きてる?」
小さく囁かれた声に、早く寝ろと怒鳴りそうになる
どうにかそれを堪えて市の方に寝返りを打ち返事を返した
「…あのね、市、長政様と手を繋ぎたいの」
ダメ?と不安そうな声で言う市の手を手探りで握る
小さな手だと思った
「…これでいいだろう
さっさと寝ろ!」
市の手の柔らかさに気恥ずかしくなりまた怒鳴ってしまう
暗闇の向こうの市がまた悲しげな顔をしていたらと思うと苦しくなった
「…うん
ふふ、長政様はいつだって市に優しいね」
嬉しそうな市の笑い声が響く
「市、長政様にお嫁に来れてとても幸せだわ」
ありがとう、長政様
そう言って、安らかな寝息をたて始めた市の手を、
起こさないように注意しながら強く握った
市が幸せだと笑うなら、命を賭してこの日々を守ろう
例えどんな相手が敵になろうと、決して負けはしない
市が幸せだと笑う日常に、私はきっと帰って来ようと強く強く心に誓った
一滴だけ零れた涙を拭い、市の隣で瞳を閉じた
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