ファントム痛
『帰蝶、木登りなどして降りれなくなっても知りませんよ?』
『そうしたら桃丸に降ろしてもらうわ』
『せっかくの着物も汚れてしまいますよ?』
『洗えばいいでしょ』
『そんなにお転婆だと、嫁の貰い手がなくなりますよ?』
『桃丸と結婚するからいいの』
『…私の意思はどこにあるのでしょう?』
『うるさい』
『でもまぁ、貴女のようなじゃじゃ馬と一緒に居られるのは私くらいのものでしょうねぇ』
『じゃじゃ馬っ…!?お、大きくなったら素敵な姫になるわ!お嫁の貰い手なんて引く手数多なんだからっ!』
『そうですねぇ。離縁される前に迎えに行って差し上げますよ』
『離縁なんてされないわよ!…でも、約束よ!お嫁に行くことがあっても、きっと迎えに来なさいよ?』
『ええ、もし仮にもらってくださる殿方がいたらの話しですがねぇ』
『引く手数多だって言ってるでしょ!』
懐かしい夢を見た
茜色に染まった思い出だ
素直で、純粋で、意地っ張りで、負けず嫌いで、ニコニコと笑う幼い帰蝶
桜の花に埋もれて空を見上げれば、どこまでも広く深く蒼に呑まれた
「光秀、何をしているの?そろそろ軍議の時間よ」
訝しげな顔で、優しさを孕んだ声で、帰蝶がこちらを見つめていた
「いえ、あまりにもいい天気なのでつい」
「何とかと煙は高い所が好きだと言うものね」
こちらを見上げてため息を吐く姿は艶やかだ
「おや酷い。帰蝶は呆れた顔も美しいですねぇ」
「気持ち悪いことを言わないで頂戴」
心からの誉め言葉を無下にされ、笑った
「本心ですよ」
儚さと強さを併せ持ったのは信長公の為
悩ましげに眉を寄せる姿に見とれた
花のように笑う姿に胸がほころんだ
人を殺すことを躊躇い、苦し気な表情を浮かべていた帰蝶
信長公の為に血に濡れる覚悟を決めた強い眼差し
美しく成長したものだと思った
「いいから早く降りて来なさい」
厳しく見据える冷たい眼差しに身悶える
「おお怖い。お怒りの帰蝶がいたら私は降りれませんねぇ。降りたら殺されてしまいそうです、クク」
「光秀!上総介様もお待ちなのよ!早くしなさい!」
茶化して笑ってみせれば容易く怒りを顕にする
帰蝶の怒れる顔は炎の如く美しい
私を見つめ、名を呼び、私を思って溢れる言葉
「そう怒鳴ってばかりで信長公に逃げられても知りませんよ?」
「ならさっさと降りて来なさいよ!」
悔しさと怒りを滲ませる帰蝶を見られるのは私だけだと思うと嬉しさが募った
「…帰蝶は怒った顔もお美しい」
「光秀!」
馬鹿にされたと思ったのか更に鋭くなった眼差しに射抜かれる
楽しくて仕方ない
今の帰蝶は信長公も蘭丸も知らない姿だ
私だけが知っている、幼い頃から変わらぬ帰蝶だ
「本心ですよ」
「〜〜っ私は先に行くわ!早くしなさいよ!」
ドスドスと音が聞こえそうな程に全身で怒りを表しながら去っていく帰蝶に手を伸ばす
私に向ける優しさも、怒りも、悲しみも、こんなにも色鮮やかに輝いているのに、あの頃のように私を見る日は来ないのだ
お転婆で、日の下を無邪気に走り笑っていた幼い貴女はもういないのだと実感する
戦場で見た姿はまさに蝶
信長公の為だけを想い、命の限り舞う蝶々
それもこれも、今の彼女の全ては信長公の為にある
あんなに優しく笑う姿を、愛しそうに見つめる瞳を、私は初めて見たのだから
「帰蝶」
太い枝から飛び降り遠ざかる背中を追った
優しい帰蝶は呼び止めれば立ち止まるのを知っているから
「これを貴女に差し上げますよ」
不機嫌な顔で、それでも待ってくれる帰蝶の簪の横にに手折った桜の枝を添えてやる
「笑っていればそこそこ見られるのだから、笑っていなさいな」
軽口で誤魔化しながらの本当の気持ち
「…あんたは一言余計なのよ。でも、ありがとう光秀」
何だかんだと言いながらも、素直に笑う姿はあの頃まま
「さ、早く行きましょう。上総介様も蘭丸君も待ってるわ」
「ええ、そうですねぇ」
懐かしい夢を見た
茜色に染まった思い出だ
大切な、私だけの秘密
信長公を想い、美しさの増した艶やかな帰蝶
広がる空はどこまでも晴れやかだ
舞い散る桜の花弁は高く高く昇っていく
(あんな約束、貴女はもう忘れてしまったのでしょうねぇ)
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