あの方が優しく笑うのはたった一人の前でだけだ

それに気付いたのはいつだろう
もう随分昔のようだった気がする
僅かな悲しさと寂しさを覚えている
それでも、笑い合う御二人が余りにも幸せそうで、安堵した

心を許し合い、穏やかに手を取り微笑む横顔は、今までに見たことが無いくらい満たされたものだった
あの方が笑うのなら、それだけでよかった
自分の感情など無に等しい

あの方の幸福が私の幸福だった

どこから見ても完璧な御二人
寸分の狂いもなく、まるでそれが元の形であったかのようにぴったりと一つに収まっていた
外から差す光に照らされて笑い合う御二人は、世界から祝福されているようだった

美しいと思った
ただ、涙が溢れた

御二人に気付かれる前に足早にその場を立ち去った
もしかしたら気付かれていたのかもしれないが、それからも御二人共何も言わず平時と変わらなかった
御二人にとっては些末なことだったのかもしれない
御二人が共に在るだけで、私の心は満たされていた




「今日は随分ぼんやりとしているね、何かあったのかい?」

「いえ、すみません。大丈夫です」

「そうかい?では話の続きだ」

広げられた地図に目をやり、二人だけで話をする
御一人で軍議よりも深い策を練り上げる半兵衛様は、誰よりも秀吉様のお力になれる

それなのに、なぜに病は半兵衛様を選んだのだ

半兵衛様は病だと解ってから誰も部屋に入れようとしなくなった
給仕の者も、見舞いの者も、部屋の中には入れようとしない
戸の前で二言、三言言葉を交わす程度だ

もう随分と秀吉様にもお会いしていない筈だ
秀吉様は毎日、時間があれば半兵衛様の元を訪れる
僅かな言葉を交わし、別れを告げた後も、秀吉様は静かに戸の前に佇んでいらっしゃる
それは半兵衛様も、きっとお気付きになられている
それでも顔を会わせることも無く、戸越しに短い会話をするばかりだ

「…秀吉は、変わり無いかい?」

地図に目をやったまま穏やかに微笑む半兵衛様はとても儚い

半兵衛様に部屋に呼ばれるようになってもう四度目になる
半兵衛様が本当に話したいことは、策略よりも秀吉様のことだと気付くのに時間はかからなかった

「…お会いには、ならないのですか?」

私の言葉に目を閉じ、口元に笑みを浮かべる姿はとてもお優しい

「ああ。準備をしているところだからね」

何の、と聞ける程私は馬鹿ではない
別れる為の準備だと、誰よりもよく解っていた

「そんな顔をしないでおくれ」

「っ!すみません…」

一番辛いのは半兵衛様だろう
それを知っているからこそ、秀吉様も半兵衛様の意思を尊重しているのだ

「ごほっ、げほっ」

半兵衛様の口元に赤が咲く
戦場でよく見慣れたそれ
だがしかし、日常では決して見ることのない赤

「半兵衛様っ」

駆け寄り背に手を添える
皮と骨の感触に悲しくなる
この方はいつからこんなに痩せてしまったのだろう

「…大丈夫だよ」

「……もう、御休みになられた方が」

「…そうだね」

口元を拭い半兵衛様が横になる

「三成君、僕はもう君を呼ばない。君に病が移るのは嫌だからね。…もうここへ来てはいけないよ」

「…っ、はい」

「いい子だ」

枯れ木のような手に、優しく頭を撫でられる
幼い頃と同じように、どこまでも優しく

「一つだけ、お願いがあるんだ」

すがるような眼差しに身が固くなる

「秀吉を、よろしく頼むよ。君と同じで不器用だから、心配なんだ」

「…はい」

「有難う」

悲しくて仕方なかった

生きている内から死の準備をしなければならない気持ちは私には解らなかった
まだお若い、遺言を残すような歳ではない筈なのに、そうしなければならない半兵衛様がただただ憐れだった
戦で死ぬことはあるだろう
しかし、志し半ばで病に倒れることがどれだけの苦痛なのか、想像も出来なかった

「もうお行き」

「…失礼します」

目深に礼をして名残惜しい心を抱え立ち上がる
戸に手を掛けた時に呼び止められた

「僕が死んだら秀吉に伝えて欲しい。悔いはなかった、後は全て三成に任せる、と」

「……」

「…そうすれば、秀吉は君のものになる」

「っ!」

「見ているだけでは、手に入りはしないんだ。本当に欲しいものは、奪ってでも側にお置き。そして決して手放してはいけないよ。…無理強いはしない。伝えるかどうかは君次第だ」

私の心は全て見透かされていたのだと思うといたたまれなくなる

「…僕は、秀吉も君も、大切なんだよ」

穏やかに微笑んで半兵衛様が目を閉じる
人形のように生気のないお姿はどこまでも気高くお美しい

「さよなら、佐吉」

「…っさようなら、半兵衛様」

静かに戸を閉め、ため息を吐く
何もかもがやりきれなかった

ずっと御二人を見つめてきた
隣で笑い合えるのが自分ならと思うこともあった
それでも、半兵衛様といる秀吉様は幸せそうで、嬉しかった

大切な方々なのだ
抱く感情は違っても、どちらも共に大切なのだ

ぽつり、ぽつりと涙が落ちる

秀吉様のお心に残るのは、半兵衛様だけでいい
幸せそうに笑い合う御二人を知っている
それだけで、私は満たされる
これから先、秀吉様の笑みが見られなくてもいい
十分過ぎる程に夢を見させて頂いた
半兵衛様と手を取り合うお姿を覚えている
優しく、清らかで、穏やかな空間
見ているだけで満足だった

秀吉様には半兵衛様以上はおられないのだ

「…私はっ、幸せそうな御二人を、見ているだけで、十分だったのです」

戸の中からは何の音も聞こえない
幼子のように丸くなり、歯を喰い縛って嗚咽を堪えた




守りたいから側に居よう

嘘を吐けないから口をつぐもう

ただ、思い出にしがみついているだけだとしても、私の我が儘だとしても、お心だけでも残したかった

大阪の上に広がる夜空はどこまでも暗く、深く、光を隠す
だというのに、空が暗さを増す度に星は一層明るさを増し、ただ冷たく見下ろすばかりだった






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