寿陵について
 
■寿陵は誤った考え
 
生前墓=寿陵は長生きするという根拠のない話をよく聞く。寿陵は秦の始皇帝稜に代表されるように、世界中の権力者たちは競って自らの墓を生存中に造った。これは一国の権力者のように、多くの人材と費用を自由に費やされる者にしか出来ない建立法であって、一般庶民が真似をする事は決して良いことではない。しかも寿陵造営は多くの人々の犠牲と国の財政を圧迫し、国力の衰退を招いたという恐ろしい事実がある。寿陵建立法は特殊なものとして捉えるのが良いと思われる。
 
中国では例え王と云えども安閑とした日々は少なく、王の地位を狙う者達から我が身を守ることが最も重要な事の一つであった。そのため、彼らはその地位を安泰にするために風水の専門家、つまり墓相の達人を身近に置いたのである。墓や墓の環境から過去・現在・未来を知ることが出来る。この術は秘中の秘とされ、ごく一部の人間のみ知るところであった。
目を国内に向けると、日本の寿陵として例えられるのは「聖徳太子」の墓であろう。聖徳太子は西暦574年、用明天皇と穴穂部間人皇女の間に生まれた。父の用明天皇は太子が14歳の時亡くなっている。父用明天皇の追善供養と学問習得道場として建立されたのが法隆寺であり、法隆寺国宝薬師如来像は用明天皇の理想の姿として造られたものといわれている。

「和を以て貴しと為し、忤ふこと無きを宗とせよ。人皆党有り、亦達れる者少し、是を以て或は君、父に順はずして忽ち隣里に違へり。然れども、上和らぎ下睦びて、事を論ふに諧ひぬる時は、即ち事理自に通ふ。何事か成るらざらむ」

聖徳太子は当時の社会情勢を憂い、自らの子17名に諭すが如く十七条憲法を制定し、推古天皇の摂政として活躍した。聖徳太子には10人の妃と17人の子供がいたが、将来子供たちが天皇の座を狙い争乱を起こすようでは国の為にならないと思い、熟慮の末ある事を実行した。それは、まず自らの墓を建立する事であった。

聖徳太子は仏教のみならず墓相にも造詣が深く、どうすれば人を殺め、我が身を守ることが出来るかを知っていた。しかし人を殺めるよりも自らの家系を断つ事によって紛争を未然に防ごうとしたのである。このことは徒然草の一節に「聖徳太子のお墓をかねて築かせまいける時に、ここを切れ、かしこを断て、子孫あらせじと思ふ」と書かれていることからも窺える。

聖徳太子は墓石の天石から人石、地石に至るまで疵をつけ、将来子孫が絶えるよう秘術を尽くされたのである。しかし生前に墓を建立し、疵までつけたとあっては無事でいられる筈もなく、石の欠けは肉体・命の欠けと言われるように、疵をつけた二ヵ月後聖徳太子はお亡くなりになられた。西暦622年2月22日の事である。

聖徳太子のように、自らがそれを願って建立したものならばいざ知らず、何も知らない人がむやみに生前墓を建立する事は出来るだけ避けるようにする方が賢明である。勿論、生前墓を建立しても長生きしてる人はいるだろうが、それは先祖の「徳」という有難い財産を受け継いだからであって、使った財産は減るということも忘れてはならない。私の周りには止めるのも聞かず生前墓を建立し、一年から三年以内にお亡くなりになられた人が何人もいらっしゃる事を付記する。

ところが、生前墓を建立した夫婦のうち何れかが早くお亡くなりになると、残された人は不思議と長生きをされている。寿陵は長生きをするといわれるのは、実はこの辺りにあるのかもしれない。
■死者が死者を呼ぶ、墓が仏を招くと言う
 
立派な墓を建立しても誰も入る人がいなければ、墓も寂しいものである。いや、誰も居なければ何処からとも無く彷徨っている霊が入り込む場合もある。墓を護るために夫婦のどちらか、或いは家族の誰かが早く亡くなるという場合もあるので、生前墓の建立はよくよく考えねばならない。墓の建立は決して無造作にするのではなく、順逆に則った正しい祀り方によって、子が親の墓を建立するという事を知って頂きたい。
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