お墓の歴史「鎌倉〜室町時代」 中世に入ると「無縫塔」(卵塔)、「板石塔婆」(板碑)、「笠塔婆」等が出現する。 無縫塔は、宋で流行したものが鎌倉時代に禅宗の僧によって持ち込まれ、以後禅宗の高僧の墓塔として発達したが、その後各宗派の僧侶の墓塔として用いられたため、鎌倉時代以降になると数多く見られるようになった。
■ 無縫塔(卵塔)
 
無縫塔各部の名称
図12-1 無縫塔各部の名称
中世に入ると「無縫塔」(卵塔)、「板石塔婆」(板碑)、「笠塔婆」等が出現する。

「無縫塔」は、宋で流行したものが鎌倉時代に禅宗の僧によって持ち込まれ、以後禅宗の高僧の墓塔として発達した。その後各宗派の僧侶の墓塔として用いられたため、鎌倉時代以降になると数多く見られるようになった。

この塔は塔身の形が卵の形に似ていて、縫い目が無いことから無縫塔・卵塔と呼ばれている。正式には卵形の仏塔を台石の上に置いたものを「卵塔」と呼び、台石の上に蓮弁或いは柱を載せたものを「無縫塔」と呼ぶ。

卵形をした塔身は五輪塔の「空輪」を細長く変化させたものであり、禅宗で言うところの「空」に相当する。
重制の無縫塔 単制の卵塔
重制の無縫塔 単制の卵塔
無縫塔は、「基礎・竿・中台・請花・塔身」から成る重制のものと、「基礎・請花・塔身」から成る単制のものとに分けられる。重制の方が単制のものより起源が古く、鎌倉中期に始まり「開山塔」「歴代塔」などに使われている。単制の塔は鎌倉後期から南北朝時代にかけて造られ、重制のものより塔身が長いのが特徴である。重制のものも時代が下るにしたがって、塔身の長いものが見られるようになった。



←写真 脇本英治氏撮影

 
岡山藩主池田忠雄の墓
岡山藩主
池田忠雄の墓
江戸時代になると大名も好んで使うようになった。岡山市浦安本町の清泰院にある岡山藩主「池田忠雄の墓」は、高さが5メートルを超えるような大きなもので、基礎から請花までは平面の八角形をなし、基礎と竿は一石で造られている。また、中台と請花も一石の上に彫られ、その上に大きな塔身を立てた三石作りとなっている。台座の幅が広いため塔身を大きくしても安定感があり、実に堂々とした巨塔である。この墓は里芋の形をしていることから、地元では別名「芋墓」とも呼ばれている。

塔身には
                  寛永九暦
      清泰院殿四品参議仁秀良勇大居士
                  卯月三日
の銘が刻まれている。
 
  この他、山内一豊妻千代夫人の無縫塔が高知市眞如寺にある。戦国武将の妻の墓だけに、堂々とした立ち振る舞いと一分の隙の無さ、女性らしい気品が墓から伺え、思わず襟を正したくなるような墓である。勿論、夫一豊の墓もより一段と大きな無縫塔で建てられている。
 
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■ 笠塔婆
 
笠塔婆各部の名称
図12-2 笠塔婆各部の名称
基礎の上に板状あるいは角柱の塔身を置き、その上に笠をのせ、頂上に宝珠もしくは相輪を立てた塔を「笠塔婆」という。但し、基礎を持たず直接地中に立てられたものもある。また塔身は希に柱状のものも見られる。笠塔婆は板碑の先駆けとなる石塔で、平安後期に始まり、鎌倉後期には多くの笠塔婆が造られた。塔身には仏像・種子・名号・題目などを彫り、主に供養塔として用いられた。

供養を表わすものとして阿弥陀如来の種子であるキリーク、或は阿弥陀三尊の種子を刻み、その下に個人の戒名□□信士を、さらに下に為□□‥‥と刻まれているものや、経文を入れ、○○供養と刻まれているもの等様々なものが見られる。また、南北朝時代には題目(南無妙法蓮華経)を刻んだものが多く造られている。日蓮宗で見られる法華題目石は、これを代表するものである。

笠塔婆は当初追善供養や逆修供養を目的として造られたが、時代と共に主旨も変り、五穀豊穣、国家安泰、国土安全などその折々の民衆の信仰心が深く刻まれるようになった。笠塔婆は、この後登場する板碑の原型であると同時に、現在用いられている角柱墓、大名墓などの原型でもある。
 
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  ■ 板石塔婆(板碑)
 
板塔婆各部の名称
図12-3 板碑各部の名称
「板碑」は五輪塔を簡素化したものと考えられており、鎌倉・室町時代の武士の興隆と共に発展してきた。江戸時代に見られる角形墓標、位牌形墓標の原型であり、現代の墓石の原型とされる。

板碑とは板状の石碑のことを指す場合と、板状で頂部が山形をしており、二条線を持つ石製の塔婆を指す場合がある。また、関東に多く見られる緑泥片岩製の青石塔婆も同じく板碑である。

一般的な板碑は形状が板状で石の頭部を山形に造り、その下に二段の切込みと額部をつくる。その下に像容・種子・題目・銘文などを刻んだ細長い板状の身部をつけ、さらに身部の下に根部をもったごく簡単な造りをしている。身部の上部には仏の種子(梵字)を刻んだり像容を彫り、その下には建塔の趣旨や年月などを刻んであるのが一般的である。もちろん無銘のものも数多くある。

板碑は板状に造形しやすい緑泥片岩を産出する関東秩父地方で多く造られ、その後全国に広まった。最も古い板碑は埼玉県にあり、1227年の作である。自然石のものは平安期から現われ、鎌倉中期から後期にかけて最も多く造られている。板碑は慶長の頃まで造られていたが、その後姿を消した。
 
板碑
図12-4 板碑
この板碑には阿弥陀の像容を顕したものや、五輪塔の「五大種子」を顕したもの、「六字名号南無阿弥陀仏」を顕したもの、「大日三尊」を顕したもの等様々である。阿弥陀仏或いは阿弥陀三尊が彫られている板碑が圧倒的に多いのは、浄土思想が広く一般に広まった時代的背景からであろう。武士が戦場に出陣する前に「逆修墓」として建てたという記録もあり、これなどもその思想が影響しているものと考えられる。

浄土宗では板碑を
「三輪塔」と呼ぶ。頭部の形は五輪塔を変化させたものであり、五輪思想の中に浄土思想を盛り込んだものと考えられる。浄土宗の信者が極楽浄土への往生を願う時、実際に行を実践するときの心構え(別安心)があるが、『観無量寿経』には次のように説いている。

「若し衆生ありて彼の国に生ぜんと願ぜば、三種の心を発すべし、即ち往生せん。何等をか三となす。一には至誠心(しじょうしん)、二には深心(じんしん)、三には回向発願心なり、三心を具する者は必ず彼の国に生ぜん」‥‥‥板碑が主に逆修、追善供養として用いられた背景には、このような教えが広く庶民や武士階級に浸透していたことが考えられる。

板碑には塔身上部に阿弥陀三尊の種子を表示し、その下に銘文等を顕しているものと、各宗派のご本尊の種子を上部に表示し、その下に法名・没年月日等を顕しているものがあり、前者は供養塔であり、後者は現代の墓そのものを示している。
 
板碑(方柱碑) 岡山県山陽町 関西に伝わった板碑には、板石ではなく板碑型に造られた厚みのある石塔が見られる。石も花崗岩製のものが多く、江戸中期頃まで造られたようである。その後、山形頭頂は櫛形頭頂へと変化し、今日の石塔へと変わっている。
左の写真は岡山県山陽町で見られる板碑の一種方柱碑である。高さ約2メートル、頂上は山形の三角形をしており、二条線を持つ。身部上方には釈迦・文殊・普賢三尊の種子を刻し、その下方には『為僧覚有三十三季暦応三庚辰二月十五日』の銘がある。僧覚有の三十三回忌供養塔として建てられたようである。
 
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■ 石幢(せきどう)
 
石幢各部の名称
図12-5 石幢各部の名称
石幢
石幢
石幢の幢というのは寺院の本尊前に飾られる布製の縦に細長い旗のことで、そこに仏の像や教えを書いて供養したものをいう。六枚合わせた形を石で形どったものが六面石幢、八枚合わせると八面石幢となる。この塔はもともと中国宋で盛んに造られていた。日本では平安時代に造られたものが一番古いとされており、鎌倉時代以降浄土信仰が広まるにつれその数も増えてきた。室町・江戸時代になると庶民の地藏信仰と結びつき、六地蔵石幢など近代まで多くの石幢が造られている。

形は下から「基礎・幢身・笠・宝珠」からなる『単制』のものと、「基礎・幢身・中台・龕部(がんぶ)・笠・宝珠」からなる『重制』のものとに分けられる。単制のものは幢身の上方に像容あるいは種子を配し、重制のものは龕部に像容を表わす。龕部は普通六角形をしていて各面に六地蔵が彫られるが、それぞれの信仰の対象となる仏が彫られていたり、八角形をしているものもある。また、三重の石幢で層塔形式のものもあり、他の墓塔には無い様々な形・用途がある。寺院の入り口とか墓地、時には道端でその姿を見ることができる。
 
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■ 庚申塔(庚申供養塔)
 
庚申塔 庚申とは庚申(カノエサル)の日に祀る神で、61日目に巡ってくる。干支に基づく信仰の一つで、庚申の日に行われた禁忌の行事に発している。元々は道教の三尸(さんし)説に基づく陰陽道系の信仰であった。
 
中国の道教では人間の体には三尸虫(さんしのむし)がいるとされる。この虫は庚申の夜になると、人間が眠っているうちに天に昇り人間の罪を天帝に報告する。その内容によっては人間の寿命が縮んだり病気になるという。万一、三尸虫の虫の居所が悪くて悪い報告をされると困るので、普段から功過格(善悪の点数表)を点け、功と過ちを正確に把握しなさいという教えがある。

また、眠らなければ三尸虫も体から出て行かれないという事で、この日は近所の人達が食べ物・飲み物を持ち寄り、皆で飲食・歓談して過ごすという風習が出来上がった。徹夜して守る事からこれを「守庚申」といい、一緒に過ごす人たちの集まりを「庚申講」という。
 
庚申信仰は奈良時代に日本へ伝わった。平安時代には貴族の間で守庚申が行われ、中世末期頃から庶民の間に広がり、江戸時代になると庚申待と呼ばれるようになり全国へと広まった。
 
庚申塔 庚申待は同じ信仰を持つ仲間同士が集まって行われる。この日は庚申様の画像を床の間などに掲げて礼拝し、その後仲間同士飲食しながら夜を徹して語り合うというのが一般的である。それはいつしか地域のコミュニケーションを図る役目を担った。老人から若者への指導も行われた。農作業の段取りや農具の貸し借りも話し合われた。豊作祈願もここで行われるようになった。また、庚申の日は定められた禁忌もあった。この日は肉や魚は食べてはならないとされ、それを犯した者は目がつぶれ口が曲がるとか、大病、大怪我をするなどと実しやかに言われた。この夜妊娠した子は将来盗人になると言われ、夫婦の性行為は慎まなければならないともされた。大泥棒として名高い石川五右衛門などは、庚申の夜に身ごもった子などと語られ、ますます禁忌が広まったともいわれる。

全国に広まった庚申信仰は、地方によってその性格も大きく変わった。三尸虫の信仰から農作神・百姓の神へと変わった地方もある。申(さる)という言葉から猿の信仰と習合し、山の神祭りの形態が見られる地方もある。猿は山の神の使いであり、牛馬の守り神として信仰されていたのである。
 
「庚申塔」は道祖神や塞の神と同様に路傍に建てられている。旧い主要道路の分かれ道や街道沿い、宿場はずれには様々な形をした庚申塔を見ることができる。この庚申塔は正式には庚申供養塔という。庚申塔には文字だけを刻んだものや、像を刻んだものがある。それらの中でよく目にするのは、密教と習合して生まれたと云われる、髪を逆立てた六臂の像の青面金剛像である。また、申は猿に繋がることから、帝釈天の使いの猿であるとされて帝釈天を祭神としたものもある。国東半島豊後の国高田市では、藤原時代の作とされる庚申塔が立つ。塔身には青面金剛・二童子・四夜叉・二鶏・三猿を配した独特のものである。有名な浅草「浅草寺」には多くの庚申塔が見られるが、中でも珍しいのは大日如来の庚申塔である。頭に宝冠をいただき、法界定印を結ぶ胎蔵界大日像で、蓮華座の下には向かい合った猿と鶏が薄肉彫りされている。今から約三百五十年前の承応三年の造立である。

様々な像容には目を見張るものもあり見る者を退屈させないが、塔そのものの形態も様々な種類のものがある。幾つかを紹介すると、@板塔婆の形を引き継いだ板碑型のものA舟形の光背を持つ光背型B四角柱や六角柱などの角柱型C角柱の上に笠を載せた角柱笠付型D塔身が円筒形でその上に笠を載せた円柱笠付型E像を丸彫りにした丸彫型などである。
 
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■ 十干十二支
 
庚申というのは十干十二支の組み合わせの一つである。 十干とは 甲(こう)・ 乙(おつ)・ 丙(へい)・丁(てい)・ 戊(ぼ)・ 己(き)・ 庚(こう)・ 辛(しん)・ 壬(じん)・ 癸(き)の総称を言う。中国殷の時代に於いてはト旬が使われていた。卜旬は10日を一旬として占う方法で、一ヶ月(旧暦の30日)を上旬・中旬・下旬と10日ずつ三つに分け、10日のうち第一日目を甲、二日目を乙、3日目を丙・・・というふうに、日の順序を示した。これが一ヶ月に三回繰り返されるが、これではあまりにもサイクルが早い。そこで十二支と組み合わせることにした。十二支とは (し)・ (ちゅう)・ (いん)・ (ぼう)・ (しん)・ (し)・ (ご)・ (び)・ (しん)・ (ゆう)・ (じゅつ)・ (がい)の総称の事で、これは1年12ケ月の順序を、子は正月、丑は二月、寅は三月・・・の順で示したものである。現在は寅を正月としてここから一年が始まるが、これは立春正月が使われるようになったためと言われている。

さて、1年を12ケ月としたのは惑星である木星の運行から導かれている。木星は太陽の周りを約12年かけて一周するが、(現在は11.86年と測定されている)木星の天空での位置を示すものとして十二支が生じたとされている。木星は太陽とは異なり、西から東へと移動する。このため仮に東から西へ移動すると仮定して毎年の木星の位置を決め、それに付けられた名称が十二支である。この仮想的な木星は神格化されて
太歳と呼ばれる。つまり、「子」の年には「子」の方位、「未」の年には「未」の方位を指すわけである。

十干と十二支を組み合わせたものを略して
干支と言う。いわゆる「エト」と呼ばれているものであるが、これを組み合わせると六十組の干支となる。庚申待が60日毎に行われるようになった理由はここにある。また、年で示せば60年(還暦)となる。昔の60歳というのは大変な長寿とされ、長寿・健康に対してのお礼の意味を込め、あるいは長寿・健康を祈って庚申塔を建立したと考えられる。寺院などの指導で建立する場合もあり、このような時生前戒名(逆修戒名)を頂くという事もあったであろう。

甲子園球場は大正13年8月1日に竣工式が行われ、甲子園大運動場と命名された。この年の干支が甲子であったので「甲子園」と名付けられた事はよく知られるところである。よく人から年齢とか干支(えと)を聞かれるが、こういう場合、殆どの人は寅とか未と答える。しかし、寅とか未は十二支であって、干支ではない。干支で答えるならば、甲寅とか壬未というように答えるべきであろう。

次に読み方であるが、十干は五行により「甲・乙」「丙・丁」「戊・己」「庚・辛」「壬・癸」の五つの組に分けられる。組の中の最初を 兄(え)、後ろを弟(と) と呼ぶ。干支を「えと」と読むのはこのためである。この組み合わせにより、 甲>は「きのえ」、 乙は「きのと」、 丙は「ひのえ」、 丁は「ひのと」、 戊は「つちのえ」、 己は「つちのと」、 庚は「かのえ」、 辛は「かのと」、 壬は「みずのえ」、 癸は「みずのと」と読む。

十二支は、子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)と読むので、これらを組み合わせて「甲子」は「きのえね」、「乙丑」は「きのとうし」または「きのとのうし」と読み、「丙午」は「ひのえうま」、「丁午」は「ひのとのうま」と読む。四柱推命では、生まれた日の干支を判断する時の中心とするので、この「日」の「干支」は大変重要なものとなる。生まれた日の干支の求め方について「こよみのページ」という素晴らしいサイトがあるので参考にしてほしい。
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