「お墓の歴史・奈良、平安時代」 『層塔』『多重塔』は多宝塔や宝篋印塔の基本となった塔である。平面が方形、多角形をしているのが殆どであるが、中には円形のものも見られる。塔は下から基礎・塔身・相輪からなる。基礎は一般的には台石と呼ばれ、表面または輪郭を巻いて格狭間を入れる。塔身は軸部と笠部からなる。その上の相輪は、露盤の上に下から伏鉢(ふくばち)・請花(うけはな)・九輪・請花・宝珠からなる。屋根(笠)は三層・五層・七層・九層・十三層など奇数となっている場合が殆どである。また、塔身の初重軸部の四方には、四方仏の像容、あるいは種子を刻む。
仏教が広く一般に普及していく頃には、仏教とは何であるかが理解されるようになった。あの世での先祖の苦しみを救うためには菩提を弔い供養することが大切である、そのことが生きている自分達をも幸せにしてくれる、それを信じ救われたいと切に願う人々は仏塔を建立し発願をするようになった。一方、仏塔に代わるものとして石造の仏塔、つまり石塔を建立しその中に経文などを納めるようになった。最初は貴族達が中心であったが後には武士階級・商人・庶民にまで及び、また古来からの土着信仰ともうまく融合して新しい石の文化を発展させていった。その根底にあるものは、全ての人々の幸せとあの世での幸せを願うものであった。ここからは石塔そのものの変遷を振り返ってみたい。
■ 層塔・多重塔
 
層塔各部の名称図8-1 層塔各部の名称  『層塔』『多重塔』は多宝塔や宝篋印塔の基本となった塔である。層塔・多重塔の多くは平面が方形、多角形をしているが、中には円形のものも見られる。塔は下から基礎・塔身・相輪からなる。基礎は一般的には台石と呼ばれ、表面または輪郭を巻いて格狭間を入れる。塔身は軸部と笠部からなる。その上の相輪は、露盤の上に下から伏鉢(ふくばち)・請花(うけはな)・九輪・請花・宝珠で構成される。屋根(笠)は三層・五層・七層・九層・十三層など奇数となっている場合が多い。また塔身の初重軸部の四方には、四方仏の像容、あるいは種子を刻んでいる。

仏典の教えに従い、各地に五重塔や三重塔が建てられるようになるが、その石造版と言えるものが層塔、多重塔だと考えれば判り易いであろう。石造層塔は奈良時代前期には既に造られており、鎌倉中期から後期にかけては優れたものが多く造られている。この時期のものは、初重軸部に大きな種子を力強く薬研彫りにしてあるのが特徴で、笠の軒も厚く、軒反りを見せ、軒口は垂直に切ってある。時代が下ると種子は小さくなり、笠の軒も薄く、軒反りも弱弱しい反りになり、軒口は斜めに切るようになる。また、建築物としての層塔は中国や韓国では見る事ができるが、日本では殆ど造られていないようである。

また、庶民の間では民間信仰と結びつき、庚申塔や日待塔、一字一石塔などの供養塔としても使用されている。
 
層塔と多重塔の違いは明確でなく、同義語として扱っている文献もあるが、一般的には軸部と笠の間隔を広くとったものを層塔(多層塔)、初重以外は間隔が狭いものを多重塔と分けている。
 
 ■ 最古の石造三重層塔
石塔寺石造三重塔 日本最古(奈良時代前期)の石造三重層塔が、滋賀県の天台宗・石塔寺に建てられている。石造三重層塔としては国内最大とされている。伝説によると、インドのアショカ王が深く仏教に帰依し、塔婆を造ってそれに仏舎利を納め世界に撒布したものの一つであると言われている。先般NHKで放送されたこともあり、御覧になられた方も多いのではないだろうか。

この塔の形式は中国・朝鮮に多く見られるものであり、やはり異国の物という印象を受ける。この地は百済が滅亡した時、天智天皇から土地を与えられた千数百人の亡命者たちが居住した地域とされ、彼らの心のシンボル・崇拝の対象として建てられたのではないかと考えられる。
 
 ■ 福田海 中山通幽
中山通幽師
中山通幽師
話は変わるが、石塔寺には数多くの古石塔や古石仏が整然と並べられている。これは、昭和四年に福田海『中山通幽師』によって集められ、祭壇を造って祀られているものである。中山通幽師は文久二年(1862)備中松山藩の御抱鍛治薬師寺朝治の長男として、賀陽郡近似村(岡山県高梁市)に生まれた。名を盛太という。12歳の時、吉備津の多田家養子となった。多田家は代々吉備津宮の御釜殿に奉仕する家柄であった。聡明な通幽は16歳で小学校教員となり、阿新地方の学校を歴任していた。このころ修験道に強い関心を持ち、総社市豪渓の天柱山で百日山籠の行を行っている。24歳の時、大和の大峯山に入り本格的な山伏修行を行うため教員職を捨て大阪に移った。
 
化野念仏寺無縁塔
化野念仏寺無縁塔
明治22年、中山通幽は廃止されていた修験道の復活を図ろうと、内務大臣松方正義に建白書を提出した。しかし採り合ってもらえず、自分の非力を思い知らされた中山通幽は発願して陰徳積善による功徳を心掛けるようになった。明治28年、大坂市内に「無縁法界講」を結成し、墓相を説き始めた。中山通幽33歳の若さであった。明治33年1月15日、大阪四天王寺勝鬘院で大規模な無縁仏の供養を行った。陰徳積善に生涯を懸けようと誓った中山通幽人生再出発の記念でもあった。中山通幽はこの頃から霊場旧跡を修復し、無縁仏を祀ることを自己の修行として行うようになった。師の周りには共感者が集まり、聖徳太子の四福田にちなんで「福田海」と名づけた。
 
中山通幽は、この後全国を行脚しながら無縁慰霊塔を建立した。無縁とは親戚・血縁などのゆかりのないことを言い、祭祀すべき人がいない霊を「無縁仏」、墓を「無縁墓」という。中山通幽は「無縁は貧の極みである。貧とは捨てられたもの、顧みられないもの、この世の有形、無形の満足していないものの義であり、諸々の貧を消滅すればこの世は正しい姿となる、貧のない姿が本来の福の姿である。」と言い、「墓があって家があり人がある。即ち墓は根である」と説いている。明治41年、多田盛太を中山通幽と改名し、大阪で「福田海」の開宗を宣言した。京都・宇治の大塔の再建はこれを記念して行ったものである。

中山通幽の偉業は、京都・化野念仏寺の無縁塔、北海道・函館大火の慰霊塔など数多くの業績があり、全国津々浦々にその足跡を見る事ができる。昭和2年、故郷吉備津に帰り、昭和11年5月17日、74年の生涯を閉じられている。 
   
【著名人の層塔】
平安時代の三十六歌仙の一人、小野小町の供養塔が京都市左京区小町寺にある。おそらくこの時代のものでは無いだろうが、五重の層からなるこの供養塔は見るからにほっそりとして優雅でもある。まるで小町の美しさが墓に現れているようであり、気品漂う層塔の一つであろう。小野小町の墓は全国に十箇所以上あるが、多くは五輪塔で建てられている。
 
鎌倉幕府の創始者、源頼朝公の墓は鎌倉市鶴岡八幡宮裏山にある。墓は五重の層塔である。後の武将達の大きな五輪塔墓を思うとやや物足りなさは感じるが、気品のある凛とした墓塔である。
 
秀吉の寵愛を一身に受けた淀君の墓は、大阪市北区太融寺にある。堂々とした大きな層塔は、生前女性でありながら表舞台で活躍した淀君の姿がそのまま映し出されているようにも見える。先の大戦で空襲に会い、焼かれた姿のまま残っているが、何かしら大阪城が焼かれているシーンが見えてくる、そんな気がしてならない。
■ 様々な層塔・多重塔
京都 常寂光寺 石造三重層塔 倉敷 藤戸寺 石造五重塔 京都 常寂光寺 石造五重層塔 岡山 西大寺観音院 石造七重層塔 三秀院石造十三重塔
石造三重層塔
京都 常寂光寺
石造五重塔
倉敷 藤戸寺
石造五重層塔
京都 常寂光寺
石造七重層塔
岡山 西大寺観音院
石造十三重塔
京都 三秀院
 
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