お墓の歴史 縄文時代
■ 土壙(どこう)墓
 
抱石葬イメージ
抱石葬
遺跡発掘調査等によると、古代の集落では死者の埋葬地=墓地は集落の一部、あるいはその隣接地が当てられていた事がわかってきた。当初は集落の中央付近に埋葬され、時と共に周辺へと移っていったものと考えられている。この頃は勿論『土葬』が基本であり、その殆どは『土壙墓』と呼ばれる素掘りの墓に死者を葬っただけの簡単なものであった。この土壙墓は全国で見られるのが特徴であり、発生当初は土壙に直接埋葬する一段掘りの形式が多く、その後は土壙の中にさらに埋葬用の穴を掘った二段・三段形式のものが見られるようになった。土壙墓の大きさは縦1.5〜2メートル、横0.5〜1メートル、深さ20〜40センチ程のものが一般的であり、穴の底は平らなもの、体が納まり易い船底形のもの、斜面のように斜めになっているもの等がある。これらのことから、遺体は捨てられたものではなく集団の葬送儀式に基づいて埋葬されたものであり、そこに古代の人々の死後の世界観を垣間見る事ができる。
 
遺体は埋葬の際に手足を折り曲げて、しゃがんだ姿勢で埋葬する『屈葬』が殆どで、時には胸部から腹部にかけて大きな石を乗せた『抱石葬』で葬られていることもある。遺体を丸く小さく埋葬する事は、小さな穴を掘るための人々の智慧だったのであろう。また、石を抱く形は人が休んでいる時の姿勢、母の胎内にいた時の胎児の姿勢、或いは死者を恐れ死者の霊を恐れた古代の人々が、死者を拘束するためにとった形だとも言われている。古代の人々がいかに死者を恐れていたかという事は、遺体を強く縛り付けたり石を抱かせる等の他に、埋葬した後平らな石を足元から首の辺りまで敷き詰めていたという例、歩き出さないように足の骨だけを拭き取ったという例からも覗うことができる。
 
抱石葬




貝輪
貝輪
後期に見られる土壙墓には蓋のないものもあるが、多くは木製の木蓋や石で造った石蓋が乗せられていた。また、蓋のまわりには粘土質の赤土で目張りが施されているものや、埋葬地の上に目印の石を置いたもの等が出現した。当初の土壙墓の中には副葬品はあまり多く見られず、ごく希に生活用品や身体につける装飾品などが見つかる程度である。

岡山県の津雲貝塚は、縄文時代の墓制を知る上で貴重な資料を数多く提供してくれた。津雲貝塚からは170体あまりの人骨が発見され、このうち少数ながら装飾品を持つものがあり、それらによって生前の社会的地位を窺い知ることができる。装飾品のうち、貝輪をはめる人骨は9体あり、8体までが女性であった。貝輪は小児の頃から腕にはめなければならず、自ずから日常生活に支障をきたすことになる。一人でも多くの労力を必要とした古代にあっては特殊な存在であり、おそらくは集団内における重要な祭祀・呪術活動を担った巫女ではないかと考えられている。また、装飾を持つ男性は集団の指導者的役割を担う長老、あるいは祭司・呪術師と考えられる。遺体の殆どは屈葬で、頭は東から北東に向けて埋葬されていた。注目されるのは>抜歯である。抜歯は世界中で見られる現象であり、日本では旧石器時代から弥生時代まで存在したことが知られている。津雲貝塚から発見された人骨の殆どにも抜歯が認められている。

縄文時代後期から弥生時代にかけては、手足を伸ばした形で埋葬する『伸展葬』が出現した。この頃になると石・土製の首飾り、飾り玉、朱漆塗りの櫛等の装身具を着装したもの、石斧(せきふ)・石鏃(せきぞく)・石錐(せきすい)・石槍(いしやり)・石棒(せきぼう)等を副葬したものが見られる。石棒(せきぼう)は戦いの武器であるとか、生活用品の一部ではないかとの説があるが、近年の研究では原始宗教における祭祀の道具の一つではないかという説が有力となっている。多くの石棒はその先端或いは両端の形が男性器を思わせ、力強いものの象徴として、又は道具として使用されたものと思われる。
 
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死者を恐れ集落から離れた場所に遺体を埋葬していた古代の人々も、肉親との死別や夫婦、幼子との死別を繰り返すうち、やがて死者への恐怖心を克服し、人間らしい故人への愛着心さえ芽生えはじめた。
■ 甕棺(かめかん)墓
 
甕棺
甕棺
死者を恐れ、集落から離れた場所に遺体を埋葬していた古代の人々も、肉親との死別や夫婦、幼子との死別を繰り返すうち、やがて死者への恐怖心を克服し、人間らしい故人への愛着心を抱くようになった。余りにも早い人々の死を幾度も経験し、再び人間として生まれ変わることを願って、遺体をそのまま保存しようとする智慧が生まれてきたのである。単に穴を掘って埋めるだけの埋葬法から、遺体を納める為の容器『甕棺』(かめかん)が作られるようになった。 甕棺は生活用品として使用されていた土器とは異なり、墓に使用される棺専用として生まれた。縄文時代後期には鉢形の土器が子供や乳幼児の棺として使われ、晩期になると成人用の大きな壷型土器が作られるようになり、これが発展して甕棺となった。

甕棺には一個の深鉢型土器を用いる単式甕棺と,二個を使った合口甕棺の二種類がある。単式甕棺は石や木を使って蓋をし、合口甕棺は甕と甕を組み合わせて使ったものが多い。小さいものは直径50センチ、高さは60センチ程であるが、大きなものになると直径70センチ、高さも130センチを超えるものもある。壷や甕を焼くには窯が必要であるが、甕棺はどうやら野焼きによるものらしく、二本の支えで甕を持ち上げ、その下に燃料を入れて焼いたようである。これは支えの部分が充分焼かれず、その部分が黒ずんでいる事からも推測できる。これほど大きな甕を作る技術が当時にあったといえるが、そこには大陸からの帰化人の影響も忘れることはできない。。
 
甕棺
甕棺
甕棺は主に北九州で見られるが、弥生時代になると西日本を中心に全国に普及した。しかし、残念ながらその窯の跡は未だ発見されていない。各地で発見される甕棺の土質を調べると、地元の土ではなく、他所の土を使って焼かれたものが多いことが判った。このことから甕棺を作る技術は専門の職人によるものであり、その技術あるいは商品を売買していたのではないかと考えられている。

遺跡から発掘される甕棺の中には、身分を表すような副葬品が多く見られる。中には中国から伝わったであろう鏡や銅矛、銅剣などが納められている例もある。また、甕棺と一緒に発掘された土器棺のなかには、火葬にされたと思われる子供の骨が納められている事もあり、既に一部の地域では火葬による埋葬が始まっていたと考えられる。

縄文人の平均寿命は35歳前後だと言われている。これは主に若年層に病気・伝染病による死亡が多いためと思われる。部族や集落を維持するためには、病に冒された子供の遺体を火葬とし、他への感染を防ぐ目的があった。先の津雲貝塚から発見された人骨によると、その死亡推定年齢は熟年(40〜60歳)が最も多く35体、ついで老年(60歳以上)が12体、壮年(20〜40歳)は4体である。しかし、乳幼児とみられる人骨が少なくとも9体あった。乳幼児の骨は余程の好条件に恵まれない限り残ることはないので、実際にはかなりの乳幼児が死亡していたと考えられる。このようなことから、縄文人の平均寿命はかなり低かったと言えよう。

縄文時代後期になると、北九州では『甕棺』(かめかん)に遺体を納めた後、年月を経て『骨』になったものを新しく壷土器に埋葬し直すという驚くべき手法が見られるようになった。それらの中には、乳幼児の遺体・成年者の頭蓋骨や歯を集めて甕や土器に納められているものが見られる。後には関東でも行なわれ、これを『再葬』という。再葬は地方によっては「風葬」として近年まで行われていた。

余談であるが、仏教では火葬・水葬・土葬・林葬を四葬といい、これに野葬を加えたものを五葬という。林葬・野葬は風葬である。平安時代、谷や川に遺体を捨てた葬法は殆どの場合二次葬は(再葬)されていないと考えられており、これらは「遺棄葬」と呼ばれる。

やがて埋葬した甕棺の上に支えとなる石を数個並べ、その上に平らな大きな石を横たえる形式の『支石墓』が出現する。
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