■神々の系統 それぞれの神社に祀られている「祭神」には、それぞれが属する根本神がある。
明治維新の頃、我が国には全国に「字」に相当する「村」が凡そ18万ヶ所あった。そこには地域の人々の生活と密着した「鎭守の杜」があり、祭りや村の行事は鎮守の杜を中心に行われていた。明治39年には全国に19万という社が存在していたが、明治維新政府による市町村制実施により町村合併が繰り返され、明治の末には11万社に激減する。現在は約8万1千社の神社を数えるが、帳簿に載らない神社もあり、実際にはもう少し多いと思われる。

さて、我が国には八百万の神々と言われるように、非常に多くの神々が存在している。そして個々の神々は有力な神に従属するという事なく、それぞれ独立し個性を発揮している。そこに唯一絶対的な神を創造しなかった、日本民族の本質を垣間見るような気がする。

八百万の神々が祀られている神社を全て調べる事は大変な作業だが、それぞれの神社に祀られている「祭神」には、それぞれが属する根本神がある。例えば応神天皇を祭神としている神社は「八幡」というように、ここでは主な系統に分けて簡単に述べよう。
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◆氏神・鎮守・産土
大多羅神社 今日では「氏神様」も「鎮守の森」も「産土神社」も同一視されているが、厳密に言うと全く異なる。中国では「鎮」とは小都市・地域を表し、その地域を護る神が「鎮守社」とされていた。日本では小村落の守護神として祀られたため、それを「鎮守」と呼ぶようになった。その土地、地域の守り神であるので、建物を建てるときに行う地鎮祭は鎮守様の仕事ということになる。

「産土神」とは、その土地に鎮まっている元来の神のことである。それは「山神」や「水神」、「火神」、「みさき」、「太歳神」、「牛荒神」、「荒神」などであった。そうした土地の神を産土といい、別名を「地主神(とこぬしのかみ)」と呼ぶ。「産土神」は自分が生まれた土地の神であるから、もしも他の土地に移住しても自分の一生を護ってくれる守り神である。生まれた子供の初宮参りをするのは、産土神とのご縁が始まる最初の挨拶である。地方によっては「産土荒神」、「ヘソノオ荒神」として祀られている場合がある。
 
日枝神社 一方、「氏神」とはその土地に入植した一族(氏族)の守護神のことをいう。藤原氏の氏神は 「春日大社」であり、氏寺は 「興福寺」となる。東京の 「日枝神社」を例にとると、この神社は元々日吉山王権現と称し、文明年間に太田道灌が武蔵国川越(埼玉県川越市)に祀られていた「山王権現」を江戸城内に移し、城の鎮守にしたのが始まりである。その後近江坂本の 「山王権現(日吉大社)」と共に、江戸城鎮護の神として、また徳川家の産土神として篤く信仰されてきた。したがって江戸の産土神ではない。ところが1657年の江戸大火により焼失し、現在の赤坂溜池の台地に遷座された。大正14年には官幣大社に昇格し、皇居の「鎮護の神」になると共に、千代田区・中央区を産土地区とするようになった。しかし、江戸の総鎮守は「神田明神」であり、武蔵国総鎮守は 「氷川大社」とされているので、日枝神社は皇居の「鎮守神」であって「産土神」ではない。

古代に遡ると、2月、11月にはそれぞれの氏の氏神祭が行われていた。これは氏族にとっては大変重要な祭りであったので、官より特別に休暇が与えられ、それぞれの郷里に帰郷していた。しかし中世に至る頃には氏族は解体され、今日のような血縁的色彩のない村邑の守護神へと大きく変貌した。血縁から地縁へと変わったのである。

また、「屋敷氏神」は各自の家が一軒だけで祀る氏神のことで、家屋敷の守護神とされる。普通は屋敷内に小さな祠を設け、主に祖先神を祀る。
 
荒神社 我々の祖先は、氏神を通して先祖の崇拝を行うと共に、日頃の感謝、祈願、報告などを行ってきた。受験祈願、結婚・出産祈願などは今でも行われている。そして転居に際しては必ず氏神に報告し、今までのお礼と向かう土地の神への取り計らいを願った。新しい土地に於いては、これから護って頂くためにも必ず挨拶に参拝し、子供が生まれた時には宮参りもする。しかし、最近では現世利益を追求する風潮が強いようにも思える。お賽銭を払ったんだから○○をしてくれ・・・と、卑しくも口に出す者さえいるのが現状である。恩を祭って余慶の功徳が回向される、それを忘れてはならない。
 
◆天王
八坂神社 牛頭天王(インド祇園精舎の守護神)を祭る神社で略して「天王」といい、全国に2900社を数える。京都祇園の 「八坂神社」がよく知られている。八坂神社は貞観年間に円如と云う僧が、播磨の国「広峰」から牛頭天王を遷してここに祀り、その後、摂政藤原基経が牛頭天王のために精舎を建て、祇園社と呼んだ事に始まる。明治元年の神仏分離令により「八坂神社」と改名した。八坂神社の祭神はスサノヲノミコト(素戔嗚尊)・クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)・ヤハシラノミコガミ(八柱御子神)である。

その昔、京の都で疫病が流行り人々に大災害をもたらした。疫病はなかなか鎮静化されず、その原因が怨霊にあると考えられ、祇園社に祀られている武勇神「素戔嗚尊」に祈ったところ、たちまちにして疫病が鎮静したと伝えられる。素戔嗚尊が疫病除けの神とされるのはこの所以による。この時行なった怨霊退散の祭りを「祇園御霊会」といい、後の祇園祭のはじめとされている。
 
祇園の神である素戔嗚尊は、インドの祇園精舎の守護神であるゴヅテンノウ(牛頭天王)と同一とされている。また、祇園社の地は古くは八坂郷と呼ばれる朝鮮からの帰化人の郷であった。韓国には牛頭、或いは牛頭山という山や島があるが、故郷を偲んで名づけられた地名とも考えられる。また「日本書紀」には素戔嗚尊が朝鮮の曽戸茂梨(韓国語で牛頭)に渡ったことが記されており、これも関係があるのかもしれない。神仏習合により様々な国の神々が日本古来の神と習合したため、インド・韓国・日本と三国にまたがって生まれた不思議な神である。

素戔嗚尊は他にも「蘇民将来神」、別名「武塔天神」ともされている。小正月を中心に行われる 「蘇民祭」には「蘇民将来」と書かれた護符が配られる。これには木札・紙札の他に柳の木を六角柱型に削ったものなどがあり、木製の六角柱型護符は病気退散の縁起玩具として知られている。護符は門口に貼ったり、お守りとして肌につけて厄除けとする。田舎では田畑に立てて害虫から守ってもらう「虫封じ」とする風習もあると聞く。また、戦国時代の城跡からこの護符が見つかる事も多い。奈良時代以降、疫病から逃れるための信仰として今日まで続けられている。
 
◆天神
大宰府天満宮 天神は元々「雷火の神」であった。平安時代に菅原道真公の霊を祀ったことから「天満天神」に統一され、各地に天神様が祀られるようになった。道真の家系は代々学者だったようで、道真も幼少の頃から文才に優れ、18才で「進士」に合格、23才で大学寮の試験「秀才」に合格し文章博士になった。その後順調に出世し、醍醐天皇の時55才で右大臣にまで上り詰めるも、藤原時平の讒言によって失脚し大宰府に左遷された。その時詠んだ歌「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」は教科書にも取り上げられたのでご存知の方も多いと思う。道真は大宰府に赴任して二年後の延喜三年、怨みを残しながらこの世を去った。さらにその二年後、門弟によって墓所に建てられたのが 「大宰府天満宮」である。
 
北野天満宮 道真の死後、都では天変地異が続けて起こった。雷が宮廷に落ち死者が出たことから、道真の怨霊は雷神と結び付けられた。京都北野には古来より火雷天神という地主神が祀られていたため、道真の怨霊と合体し激しさを増したものとされ、それを鎮める為に 「北野天満宮」が創祀された。987年には勅祭が行われ、正式に「北野天満宮大神」と称号されるようになった。古来の民間信仰の中で農耕の神として「天神社」が各地にあったが、道真の怨霊が火雷天神と合体したことにより、各地の天神社も天神様とされるようになった。

怖いイメージのある天神様だが、次第に怨霊が鎮まった事で本来の道真に対する評価へと変わっていった。鎌倉初期には既に慈悲の神、正直の神として信仰され、江戸時代になると寺子屋の隆盛と共に学問の神として信仰されるようになった。また、小野道風、空海と並び、書道三聖としてもあがめられるようになった。天神社は全国に約10,300社あり、その殆どが北野天満宮と太宰府天満宮の二社から勧請されたものである。

天神信仰の一つとして、岡山県美作地方では旧暦の3月3日の節句に泥天神を贈って、男の子の初天神を祝う風習がある。
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