墓相學の変遷
我が国に墓相が入ってきた年代は、残念ながらはっきりしない。日本書紀には513年に五経博士が渡来したとの記述がある。五経(「春秋」「書経」「詩経」「易経」「礼記」)の「書経」の中に風水が登場することから、恐らくこの頃に入ってきたものと考えられる。五経博士は入れ替わり立ち代り日本にやって来た。仏教が伝来すると陰陽道関係の書物も伝来し、7世紀頃には「陰陽寮」という組織が作られ「方術師」が大いに活躍した。天皇が変る度に都が移された時代にあっては、都のあるべき場所を決定することは並大抵のことではなかった。「方術師」「地相師」と呼ばれる人々は、都の選定・墓所の選定などにその技術を活かしたという。また、五経博士により中国式の礼法が伝わってくると、 殯宮(モガリのみや)儀礼という喪葬儀礼が整えられた。既にこの頃「墓相」なるものが存在し、敵対関係にある者からの攻撃を防ぐ為、墓所には「墓守」が置かれていた。墓の事に精通していた「墓守」は代々世襲のものとされ、その一族の集落は人里離れた場所に限定されていた。これは「墓」の秘密が外部に漏れる事を恐れての事であり、その身分は低く設定されていたが、衣・食・住は保証されていた。 
 
さて、仏教を篤く保護し政治にもその精神を取り入れたと言われる「聖徳太子」は、墓相にも深い造詣を持っていたとされる。そのことは「聖徳太子伝暦」、「徒然草」から覗い知ることが出来る。聖徳太子は自らの子孫を絶やそうとして、墓に様々な細工を施した。「聖徳太子のお墓をかねて築かせまいける時に、ここを切れ、かしこを断て、子孫あらせじと思ふ」という記述は、聖徳太子がいかに墓相に精通していたかをよく物語っている。当時の一部特権階級の人々の中で、既に「墓」に存在する不思議な霊力が認識され、しかも公にされていなかった事が覗えよう。現代のような比較的平和な時代とは違い、毎日が戦いの中にあるようなご時世では、「墓」のもつ強大な力を広く伝えることは避けたかったのである。何故なら、権力者が利用すればこれほど強力なものはないが、敵対するものが利用すると、これほど厄介なものはないからである。(いかに優れた霊能者といえども、墓の「力」に勝るものはない。墓を制するのは墓相より他に見当たらない) 
 
ちなみに聖徳太子には10人の妃と17人の子供がいた。日夜血なまぐさい闘争を繰り返している現実を見て、将来子供たちが天皇の位を得ようと党を作り、争乱を起こすような事があってはならないと、墓石の至る所にキズをつけたのである。やがて子供たちは皇位継承をめぐって古人大兄皇子と争うが、蘇我蝦夷と入鹿の陰謀により斑鳩宮で自害し、太子の思惑どうり、太子歿後22年で絶家となった。その後、物部氏に嫁いだ子孫の中から安間王(酒呑童子)が出るが、源頼光、渡辺綱らに滅ぼされてしまった。弓削氏に嫁いだ子孫からは、かの有名な弓削道鏡が出ている。 
 
聖徳太子は仏教のよき理解者であり、この思想を国民に広め、政治に役立てようとした。よく知られる十七条憲法には、「 二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは、仏と法と僧なり。すなわち四生の終帰(よりどころ)、万国の極宗(おおむね)なり。いずれの世、いずれの人か、この法を貴ばざらん。人、はなはだ悪しきもの少なし。よく教うるをもて従う。そ三宝に帰(よ)りまつらずば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)す。」とある。太子はこの中で、仏・法・僧を篤く敬うことを勧めると同時に、人は皆生まれながらに悪人はいない、と人間への信頼を語っている。 
 
聖徳太子は本来天皇の座を継ぐ立場であった。しかし幾多の争い事を見てきた事と、仏教に接することによって法の精神を広める事に専念した。何故ならば、当時の人々には仏典の著す意味を理解することができなかったのである。そのため太子は『三経義書』を顕すことに半生を注いだ。『三経義書』とは、「法華経」「勝まん経」「ゆい魔経」の三経に対する註釈書のことである。「妙法蓮華経常如来神力品第二十一」には、『是故汝等於如来滅後。応一心受持讀誦解説書寫如説修行。所在国土。若有受持讀誦解説書寫如説修行。若経巻所住之処。若於園中。若於林中。若於樹下。若於僧坊。若白衣舍。若在殿堂。若山谷曠野。是中皆応起塔供養』とある。つまり、塔=仏塔=墓を建てて供養するべしと説かれている。(塔がなぜ墓と繋がるのかは「お墓の歴史」の中で述べた。)太子は仏教を保護すると共に、法隆寺などの仏塔を建てることを奨励し、太子歿後も藤原氏を中心に次々と建立されていった。 
 
藤原氏の時代になると国家に仕えていた方術師は公家の中にまで入り込み、方位や星巡りによる吉凶を吹き込んでいった。また安易な方術師の数も増え、陰陽思想が広く普及したが、その反面迷信なども作られるようになり、方位による吉凶などは迷信だという風潮が出来上がってしまった。 
 
鎌倉時代以降には武士を中心に墓が建立されるようになった。平地に埋葬されたものの中には 「五輪塔」を建て、その周囲に境界を巡らしたものが出現した。墓域を示す境界はその後武士の墓に共通に見られるようになった。墓所に境界を設ける事は、自国の領土を主張しながら隣国との紛争を避け、領民・一族の安定と繁栄を願う形になる。戦の続く戦乱の世にあって、武士達が安定した平和な世の中を願っていた事が墓作りから覗える。これ等は墓相学の基本となっているので、多少なりとも墓相学が浸透し始めた気配が覗える。 
 
武士達の間に墓相学が知られていった事例として、徳川家康が挙げられる。三河の一大名であった家康は、関東を支配し関が原の戦いで勝利すると実質的に天下を統一した。家康は天下統一の後宗教政策に力を入れ、天台宗・浄土宗・禅宗などを学んだ。神道についても造詣が深く、吉田神道から神道伝授を受けるほどになったが、あえて伝授を受けなかったと言われている。そのため死後は神として祀られることを望み、神葬にして久能山に葬るよう遺言した。家康は亡くなる直前の元和2年4月2日、臨済宗僧侶金地院以心崇伝、天台宗僧侶南光坊天海、本多上野介正純の三人を呼び出し、「我が死後はまず久能山に納めて神として祀ること。葬式は増上寺で行うこと。岡崎の大樹寺に位牌を立てること。一周忌後、日光山に小さな堂を建てること。そうすれば関東八州の鎮守になろう」と遺言した。 
 
元和二年(1616)4月17日、家康は75才でこの世を去ると、遺言によって吉田神道の祭式による神葬祭が執り行われ、家康の遺骸は久能山に葬られた。そして翌年4月、山王一実神道の祭式により日光山に改葬され、天皇から神号として「東照大権現」を賜った。その後、日光の社殿は三代将軍家光によって13年の歳月をかけて大造営が加えられ、豪華絢爛な日光の基礎が築かれたのである。 
 
このように、家康は自分の死後僅か1年で改葬するよう遺言を残した。この事は、家康が「詣で墓」「祀り墓」両墓制を望んでいた事を示している。墓相学の発祥地中国では、遺骸を葬る「墓」と先祖の祀事をする「廟」とは別々に設けられていた。長崎にある「孔子廟」もその一例であり、明治天皇のご遺体が「桃山御陵」に葬られ、その霊は「明治神宮」に祀られているのと同様のことである。また、墓相・風水は道家思想と共に五経博士らによって伝わったと考えられるが、その後は禅宗の僧侶らによって葬儀の方法、供養の方法なども伝わっている。家康が自分の死後の供養の方法を詳しく子孫に残し、改葬の方法・時期まで打ち合わせていた事は、墓相というものに相当な関心と知識を持っていたと考えられる。果たして誰からその知識を得ることが出来たのか、興味と関心の湧くところであるが、考えられるのは家康の顧問役であった天海上人あたりではないかと推察する。天海上人は天台宗の僧侶だが、もともと天台宗は禅宗を一つの柱としているので充分考えられる事ではある。天海上人については資料が少なく、今後の研究課題としたい。 
 
家康の墓相学の知識は次の事例からも覗う事ができる。秀吉の死後、家康は淀君に「秀吉の追善供養のため、豊臣家の家運隆盛を祈るため」等とそそのかし、巨大な五輪塔を建てさせた。棹石の長さ3.6メートル、台石の高さ3メートルという巨大なものである。また、境石・玉垣とも二段作りという実に堂々とした墓である。ところが広々としているとはいえ、墓所は山の頂にあり、下から昇る石段の数はゆうに七百を越える。入り口・墓石は共に西向き、墓所は板石で敷き詰められ、正面入り口には鉄の扉が設けられている。しかも肝心の五輪塔には戒名は無論、俗名さえ無い。

墓相でこの墓を鑑定すると、次のようになる。見上げるような巨大な墓はその時が最高であった事を意味し、やがては衰退していく運命にある。巨石は途方もない財産を築いたことを示すが、その代限りの英雄であったことを表している。また、その人の独りよがりな性格を表し、そこには子孫のことを思いやる気持ちは無く、世間に背を向けた形である。子孫との繋がりが薄くなれば相続問題が発生し、金銭のトラブル、養子問題の行く末は絶家という運命が待ち受けている。墓石が大きければ大きいほど借りも多く、したがって金銭などのトラブルを招く原因となる。二段造りの境石や鉄の扉は秘密事が多く、女性問題を示唆すると共に、用心深い性格をも表している。墓所の板石は頼りにする子供の早死、精神の異常、養子相続を暗示している。(詳しくは『墓地・墓石の見方』を参考にされたい。)
 
秀吉は一農民から天下人にまで上り詰めた稀代の英雄であった。しかし子供に恵まれず、淀殿との間に初めての子「鶴丸」が生まれたのは秀吉53歳の時であった。ところが幼名「棄丸」の名が悪かったのか、僅か4歳で亡くなってしまった。跡取りのいなくなった秀吉は、姉「とも」の長子「秀次」を養子として関白にした。その二年後、淀殿との間に「秀頼」が生まれると、二年後の七月、秀次に謀反の嫌疑をかけ高野山に追放、そこで秀次は自害して果てている。一方秀頼は1615年大阪夏の陣で自刃、弱冠23歳であった。その子「国松」は大阪城から逃げるも捕らえられ、同年市中車引き回しの末、六条河原で乳母と共に斬首され、ここに豊臣家は断絶したのである。この時国松9歳であった。
 
まるで絶家となるよう願って造られたとしか思えない墓である。戒名のない墓は子孫は不要だと言ってるのに等しく、西向きの墓はカカア天下、女性の長命、男子早死を教えてくれる。また、施工に要した費用は莫大なものであったろう。大阪城の金銀財宝が減っていくのは当然である。家康は豊臣家の弱体と、子孫の断絶を狙っていたに違いない。まさに狸おやじの真骨頂と言えるのではないか。
 
陰宅風水は古くは「堪輿の術」として日本に入ってきた。「堪輿の術」は葬る場所の吉凶、居を構える場所の吉凶、都市作りの吉凶などに活かされてきた。江戸時代になると高田松屋という人物が「堪輿の術」の存在、吉凶の判断を講じた。高田師は文政年間(1818〜1830)の人とされているが、書店主であったことから内外の文献に接する機会も多く、そこから易学・地理堪輿の学を学んだものと思われる。吉凶についての具体的な方法は"秘伝口伝"とされたため、師の弟子にしか詳しくは伝わっていない。中国では地理堪輿の学は一つの学問として受け継がれてきたが、日本においては吉凶のみが重視され、しかも秘伝口伝として受け継がれて来た事に墓相学の悲運があると言えよう。 
 
高田師の後継は西岡師、大浦師と続き、近代墓相学の基礎を築いたとされる中山(多田)通幽師へと受け継がれていった。中山通幽は文久二年(1862)備中松山藩の御抱鍛治薬師寺朝治の長男として、賀陽郡近似村(岡山県高梁市)に生まれた。名を盛太という。12歳の時、吉備津の多田家養子となった。多田家は代々吉備津宮の御釜殿に奉仕する家柄である。聡明な通幽は16歳で小学校教員となり、阿新地方の学校を歴任していた。このころ修験道に強い関心を持ち、総社市豪渓の天柱山で百日山籠の行を行っている。24歳の時、大和の大峯山に入り本格的な山伏修行を行うため教員職を捨て大阪に移った。明治22年、廃止されていた修験道の復活を図ろうと、内務大臣松方正義に建白書を提出するが採り合ってもらえず、自分の非力を思い知らされた通幽は、発願して陰徳積善による功徳を心掛けるようになった。明治28年、大坂市内に「無縁法界講」を結成し、墓相を説き始めた。通幽33歳の若さであった。明治33年1月15日、大阪四天王寺勝鬘院で大規模な無縁仏の供養を行った。陰徳積善に生涯を懸けようと誓った、通幽人生再出発の記念でもあった。この頃から霊場旧跡を修復し、無縁仏を祀ることを自己の修行として行うようになった。通幽の周りに共感者が集まり、聖徳太子の四福田にちなんで「福田海」と名づけた。この後全国を行脚しながら無縁慰霊塔を建立していった。無縁とは親戚・血縁などのゆかりのないことを言い、祭祀すべき人がいない霊を「無縁仏」、墓を「無縁墓」という。通幽は「無縁は貧の極みである。貧とは捨てられたもの、顧みられないもの、この世の有形、無形の満足していないものの義であり、諸々の貧を消滅すればこの世は正しい姿となる、貧のない姿が本来の福の姿である。」と言い、「墓があって家があり人がある。即ち墓は根である」と説いている。明治41年、多田盛太を中山通幽と改名し、大阪で「福田海」の開宗を宣言した。京都・宇治の大塔の再建はこれを記念して行ったものである。通幽の偉業は京都・化野念仏寺の無縁塔、北海道・函館大火の慰霊塔など数多くの業績があり、全国津々浦々にその足跡を見る事ができる。通幽は昭和2年故郷吉備津に帰り、昭和11年5月17日、74年の生涯を閉じた。 
 
中山通幽師には大勢の弟子がいたが、その中に松崎整道師がいる。松崎師は子孫のために陰徳を積む会「功徳海地蔵講」を指導し、その功徳積みを「浄行」と呼んだ。昭和5年には「お墓と家運」を発行し、昭和12年には雑誌「主婦の友」に墓相を寄稿した。整道師は「人生、家あるも墓なき時はその家滅び、墓あるもその建て方よろしき得るに非ざればその家もまた衰える。墓はすなわち根であり墓であると同時に相続のものである」と説いている。通幽師の時、墓地の中央に供養塔を建立するようになった。整道師はより吉相の墓へと改良していった。松崎整道師にも大勢の弟子がいたが、それぞれ独立し、その後継者の方々も現在墓相学の普及と指導に努められている。 
 
墓相学は統計と資料、建立後の新しいデータが加わることによって次々と改良されてきた。それは一朝一夕で出来る事ではなく、歴代の墓相家と呼ばれる先生方の苦労と信念の積み重ねによるものである。しかし、墓を造る時の「亡き人を思いやる心、先祖を思う心、子孫の幸せを思う心」は不変である。墓相学の原点は、正しい先祖供養、正しい先祖祭祀を行う事によって、人々を幸福に導くことにある。そして、指導者は常に命までをも懸ける自覚と覚悟を持っているのである。決して金儲けで出来る事ではない。
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