『香詩宮の杜』
「紅い傘の救世主」
一
想い出せそうで想い出せない、何か生まれる前の記憶のようなものを抱えて、空を見ていた。
―
何しに来たのかなぁ?ここに・・
太陽が小さく笑った後、薄日は儚く消えた。
―
命に優劣なんて、ただ働きの違いがこんなにも愛しいのに。どうしてなの?
雨の匂いが紫陽花にふれると辺りはいっそう暗く重くなった。
リナは深く息を吸い込み、自身の内にどんな働きが潜んでいるのか気づきたくて、ゆっくりと目を閉じてみる。感じてる胸の奥深くの暗がりに、ぼーっと佇んでいた色白のせつなさに抱きしめられた瞬間、ポツリと大粒の雨が葉脈をたたいた。その音は次第に数を増してゆき本降りとなった。
―
受け止めてくれる?命の働きに気づいて、それをあなたにプレゼントしたいの。
リナは香詩宮の杜を好んでいた。一人ここで過ごすのが好きだった。
流れ始めた裏庭の隅っこでただじっと自身を見つめながら、ずぶ濡れの心地よさに浸っていた。
―
何時かこのせつなさの底にあなたのまなざしが届くのかしら?リナの声もあなたのそんなところに届いたらいいのに。
雨で髪が梳かされていく。衣類と肌の間を流れて逆流した雨水が靴から溢れる。体温は地の方へと奪われていった。
―
小さくちいさく、小さくなって蝸牛。
背中を丸めてしゃがみこんだリナは耳を澄まして内なる声を遮断した。
どの位たったのだろう。雨音は静かになり景色を蘇らせている。
―
一体何しに来たのかなぁ?ここに。本当に何しに?・・
冷えきった身体に貼り付いた衣類がリナの身体を縛っていた。
―
‥‥? 亀石の前に誰かいる。うずくまってびしょ濡れだけど大丈夫かしら。あれ〜、リナちゃん?‥かな?
マホはお気に入りの紅い傘を差して、誰かに呼び出されたかのようにさまよっていた。声の主を捜しているようなその歩みは、不思議なくらいあどけなく見えた。
マホが幼い頃から続けてきた雨の日の過ごし方である。惹かれる場所には気が済むまで佇み、出会ったものたちに名前を付けては、心ゆくまで親しむのがマホ流なのだが、そんなマホだけが感じてる由緒が亀石にもあった。
―
やっぱりリナちゃんだ。どうしたのかな?傘も差さずに。
「リナちゃん、傘忘れたの」
恋をしたい年頃のありがちな気分を台無しにするかと思われたその声は、不思議なことにリナの心をときめかせてしまった。
紅い傘の下で人差し指を回転させている仕草、円らな瞳が可愛かったのだ。
今にも泣きだしそうな最低の顔を最高の笑顔で包まれた気がして、恥ずかしくなったリナは戸惑いがちに本音を言った。
「ん〜うん、雨に濡れたかったの」
首を横にふる仕草のなかにも思い悩んでいるような気持ちが見てとれた。
西の空がうっすらと白んで軽くなった雲の上にお日様が腰掛けている。小鳥たちのさえずりも戻ってきた。じきに雨は止むだろう。
「リナちゃんのそういうところ、嫌いじゃないよ」
愛らしく笑うマホの仕草はリナのどの辺りに届いたのだろう。
―
不思議だな。さっきまで誰とも会いたくなかったのに。涙を流した後のような気持ち。
マホの仕草がリナの好みの壺いっぱいに広がり満たしていた。もし他の人だったら鬱とうしくて逃げ出していたに違いない。
―
男の人が持つような大きな傘なのにマホちゃんのは紅いんだね。身体の割には大きすぎてバランスが悪いくらい。でもマホちゃんが差すと、とっても可愛く見える。いいなぁ〜。
「マホちゃん、その傘、何処で買ったの」
立ち上がるとリナの細い顎から雫がポタポタと落ちた。
「欲しいの?家すぐそこだから貸してあげてもいいけど、ここまで濡れちゃったら意味ないね。今度買いに行く? あっそうだ、家によってかない?
風ひくといけないし。うんん、無理矢理でも連れこんじゃうんだ。着替えならわたしのがあるもん」
そう言って素速くリナの手を握ったマホは、魚を釣り上げた時のように得意げに笑ったまでは良かったのだけれど。
―
なんて冷たいの。完全に冷えきっちゃってるじゃないの。真夏なのに。
たくさん人がいるなかで、実際に親しく関われるのはそう多くない。マホは以前から惹かれていたお気に入りと過ごせる初めての機会を逃したくなかったのだ。
「いいの?」
―
すごく嬉しいけれど、迷惑ではないかしら?
尻込みして眉をひそめたリナの前で花をつけ始めた一本の百日紅が幹に滝を作っていた。低い土地を川にして勢いよく傍らの池に呑み込まれていく。
「百日紅の白い蛇」
「え?」
「わたしね、これを見に来たの」
二人は小学校からのクラスメイトであったのにもかかわらず、対話したのはこの時が初めてだった。挨拶ぐらいはするもののリナもマホもクラスメイトと話したことなど殆どなかった。クラスにうち解けないもの同士、何となく気になっていたのに、二人とも一人で居ることが好きだったから別に話しかけることもなかったのだ。
「深紅の花びらをわって流れ落ちるひとすじの白い蛇。う〜ん、満開にはちょっと早いけど。この時期の強い雨の時だけしか現れない滝だから。それに強い雨でも雷の時は怖いしね」
「マホちゃんって詩を書くの?」
―
神域だからなのかなぁ。確かにここの樹木や石にはちょっと風変わりなものが多いと思ってたけど、マホちゃんに言われるまで百日紅にこんな秘密があるなんて気づかなかった。それにしてもほんとに白い蛇に見える。不思議。
「リナちゃんとこのその石ね、亀の頭みたいでしょ。ほら、地盛りしてあるところがちょうど甲羅で」
「うん、ほんとだね。とっても大きな亀さんだこと」
「百日紅の白い蛇を最初に目撃するのはこの亀さんなの。だって、ず〜と見とれてるんだもん。この視線に耐えかねて逃げ出す機会を窺っていた蛇はね、雨に乗って池に身を潜めるの。相当惚れてるのよね、亀さん。でもね、悲しいことに気づいてないのよ。白い蛇が百日紅の化身だってことに」
そう言い放ってウインクして笑うマホはここで感じ取ったことを膨らませては、それを逸話にしていた。
時おり傘を回転させる語り部の仕草にリナの目はハートに輝いている。
マホもまた急接近の予感に弾んだ気持ちが肌をほてらせ頬が紅く潤んでいた。
―
リナちゃんだったらこういう話しても大丈夫みたい。聞いてくれそうな気がする。
『ずーっと友達になりたかったの』
二人は同時に言った。そして顔を見合わせ笑った。
遠くで遮断機の鳴る音がする。暗い雲を半分残して日射しが蝉時雨を連れて戻ってきた。雨の線が空の青さに輝いて見える。天気雨は煌めきを増して立ち去ろうとしていた。
紅い傘の中の二人は繋いだ手を振りながら歩幅も仲良く歩き始めた。
マホの家は香詩宮神社の境内にあった。香詩宮宮司のひとり娘である。
「ちょっと待ってて」
傘をたたんだマホの姿が濡れた石畳に反射して消えると、後には青空が映って雲が流れていく。風が蝉時雨の杜を爽やかに通り抜けた。
「マホちゃんちここだったんだ」
―
何度も来てるのに何で会わなかったのかなぁ?そう言えばマホちゃんの名字、香詩宮だもんね。
リナの最も好きな場所からさほど遠くない石段を下って降りたところの奥まった一角だった。
軒の張り出しがかなり深い。
「リナちゃん、中に入って。タオル取ってくるね」
風呂のスイッチを入れ、何枚かタオルを抱えて戻って来ると、リナから滴り落ちる雨水で玄関にはもう小さな水たまりができていた。
「お風呂すぐに沸くからね。脱いだもの、お洗濯しちゃおう。一時間ぐらいで乾くからね、帰りにはまた着て帰れるよ。それまでこれに着替えて」
そう言ってはにかむように手渡された木綿には薄い花柄の刺繍があった。
―
アッ、ピンク色だね。マホちゃんのパジャマ、これを着てどんな夢を見てるのかな。初めてなのに至れり尽くせり。
「ありがとう。マホちゃん」
「お風呂から上がったら、これを聴こう」
セリパト・メサイの新曲「太陽の涙」の端っこを両手でつまんで垂直につきだしている。
ちょっと首を傾げその間からリナをのぞき込むようにマホは笑った。
―
こんなに人なつこいのに何故なの?
リナには学校とは全く別人のマホがそこにいるように思えた。
二人がクラスにうち解けないのは虐められているからというわけではなかった。内気すぎてうち解けるきっかけをどうしたらよいのか分からなかったのである。
「お風呂使い方分かるよね。温度設定はこれね」
「うん」
目を閉じてシャワーを背中に浴びると体温が戻ってくる気がした。湯気に映った胸のふくらみが桜色に色づく。リナは言いようのない安堵感に包まれていった。
白い小部屋の底から天に向かって細長く伸びている鏡。その傍らにある色とりどりのシャンプーは飛べない鶏のように太っている。
―
ウフフ、不思議な鳥たち。マホちゃんの趣味なのかな〜。それともおかあさんのかな〜。頭なでなで、プシュッ、嘴から泡ヮ、ウフフ。いい香り。
手のひらいっぱいの泡を乳首の上に載せお臍の方へと伸ばしていく。体中泡だらけになると鏡に映った姿に魔法を掛けるような仕草をした。
―
どうすれば自身の働きに気づけるのかしら?
しばらく鏡を見つめていたリナは両手で髪をかき上げ顔を洗った。
―
こんな日になるなんて不思議。
自意識はどんな些細な理不尽も見逃さない。そのくせ、好みでない配慮には鬱とうしさを感じてしまう。
―
もし声を掛けたのがマホちゃんじゃなかったら。知らない男の人だったら・・
竦んでしまったかもしれない手足を湯船の中いっぱいにゆったりと伸ばして、リナはマホの回転させていた指先を思い出していた。
― 大きな紅い傘を担いでトンボを捕まえるような仕草のマホちゃん。リナはトンボじゃないよ。ウフフ。
《「対局 言葉の予感」先手 タカユキオバナ 後手 春山
清》展は足利市立美術館(二〇一四年二月一日から二月二十三日)で開催されました。
春山
清さんとタカユキオバナが対局し、それがそのまま公開されたのです。
「香詩宮の杜 紅い傘の救世主 一」はその時のチラシに、春山さんの書「生命は神秘、生体は罪業」と共に掲載されています。この展覧会の論考は足利市立美術館、学芸員の江尻潔さんによって二〇一四年の現代詩手帖7月号に「ひかり、ひびき、ことば タカユキオバナの表現について」の中で取り上げられています。
二〇一三年当時、春山さんはうつ病に苦しんでいました。「目の前の湯呑を右から左に動かすのも嫌なんだ」あんなにも整頓されていた彼の部屋は、本や衣類が散乱し足の踏み場もなくなってしまいました。何もしてあげられない無力感にさいなまれながらも、その生涯をかけて表現を模索してきた先輩の役に何とかして立ちたかったのです。何度も訪ね「対局」に誘いました。
「この物語を一母音にするとしたらどんな色の母音になると思います?」そういって「香詩宮の杜 紅い傘の救世主 一」の原稿を春山さんに読んでいただきました。丁寧に目を通した後、おもむろに春山さんは言いました。「黄色のあ音だね」そこで私は、春山さんの箴言の中から「生命は神秘、生体は罪業」について「緑色のい音に変換します」と返礼しました。こんな風に「対局」は始まるのです。
彩色は光を、母音は響きを表しています。同じ母音のある側面は光であり、また別の側面は響きであるといった光と響きを併せ持つ象徴的な形に変換したということです。こうすることで音の再変換と言葉としての再統一の可能性を模索するのです。
それまで意味やイメージを発生させていた文章を、強引に彩色した一母音に変換するためには、直感を働かせる意外に手立てがありません。答えを導きだしたからといって、それが正しいとも間違っているともいえないのです。「何故その色の母音にしたのですか?」と尋ねられても「ただ何となく」としか答えようがありません。ですが、私たちには自然に圧倒されるたびに喚声を発してきた音の記憶がその感動と共に心の中に潜在化されています。春山さんもこの潜在化された働きを使ったのだと思います。直感を働かせることで感動の一音を呼び出すことが誰にでもできるのです。
春山さんに四つの箴言を書にするように頼みました。彼が用意したのは「究極根源を見詰める」「生命は神秘 生態は罪業」「死は至福」「座して死を待つ」でした。これを展示し、友人たちに彩色した一母音に変換してもらうのです。栃木美保さん、菅沼きく枝さん、山田稔さん、佐竹阿爾さん、加藤直子さん、安藤順健さん、川島健二さん、長
重之さんの八人にお願いしました。
オセロゲームの石は白と黒の面で出来ています。先手のタカユキオバナは黒が表面、白が裏面となります。後手の春山さんは反対に白が表面、黒が裏面です。
春山さんの箴言「究極根源を見詰める」を栃木美保さんが水色のUに変換しました。そこで、う段のいずれか一音をタカユキオバナは黒面に、春山さんは白面に記しました。石の裏面には、任意の音を記します。ゲームが始められるように石を配置しました。次に「座して死を待つ」を菅沼きく枝さんがピンク色のOに変換しました。そこで、お段のいずれか一音をタカユキオバナは黒面に、春山さんは白面に記しました。石の裏面には、任意の音を記します。ゲームが始められるように石を配置し、「対局」が開始されたのです。
一手打つたびに相手の音が自分の音に組み込まれ、聞きなれない言葉に変わります。反転された世界にも同じことが同時に起こっています。手が進むに連れ、石の表と裏が何度も入れ替わります。表の界の音になったかと思うと、次の一手で裏の界に組み込まれたりするのです。縦、横、斜め、どこからでも読むことができる詩のような世界が生まれては、すぐさま別の読みに様変わりしました。音が輪廻するたびに世界もまた生まれ変わるのです。同じ音がそのたびに微妙に働きを変えました。音の多義性は世界を内包してきた証です。表に現れた世界の裏側にもう一つの世界が横たわっているという実感を一つひとつの音が体験していきました。この音たちは世界を創るときに個の働きが欠くことができない如何に尊いものなのかを示唆しているのではないでしょうか。
「対局」は勝負事なのに勝ち負けがありません。顕れた世界とその背後に潜むもう一つの世界を行きつ戻りつしながら、相手の言葉が自身の言葉に組変わり、イメージと意味が刻々と変化してゆきます。
たった一音によって変換と再統一が繰り返し躍動するこの様子は、言葉や世界の成り立ちにおいて、個がいかに重要な働きを持っているのかを気づかせ、命に優劣をつけてしまうような格差社会ではない別の在り方を指し示しているのではないでしょうか。音と音の絆が言葉を生む様子は、私たち一人ひとりが尊く扱われるように、みんなで築く社会の在り方に、より一層の工夫を投げかけてくるのです。
各界を代表する人たち、例えば、ノーベル賞を取るような、金メダルを取るような、そういう人たちに匹敵する別の働きが誰の中にも備わっているのに、気づけないのは、ひとえに感受性の貧しさにあるのです。物差しが大雑把すぎて目立った働きしか捉えられないからです。
私が生まれた頃、水俣ではお身体の不自由な人たちが生まれていました。ご自身では食べることも衣類を着ることもできません。何の働きもないと思われるかも知れませんが、私はそうは思いません。六十数年を過ぎた今、チッソは有害な物質を排出することを極力抑えるようになり、多くの企業が環境に配慮するようになっています。また彼らを介護する福祉施設も当時とは比べようもないくらい充実してきています。これはあるがままの命そのものの働きを隣接した人たちが受けとめた証でしょう。この世に生まれたものは、それがどのようなものであっても、必ず何らかの働きを持って存在しているのではないでしょうか。
音が言葉に変わろうとするとき、私たちに投げかけてくる世界観を「対局 言葉の予感」で感じていただけたでしょうか。
「対局」をご希望する方のために出帳致します。そこで生まれた作品はご希望者に謹呈するものとします。
「対局 言葉の予感」では春山さんの四つの箴言を八人の友人たちに彩色した一母音に変換してもらいましたが、その代わりに二つのサイコロを使うことにします。一つは、サイコロの目が「あいうえおん」のもの。もう一つは「赤青黄緑白黒」のもの。これを振ることによって、母音と色の組み合わせから音をイメージし、変換するものとします。「ん」はそのまま使います。
ワークショップの費用(材料費込み) 50,000円
交通費 円
宿泊費 円
オプション
記録費 DVD 円
交通費 円
宿泊費 円
合計 円