bopo 

命に優劣があるとは思えない。かけがえのない働きの違いが尊いのではないのか。

誰もがあるがままの自身の働きに気づき、その持てる力をこの世界に、素直にそう素直に表して生きられたらいいのに・・

本格的に絵を描き始めたのは、まさにそういう理由からだった。何でもよかった。自身の内に潜む働きに気づきたくて、その手がかりが欲しかったのだ。

何が好きで何が嫌いなのか?漠然としていた。絵の良し悪しを決める物差しが無かった。

とりあえず、B1728㎜×1030㎜)の大きさの紙を床に敷いて、でたらめにやってみることにした。 

そして分かったことは、情けないくらい、でたらめのバリエーションが少なかったのだ。形を描く、色を塗る、線を引く、垂らす、弾く、引っ掻く、剥がす、投げる、撒き散らす、叩く、突き刺す、穴をあける、なびる、破る、引き裂く、貼り付ける、燃やす、圧する、なぞる、折る、潰す、曲げる、砕く、かきむしる、押し付ける、丸める、皺くちゃにする、吊るす、縫う、結ぶ、でたらめは、あっという間に尽きてしまった。それでも繰り返し、繰り返し、四、五年は、やったのではないのか。それ以外どうしていいのか分からなかったし、根拠があったわけではないけれど、何か見つけられそうな気がしていた。だからなのか。虚しくはなく、それどころか、充実感さえあったのだ。

実際、行為の痕跡に触発され、次の行為が生まれるさまを目の当たりにするのは、感動に満ちて心地よかった。心を思いっきり握りしめて投げつけると、紙がそれを捉え、投げ返してくるのだ。このキャッチボールに夢中になれた。

何気なく紙全体を見ていると、どこに降りて行けば良いのか分かる瞬間がある。めがけたとこへと指を走らせれば、紙に触れた音が痕跡になった。この一撃から部分と全体とが対話を始める。調和を求めてせめぎ合う脳内が熱くなり、光の明滅を指先に伝えた。無意識の眼差しが見つめている世界を繰り広げ、血が背負っている記憶を明らかにしていった。痕跡は生命史にとどまらず、世界の始まりへといざなうのだった。

痕跡と痕跡の間は瞬間であっても、出現することの意味を考えれば、小宇宙が生まれてくるような光年単位の時空なのではないのか。

そして思ったのだ。永遠に続けたらどうなるのだろう。それは単色でやれば分かり易い。ぼろぼろになった別の色の紙ができあがるのだ。黒なら漆黒のよれよれの紙になるのである。

何らかのイメージを発していた痕跡たちが、徐々に矛を収め、紙そのものに同化していくのを見て、初めてこの世界には本気で心を受けとめるものがいることに気づいた。それが人でなくても構わなかった。ふと思った。新陳代謝は物質が心を通わすための仕組みなのではないのか。

紙とひとつになれたことが不思議に思え、分化したよれよれのぼろぼろの私がそこにいるという確かな気持ちに囚われた。意識が無意識に及んだ時の感受性がどういうものかを知った。

痕跡がたび重なり、痕跡と痕跡の間の時空が瞑れ、意識できなくなるのは、比較できる他者がいなくなったということなのだろう。これは痕跡がなかった白紙の状態と何ら変わらない。紙は別の支持体へと物質化したのだ。ひょっとして、私たちに前世の記憶がないのも、これと同じ理由なのではないのか。

他者に触れた感触、前世の記憶は失われた余白が握っていた。余白こそが、痕跡が放っている何かを意識させていたことに気づいた。それは支持体に心を通わすための他者を見ていたということなのだろう。

心を通わすのは人に限らなくてよい。いやむしろその方が体内でさまざまな物質たちを操る何かの働きに近いのではないのか。幼い自意識を飛躍させる物差しになるのではないのか。

 

 

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タカユキオバナ でたらめ B1728㎜×1030

 

 

 

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