ひかり、ひびき、ことば タカユキオバナの表現について

江尻潔

 ことばの本源的なはたらきはどこにあるのか。筆者はことばのもつ情報伝達のはたらき以前に「名づけ」のはたらきが先行していると思っている。それは自己と他者を分かつことばの作用だ。名により距離が生まれ、かのものは対象化される。それは心の内面にも同様にはたらく作用である。つまり、ことばにより漠然としたものが意識され対象化されるわけだ。ことばは事象を分析し、個別化する。たとえば「ハナ」の一語は「サクラ」や「ユリ」といった名により「ハナ」という総称から分かれ、限定されていく。

 では、その逆は考えられないだろうか。「ハナ」を例にすれば「花」であり「鼻」であり「端な」でもある。こうしてみると「ハナ」という音がものの突端を意味していることがわかる。「ハナ」という音により「花」や「鼻」が想起されそれらは「端な」によって統括される。

 翻って考えるならば、最も原初的なことばとは最小限の「分割」であり、最小限の「分割」に至れば原初的なことばに遡れることになる。原初的なことばによる分割の例としては「ヒ」がある。「ヒ」は日、火、氷、霊であり、「ヒ」という音によりこれらのことばが統括され、変換可能となる。「ヒ」は「威力あるもの」の「名」であり、日、火、氷、霊をひとつに括る。「ヒ」という一語により、変換可能な事象がいくつも呼び寄せられる。

 原初的な分割の行きつく先は自己と他者、さらには自己と本源の境が無くなる寸前であろう。それは境を越えて交わすことができる「ことば」の可能性を指し示す。つまり万象の「名」の発見である。その名により、人や星、木、山、川が呼ばれる。要するにそのことばによって人は、星であり、木であり、山であり、川となりうる。これはあめつちと交わすことばであり、あめつちとひとつになることばである。

 このようなことばを模索する表現者としてタカユキオバナ(一九五八-、佐野市出身)がいる。オバナはさまざまな手法により、あめつちのことばと言うべき音韻を私たちにもたらした。本稿において彼の表現をいくつか紹介する。

 二〇〇六年八月、オバナはGallery ART SPACEにおいて《わそよみひ》を開催した。この表現は当時オバナが主宰した館林のSPACEUから町田市のGallery ART SPACEまでおよそ百キロをオバナ自身が歩いた行為がもととなっている。オバナは清音四十五音と「ん」をひとつひとつ小さな立方体に記し、おのおのに紐で鈴をふたつ付け、任意の場所で引いた。いかなる音を引くかオバナ自身もわからないようになっている。七月二十三日二十二時二十二分、SPACEUを出発、その際引いた音はkUであった。同日、二十三時二十三分、近隣の尾曳稲荷神社でUを引く。このような要領で四十六ヶ所、気になった場所で音を引いていった。

 記録を見ると神社や寺が主となっているが、しだれ桜も選ばれている。これらの場所には人以外の何ものかが鎮まっている。それは自然の奥に潜むもの、あるいは自然そのものであり、これらことばもたぬものにオバナはことばを与えていく。否、ことばを選ばせている。それはかのものに対する名づけであり、かのもの自体の名のりである。オバナは引いた音を木の枝などに結わえて立ち去る。

 ここで重要なのは鈴とともに音が結ばれることである。鈴は風のそよぎで鳴る。それとともに人の発声可能な四十六音もそよぐ。鈴という光の音ともいうべき発声不可能な音をあめつちのことばとみたて、それが発声可能な四十六音(つまり声)に変換されていく。ここに人のことばとあめつちのことばがひとつとなり対話の兆しが見てとれる。鈴の音とともに四十六声が、風にそよぎ天に昇り地に降り、あるいは水にしるされる。ときたま、かのものの返しごとのような出来事が出来する。それは蝉の羽化であったり、虹の大円周であった。ここには明らかにかのものとの交歓があり、対話が成立している。

 オバナは野宿を繰り返して五日後の七月二十八日、町田市のGallery ART SPACEに辿り着く。そこで最後に引いた音がkiであった。四十六音を順にならべると「くうひりつすんるあむかにゆともふまけわねなのろてはせへれえよしみめさいほをこおらちぬそたやき」となった。これらの音にはもちろん意味はない。あるのは意味の芽生えである。オバナが歩いて出会った何ものかへの思い、また、オバナの行為に対する何ものかの返しごとにより綴られたこれらの音は強烈な磁場を成して私たちにはたらきかける。それは、オバナ自身の有無をいわせぬ、かのものとの交歓の実感のなせるわざである。この一連の音は、まるで自然やその奥に潜む何ものかとひとつになれる合言葉のように作用する。オバナは四十六音を順に綴った立方体の輪と地図をGallery ART SPACEの百葉箱に納め展とした。

 このような実感を多くの人々に味わってもらえないだろうか、この思いのもとオバナはさらなる表現に挑んだ。それは二〇一三年六月一日、アート体験《ことのは》で実践された。本表現は佐野市戸奈良町三床山周辺において開かれた一日のみの催しであった。三床山は旧田沼町に属し、標高三三五メートルのなだらかな丘陵である。麓にはおよそ八百年前に勧請された鹿島神社が祀られており、古くから産土神として信仰されてきた。当地は水源の涵養地であり、泉が湧き、沢が流れている。

 オバナは起伏に富んだ地形や、この地のもつ清々しい雰囲気に着目し、会場に選んだ。約三百メートル四方のそこここに特殊なしかけを施した。それは中心に穴を穿たれた円鏡と鈴と透明な半球状の器からなる。器の底にはひらがなが一文字しるされていた。四十七清音と「ん」の四十八のひらがながそれぞれの器にひとつずつしるされており、器の数は都合四十八ある。よって四十八ヶ所にしかけがある。

 参加者はオバナより縁日などでよく売られている風船に水を入れた「ヨーヨー」を手渡される。しかし、これは普通の「ヨーヨー」ではない。その中の水は凍っている。参加者は林の中に点在する器を見つけ、その上に「ヨーヨー」を懸ける。その際、風船を破る。すると中から水晶のような氷塊が現れる。氷塊が溶けて器に溜まるしくみとなっている。参加者は器の底の文字を控え、さらなる器を林中に探す。

 参加者が氷塊をつるすことによりたぐいまれなる「装置」が完成する。鏡はすべての光を受け止め反射するが、同時に宇宙開闢以前の「光」をとらえるはたらきを備えている。それは光が光として出現する以前の、いわば混沌とした闇の状態をもとらえている。闇の中では光は波として、つまり響きとして存在する。鏡の裏面は闇であり、表の「実光」に対する「虚光」を示している。「虚光」はほかならぬAOUEIの母音として鏡(実光)の裏に書きこまれ、鈴として留まる。これは、この界が目に見え触れられるもののみで成立しているのではないことを示唆する。同時に宇宙開闢以前の混沌(未出現の光としての虚光)が実光と表裏ひとつとなって到来し存在していることを明らかにしている。「虚光」は響きとなり氷塊にしるされ物質化する。氷塊とはつまり「ヒ」の塊であり、私たちの体である。体に響きがしるされことばが醸される。氷は溶けて水となり、器に留まる。器の底の文字により、氷塊にいかなる響きがしるされたのか、さらにそれがいかなることばとして醸されたのか明らかになる。とともにこれは体内に醸されたことばが外に出たことを示している。これは声として認識されるのだ。この装置により、光と響きの関係、響きからことばの変換が見事に示される。さらに水は蒸発して天に昇る。つまり、ことばを留めた水が天に還って行くのだ。光と響き、ことばと水の循環を示すラディカルなモデルとなっている。

 概念的に述べればこのようなしくみとなるが、それ以前にこの展示はとても美しい。初夏の木漏れ日のなか、風にゆらぐ鏡はまるで目配せするように光り、その隣に水晶玉のような氷塊が宙に留まっている。鏡は光をはねかえし、氷塊は内に留める。氷塊が溶けて器に溜まると水鏡となり、葉むらごしに空や日の光、さらには日光に隠された星の光をも映し出しているはずだ。風によってみなもは波立ちその奥からひらがな(ことば)が現れる。さらに氷塊が溶け去ると中から小さな水晶玉が出現した。氷塊を体とするならこれはその核となる霊ではないだろうか。氷(ヒ)が溶け去って霊(ヒ)が現れる。実際オバナは氷塊を作るにあたって水晶玉を「種」としている。氷(ヒ)が日(ヒ)を浴びて霊(ヒ)とことばが現れたわけだ。

 私は鏡の光に導かれて林中にひらがなを見つけるたびに、ことばを授かっている想念に駆られた。先人たちが天に還したことばが再び地に降りそそぎ、林の木漏れ日に紛れているように思えたのだ。それらを拾い集めてひと綴りにしたものは何ものかより贈られた自分自身の名前のようにも感じられた。発声可能な音(声)を天地に預けることによりことばが降りそそいでくる。天地にことばを使ってもらうのである。と同時に風のそよぎや葉のざわめき、水のせせらぎもことばとして聞こえてくるので不思議だった。これもこの展示によって、自然の音をことばへと変換するはたらきが私の内面に呼び起されたからかもしれない。最後に参加者ひとりひとりが出会った「ことば」を読み上げ散会となった。

 

 オバナは《対局》により、さらなる「ことばの生成」に踏み込んでいく。二〇一四年二月一日、足利市立美術館においてオバナは春山清(一九三七-、足利市出身)と《対局》を繰り広げた。桐生市在住の春山は個人誌やパフォーマンスにより長年にわたり根源的な表現を実践しており、オバナの先達というべき人物である。春山とオバナは互いに文章を持ち寄り、相手の文章から感じ取ったイメージを色のついた母音で表現することを試みた。春山の文章「生命は神秘、生態は罪業」はオバナにより緑色のⅠに変換され、オバナのリナとマホが仲良しになる物語を春山は黄色のAに変換した。これはさまざまな概念や意味、情緒をともなったことばを色を伴った母音一文字に置き換える行為である。

 ことばのもとのすがたは意や情をともなった発声であるとすれば、母音変換は得心がいく。つまり意や情を母音のもつ「傾き」に託すのである。たとえば0(お)はつつみ和らげる感じであり、Ⅰ(い)は鋭く勢いのある感じをもたらすといった具合だ。また、色については、青は沈着と冷静、赤は情熱と怒りを想起させる。これは声の表情、つまり「声色」を示すものだろう。

 さらに一言えば色は光である。闇の中で文字どおり音として存在していた母音が外界にふれ発光する。これは響きから光への変容である。母音が保つ他者の意や情が自身に届くことにより、己の内面で光と化し、輝く(はからずも筆者は、『アンティゴネー』のヘルダーリン訳を思い出した。彼はイスメーネーの台詞を「お姉さまは、ことばを紅に染めているような気がします」とドイツ語に翻訳している。一見異様な訳だが、真実だと思う。太古の、ひいては根源のことばは、ありありと色彩と輝きを帯びていたのだ)。

 おそらくすべてのことばはこのようなシンプルなものから発展していったと思われる。だとすればことばの源泉にまで遡ればさまざまな意や情は隣接したものとしてとらえられる。たとえば赤いⅠで表現された鋭い怒りは、同時に愛のⅠに通じている。これは一見、遠く隔たった二点が、その出所をたどると、同じ一点を起点としていることと似ている。つまり隔たった意や情も本源へと遡れば同じ一点で結ばれるのである。これはとりもなおさず変換可能であることを示している。ここにおいて「いかり」は「あい」に「にくしみ」は「いつくしみ」になる。絶えず変換して新たな意味合いを生み出していく。これがことばの玄妙なはたらきであり、さらに言えば意識の自在性である。意識により同じ出来事でも憎しみとも愛とも受け止められるのだ。

 オバナと春山の《対局》は、この変換のはたらきによってことばがいかに発生したか、また、意識の自在性とことばのかかわりはどのようなものなのかを示すひとつの「雛型」である。《対局》には八名の協力者がオバナと春山により指名された。八名ともふたりとかかわりの深い人物である。八名は壁面に掲出された春山の四つのことば(「生命は神秘、生態は罪業」、「究極根源を見詰める」、「座して死を待つ」、「死は至福」) からひとつ選び、色のついた母音に変換していく。それをオバナと春山が子音を付けて七十五音に変換し、オセロゲームの駒のうえにしるし、ゲームを繰り広げる。それにより縦、横、斜めどこからでも読める歌のようなものが出現する。これは春山のことばによって想起された色のついた母音からさらに子音を発生させるこころみである。八名それぞれにより春山のことばが色のついた母音に変換されたが、それにはある種の傾向が見いだされた(「生命は神秘、生態は罪業」に八人中五人がAに変換し、そのうち三人が赤を選んでいる)。この傾向こそ、ことばの本源へと遡った証左である。それは「傾き」を示す音と色であるが、もちろん各人によりとらえ方はさまざまである。さらに、オバナと春山により母音に子音が付されていく。これは本源へと立ち返った響きが再び個別化し、新たな意と情をまとう瞬間である。さらにそれがオセロゲームとして反転していく。これは意識による反転を示唆する。

 おそらくことばはあるひとつの出来事が各人の心におよぼしたさまざまな「波紋」の干渉ややりとりによって成り立ったと思われる。当初それは漠たる母音と色(音色)であったが、心の波紋の干渉にともない音のせめぎあいが激しくなり、子音が現れ、それによって差異が生じ、意味が発生する。オバナと春山はそれをオセロゲームの盤上に繰り広げて見せた。ここで重要なのは明らかな意味をもった春山のことばを母音変換したことだ。先に述べたように母音変換することにより相反することどもが隣接し、変換可能となる。後日、オバナはいくつかの例をあげた。たとえば「いのち」、「いどみ」、「きもい」、「きよみ」、「にごり」、「ひとり」、「にこり」はすべてIOIである。《対局》は本源に立ち返り新たなことばを生み出すエクササイズなのである。オバナと春山により綴られた音列にはもとより意味はない。しかし、かつてなかった意味や情、概念を受け入れ、はぐくみ、生み出す磁場を形成している。さらに興味深いことにゲームにより裏返された駒にも文字が貼られている。これは顕れ出たものによってのみことばが、あるいは世界が成立しているのではないことを示している。顕在化したものの影には潜在化したいくつもの言葉が控えている。それは未出現のことばと世界であり、なにかの拍子に、それこそオセロゲームのように反転し顕在化しうるものなのである。これもまたことばの深遠な秘密を示唆している。

 以上、オバナの「ことば」に関する表現を記述した。この他にも《対局》のもとともいうべき《鼎局》(二〇〇三年十月~十二月)、《あめのうた》(二〇一三年一月)、《ちのうた》(二〇一三年九月)など重要な表現があるが、紙幅が尽きたので次の機会にゆずりたい。オバナの表現の対象はことばに限らず命や愛におよぶ。いずれも観者(参加者)の意識の拡張、立て直しを促し、ときとして眩暈にも似た震撼をもたらす。いわば詩が本来もつ、またもつべき本質を突いているのだ。この稀有な表現者の今後の活動に筆者は大きな期待と希望を抱く。

 

 

 

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