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『ナミはヨミがえる』

『ナミはヨミがえる』

手振れが描いたお日様の顔

タカユキオバナ

 

2014715日  大山祇神社 手水舎  足利市大沼田町

 

 手振れが描いたお日様の顔     タカユキオバナ

一瞬は永遠だから、必ずその全てを捉えることができる。あなたの話す声も、138億光年前に放たれた光も・・

永遠を名づける行為として水鏡を写真におさめるのが良いと思った。水鏡の世界観は、統一を直感させるから、意識を根本から問い直せそうな気がしたのだ。その摸索で生まれた気づきこそが、永遠を名づける行為としてふさわしく思われた。

水鏡を覗き込めば、自身の顔が映り、背景には大空が広がる。夜のかなたに星が煌めき、古からの風が吹いてくる。想像してみてください。無数の銀河の最果てに、この宇宙が開闢した、その瞬間までもが水鏡に映りだされていることを。世界が開闢する前夜、その混沌のゆらぎの中で形もなく私たちは眠っていたのだ。

写真はこうした流れの一瞬を捉えるものだから、言葉とは違った名づけの可能性に触れられるかも知れない。

働きを抽出する表現であれば、それはジャンルを問わず、名づける行為なのだと考えることで相互交換が可能になる。写真を言葉に変換することも、さらにその言葉を物質に置き換えることも可能にするには、名づける行為を言葉に限ってしまってはうまくゆかない。

統一を直感させるモチーフを扱い、自在に変換可能なことが、意識を根本から問い直すためには不可欠だと思った。

大山祇神社、手水舎の水面に映った太陽を撮影したのは、このような理由からだったのだが、この思惑を超えてしまう偶然が起こった。

水面に映った太陽が手振れの軌跡によって、明らかに人の顔のように描き出されている写真は、とても稀なものだろう。

名づけようとしてシャッターを切ったのだが、期せずして、自ら名のりをあげたようなこの無意識世界からの贈り物をどう読み解けばよいのか?潜在化していたモノたちのヨミがえりとかさねてみる。

例えば、イザナギのミソギによって何故、アマテラスやツクヨミやスサノヲが生まれたのか?意図していたとは思えない、その答えがイザナギの潜在意識にあると考えれば、ミソギによって神の働きが分化し自立できるのは、イザナギの無意識界を司る者たちは、何時でも、元の働きへとヨミがえる機会を窺っていたのではないのか。

イザナギとして統一される以前の無数の働きの混沌の中には、アマテラスやツクヨミやスサノヲの働きがほかの様々な働きと共に自立していたと思われた。

様々な働きを温存したまま、その融合体として統一するには、それぞれの働きを無意識化するしかあるまい。そうすることでそれぞれの際立った働きは、無意識の働きとして保たれたまま矛を収め、調和した働きの融合体として統一される。

だが、ひとたび、調和した世界観では対処できないような問題が生じると、元の際立った働きをヨミがえらせるためにミソギが行われるのではないのか。

ミソギによって、潜在化していたアマテラスやツクヨミやスサノヲの働きは自ら名のりをあげる。ミソギとは、無意識世界の働きの中からひとつの働きが自ら名のりをあげるコトアゲに他ならない。

このコトアゲによって受けとめきれなかったものを受け止めて行くそれは、心の物差しをひとつふやすようなことなのかも知れない。

どんな働きがコトアゲしてくるのか分からないミソギは、丁度、手振れが描いたお日様の顔とかさなるように感じられた。

名づける行為の中で名のりを体験した驚きは、名づける行為もまたミソギなのだと気づかされる。それは無意識の中に潜む膨大な働きを意識させ、自分でも気づかない何かが、突然、コトアゲしてくる可能性を秘める。

生きているということは、新陳代謝ひとつとってみても、こういう働きなしでは成り立たない。何故、伏せられているのか分からないけれど、はかり知れない力が常に我が身に寄り添っているかと思うと、とても勇気づけられるのである。