<<< 最強の水生昆虫を捕獲せよ! >>>
H19.10.7 茨城県常陸大宮市にて
プロローグ
それは例によって、テレビチャンピオン昆虫王こと長畑さんと酒場で一杯やっていたときのことだったと記憶している。細かいシチュエーションは忘れた。だが、きっといつもの伝で、サシツ、ササレツ、ノックアウト直前まで呑みまくっていたに違いない。 どういう話の流れでそうなったのかは覚えてないが、私は、子供の頃に住んでいた田舎で、一度だけ見たことがある凄まじい光景の話をした。 用水路に垂直に突き立っている棒杭に、幾つもの小さな卵がウジャっとくっついていて、それを親虫が守っていたのだ。ブツブツと杭に生じた腫瘍のごとき卵の有様に、私は思わず、肌に粟立つほどの妖気を感じた。 後年、これと似たようなのが、映画のエイリアンに出てきたとき、最初に思い浮かんだのが、このときの白い卵だった。 あの卵の塊には近寄れなかった。 思わず目をそらしてしまった。 虫といえば、必ず手を出してきたのに、初めて本気で忌避した。 当時、東京から引っ越してきたばかりだった私は、さすがに田舎の虫は違うと、深く感じ入った。 私の幼心にそれほど強烈な印象を刻み付けた虫。それがタガメだった。 あれから幾歳月。 今ではすっかり、エイリアンの卵に恐怖した頃の感覚は鈍磨し果てた。 いや・・・・・・告白すると、むしろ私は、奇異なものや珍しいものに対して、どうしようもなく惹かれる大人に成長していた。すなわち、いつの間にか、私は、タガメをとてつもなくカッコいいと思うようになっていたのである。 サソリのような戦闘的な肢体。 他の追随を許さぬ、巨大なボディ。 獲物を絡めとる強靭な前足。 水の中で、タガメに勝るファイターは存在しない。 タガメこそ、史上最強の水生昆虫なのである。 今日の私は、あの卵をじっくり間近で見てみたいとさえ思っている。 子供の頃に覚えた恐れにも似た感覚は、いつしか淡い憧憬に変じていたのである。 「・・・・・・でも、もう、いないんでしょうねぇ」 杯を置きながら言う私の声が、しみじみとしたものになったのは仕方ない。 子供時代にさえ、一度しかお目にかかったことがないのだ。 環境破壊が進んだ近年では、いよいよ希少な虫になっていることだろう。 「それじゃ採りに行きますか?」 こともなげにそう言い放つと、長畑さんは憂い顔の私に向かって、ニヤッと微笑んだ。 「えっ! 採れるんですか?」 「もちろん。いるところには、まだまだいますから」 私は思わず膝を乗り出した。 「それじゃ、ぜひ!」 「行きますか?」 「行きましょう!」 一瞬にして、私の憂さは晴れ上がった。 その後、二人の杯を空けるスピードが猛烈に加速していったことは言うまでもない。 -*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
1.初めてのポイントで・・・
長畑さんの青い車に乗って、自宅を出発したのは朝の8時15分過ぎだった。 東京外環から常磐道に乗り継ぎ、車は一路、北へ向かう。 綿くずみたいに空にひっかかった薄い雲を吹き飛ばすように、日差しが強く差し込める。 秋晴れが期待できそうだ。 長畑さんは、前日も昆虫採集だったという。 シジミチョウの一種を追って房総まで出かけたのだそうだ。 「ただ、一緒に行った仲間が『ナキムシ屋』さんでねぇ・・・・・・」 「・・・・・・?」 「昼もそれなりに採るんだけど、夕方5時過ぎからが、彼らは本格的になるんですよ」 なるほど。 どうやら『ナキムシ屋』とは、ようするにバッタやコオロギなど、鳴く虫を専門にしている人のことをいうらしい。『泣き虫屋』ではなく、『鳴き虫屋』なのだ。 今がシーズンの『鳴き虫屋』さんたちは、夜遅くまで、虫の声を頼りに採集し続けたという。 「その後で、あっち、こっちで人を下ろしてきたんで・・・・・・」 結局、帰宅したのは深夜1時に及んだのだという。 お疲れじゃないですか?と聞くと、 「いや、でも、季節的に今週あたりが限界で、来週くらいになると冬眠に入るから。採るのが厳しくなるんでねぇ」 苦く笑いながら、長畑さんは答えた。 無理に私のために日程を調整してくれたのである。 本当にありがたいことだ。 それにしても、二日連続で遠距離に採集に行くとは・・・・・・もはや超人の域である。 よほどの虫好きでなきゃ、できないことだ、などという、平凡な感想が頭をよぎったが、すぐに、長畑さんはよほどの虫好きなんだと思い返した。 車中のデジタル時計は10時を表示していた。 家を出てから約二時間。 友部パーキングエリアに到着した。 一服して高速を降りると、辺りの景色は、ほぼ野山一色に移り変わっている。 いよいよ、タガメ採集の幕開けである。
2.意外な獲物
時刻は既に正午を過ぎていたが、初めて挑戦したポイントで思わぬ大収穫を得て、すっかり気を良くした我々は、この機運に乗じてグイグイ行こうと(?)、すぐさま次の場所での採集に取り掛かることにした。 ほんの数分、車を走らせただけで、もう次の目的地に到着。 なんでも、ここは、毎年、タガメを採っている実績がある場所なのだという。 なるほど、見るからに水草がいっぱい茂っていて、いかにも獲物が濃そうな予感がする。 高まる期待に、長靴に足を突っ込むのも、もどかしく、大急ぎで網を引っつかむと、我々は用水路めがけて飛び出していった。 草のおかげで最初のうちはよく分からなかったが、足元はすべてぬかるんでいて、まるで湿地帯のようであった。 水草が用水路一面に大きくはびこっている。そこを長畑さんが、強力な網でぐいぐい根こそぎ浚い上げ、浚い上げ・・・・・・ひたすら浚い上げる。 そうして長い水路を端から端まで一巡するのだが、殆ど網に獲物が入ってこない。泥が跳ねて、服は言うに及ばず、腕や顔にまで黒い跡が染み付く。しかし、長畑さんはそんなことにはお構いなく、集中的に水底を浚い続ける。 こうして、二回、三回と浚ってゆくと、ようやく獲物が入ってくるようになるのである。 これは、一回目のときに、泥に潜っていたり、水草にしがみついていた昆虫が、住処を追われて慌てて動き出し、そうして二回目以降のサベージで網に入りだすからなんだろうと長畑さんは言う。 水生昆虫採集は、まさに体力勝負である。
3.ちょっとうれしい獲物
時刻は1時を回っていた。 そろそろ昼食を、ということで、いったん採集現場を離れ、車で『うぐいすの里』という公園施設まで移動。青空の下、のんびりと妻が作ってくれた美味い弁当を長畑さんとパクついた。 2時過ぎになり、休憩を切り上げたのだが、少し雲が出てきて、太陽が時々隠れるようになった。幸い、雨は降らないようだが、陽光が差さなくなると、ちょっと肌寒く感じられる。 午後も大いなる成果が上がることを期待して、次のポイントへと向かった。
4.苦戦
水生昆虫だけでなく、イモリやカエルといった面白い獲物まで採ることに成功し、ウキウキ気分なのだが、欲をいえば、なんとかもう少しタガメを採りたいところである。 時計の針は4時近くを指している。活動できる時間もあとわずかだ。 車に乗って、タガメがいそうなポイントを探しまくる。 だが、なかなか、これという場所がない。 最初のうちは分からなかったが、いくつかのポイントで採集しているうちに、どんな用水路にタガメがいるのか、私なりに感得したものがあった。それは、簡単に言ってしまえば、水量、水の流れる速さ、水底の泥の量、水草の茂り具合といった要素から成り立つ条件なのである。 だが、これらの条件にピッタリ一致する田んぼが、驚くほど存在しないのだ。 この辺りは、実にたくさんの田んぼがあるというのに、どこの用水路をとってみても、何らかの致命的な欠陥があって、採集には不向きだと一目で分かってしまうのだ。 ということは、今日、一番最初に採集したあのポイントは、かなりの幸運に恵まれて出くわしたものだったに違いない。車でぐるぐる辺りをうろつくうちに、そのことがようやく私にも分かってきたのであった。 日が少しずつ翳りだす中、やっと二箇所ほど候補を見つけることが出来た。 最後の挑戦が始まった。
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エピローグ
たくさんの獲物に恵まれて、大満足のうちに終わった茨城県北部での採集は、常磐道の大渋滞という、思わぬおまけまでついてきた。 高速に乗った時点では、柏を先頭に15キロ程度だったのが、途中、休憩をしているうちに、あれよあれよと伸び続け、一気に30キロもの長さと化したのだ。 その上、その先もまだ数箇所で断続的に渋滞があるらしい。 特に事故があったわけでもなく、どうしてこのようなことになったのか、さっぱり分からない。三連休の中日だったからだろうか? ともかくも、なんとか柏まで辿り着き、そこからは高速を降りて、16号を延々とさいたま市方面に向かって走ることになった。 それにしても不思議なのは、今回、なぜタガメがあまり採れなかったのかということだ。 冬眠に入ってしまったのだろうか? それとも先を越されて採り尽された後だったのか? 高速道路の原因不明の渋滞と同様、これまた解けない謎として残った。 こうなったら、いっそ、来年、また連れて行って頂こうか? 今度は、長畑さんが持っているような、強力な網を用意して・・・・・・そんな思いが、ふと脳裏をよぎった。二匹も採れたのに、欲深いものである。 途中、ファミレスでの食事を挟んで、夜9時過ぎに無事、帰宅。 獲物を分け合った後、解散となった。 ところで、長畑さんは、分け前の虫を、彼の友人で昆虫食で有名な某氏に送るつもりらしい。コオイムシやタイコウチをどうやって料理するのか、ちょっと想像できない。果たしておいしいのだろうか・・・・・・? 今回もまた、長畑さんにはお世話になりっぱなしだった。特に今回は二日間連続でのハードな採集だったのに、嫌な顔一つせず、長距離を運転し、網を振るいまくり、たくさんの獲物をもたらして下さったのは、本当にありがたいことであった。この場を借りて、あらためて感謝の意を表したいと思う。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 採集を終えて、一週間が経過した。 この間、自宅でたっぷり栄養をつけさせてきた。いよいよ翌週からは、小学校での展示となる。きっと今年も、子供たちが目を輝かせて、水槽の中の虫たちに夢中になることだろう。貴重なタガメを手放すのは、いかにも惜しい気がするが、いまどきの子供たちは多分、こんな巨大な水生昆虫なんて見たこともないだろう。いや、タガメどころか、コオイムシやマツモムシすら、きっと知らないと思う。彼らの興奮する様子が目に浮かぶようだ。 行ってらっしゃい。 喜ばれておいで。 そんな気持ちをこめて、虫たちを送り出してやるつもりだ。 <完>
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