<<< 水生昆虫の王者をもとめて >>>
H18.10.9 山梨県北西部の溜め池にて
プロローグ
『ゲンゴロウ』 この名前は、私にとって、長年の憧れの的であった。 水、陸、空のいずれにも長じた猛者であり、緑に輝く姿態はあくまでも美しく、その上、驚くほどに大きい。子供の頃に図鑑でみたその勇姿は、しかし、一度も実物を拝む機会がないままに、数十年の歳月が流れ去っていった。 千葉の田舎で育った私は、タガメやミズカマキリ、タイコウチといった連累とは、割と親しい間柄であった。だが、ついにあの巨大なゲンゴロウとだけは、縁を結ぶことが叶わなかったのである。 その後、東京の大学に通い、東京の企業に就職し、やがてそこを辞めて虫屋として開業。再び昆虫たちと触れ合う日々が訪れたのだが、やはりこの虫との出会いはなかった。 私の中で、いつしかゲンゴロウは、幼い日に夢見た幻の虫となっていた。 それは、テレビチャンピオン昆虫王の長畑さんと、例によって鯨飲していたある夜のことだった。 どういう話の弾みでだったか、ふと、私は、今までに一度もその姿をみたことのない、ゲンゴロウへの憧れを口にしていた。 「それなら、今度、一緒に採りにいきましょう!」 長畑さんは、いともあっさりとおっしゃっられた。まるで、近所のスーパーにちょっと買い物にでも行くかのような気安さであった。 本種はいまや幾つかの県で、レッドデータブックに記載されている絶滅危惧種である。 私が子供の頃でさえ、すでにその姿をみることはなかったのである。 いるところには、いるのかもしれないが、そうやすやすと発見できる虫とは、どうにも思いがたい。ただ、私には、酔った上での座興と簡単に諦めることもできなかった。 その後、なかなかタイミングが合わず、ゲンゴロウの採集は延び延びになっていった。昆虫王さんとの間では、折りに触れては思い出して、そろそろ行かなくちゃね、という話になるのではあるだが、ついつい間が空き、気がつくと数年が経過していたのである。 こうしてゲンゴロウ採りは、私たちの間で、いつか実現させたい遠い約束のようなものになっていった。 だが、案外、私は気楽に構えていた。 男と男が一度交わした誓いは、たとえどんなに時間がかかったとしても、必ず果たされると信じていたからである。 2006年の秋10月。 その日は、唐突にやってきた。 -*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
1.最初の挑戦
朝8時。 昆虫王・長畑さんが、車で迎えに来てくださった。水生昆虫を採る場合、荷物がかさばるため、移動は車に頼らざるを得ない。 すがすがしい陽気で、雲が殆ど無く、秋晴れが期待できそうだ。 荷物を積み込み、長畑さんの運転で、すぐに出発。 目指すは山梨県の北西部である。(具体的な地名はゲンゴロウ保護のため伏せさせて頂きます。H20.9.2)ここはオオクワガタの産地でも知られる有名な採集スポットだ。もちろん、狙いはクワガタではない。大型のゲンゴロウ、これが今回のターゲットなのである。 果たして採れるだろうか? 期待と不安を胸に、車は西へと向かう。 首都高5号線に乗り、新宿を経由して中央高速へ。信じられないくらい、空いている。幸先のよいスタートだ。この上げ潮のような運気に乗って、採集の方も、ぜひ成功を収めたい。 途中、談合坂SAにて給油と休憩をはさんだ後、須玉ICで中央高速をおりて、一路、目的地へ。三時間は覚悟していたのだが、わずかに二時間ちょっとしかかからなかった。 天気はますます上々。一般道を快調にかっとばす。採集前の腹ごしらえにと、長畑さんはお握りをぱくつく。どうやら気合十分のご様子だ。 10時35分。 最初のターゲットとなる溜め池に到着した。
2.山の中へ
ところで、ゲンゴロウ採集を長畑さんにお任せしている間に、私は何をしていたのか、という疑問を覚える方もいらっしゃることだろう。ウェダーをもっていない私としては、大胆に池の中に入っていくことはできない。せいぜい、池の周りで、ぽちゃぽちゃと網を入れてみるくらいが関の山である。当然、ポイントになるところまで網は届かず、戦果は期待できない。では、デジカメ撮影と記録係に徹していたのかというと、そうでもない。 実は、私には、出がけに妻から頼まれたことが一つあった。それは、ゲンゴロウに限らず、とにかくいろいろな虫を捕まえてきて欲しいというものだったのである。 私の妻は小学校の教員をやっているのだが、ちょうど今、虫について学習している最中なのだそうだ。ところが、今の子供たちは、虫の絵を描かせると、足がむちゃくちゃ多かったり、はたまた、まるで描けなくて、泣き出す子さえいるのだという。虫と触れ合う機会が多くないばかりか、そもそも、今までに虫をちゃんと観察したことさえない子が、殆どのようなのである。そこで、妻は、この機会に、ぜひ、いろいろな虫を展示して、子供たちに見せてあげたいのだという。 そうと聞いては、虫好きとしては黙ってはおれない。 よろしい。子供たちに、たくさんの昆虫をもっていってあげようじゃないか! 生き虫屋の血が騒いだ私は、久方ぶりに虫網をもって、現場に臨んだのである。 この話をすると、長畑さんの目が、めがねの奥でキラリン!と輝いた気がした。 ということで、次に昆虫王さんが案内してくれた場所は、池ではなく、山だったのである。
3.次の池へ
数十分、山の道をうろうろと散策しながら、虫を探して歩いた。 さすがにオオクワガタは見つからなかった。やはり、そう簡単には問屋が卸さない。もっとも、本当に狙っていたのは、アカマダラハナムグリだったのだが、こちらはさらに貴重品。 山地での採集は、結局、上述の他、オオヒラタシデムシやヒナバッタなどを採って終了。 引き続き、ゲンゴロウを探しに次のポイントへ移動することになった。 時刻はとうに昼を回っている。そろそろ昼食でも、ということで、移動しがてら、お店を探した。在来線の駅近辺に何かあるかと思ったが、意外と期待外れで、致し方なく、予め目をつけておいたコンビニへ。 午後はなんとしても、ゲンゴロウを見たい。そして、妻に頼まれた虫をもっと採らねばなるまい・・・・・・徐々に高まるプレッシャーを、コンビニで買ったコーヒーで薄めながら、我々は次の池へと向かった。
4.最後の池へ
こうして私は、四十年近く憧れ続け、会いたいと願い続けてきた巨大なゲンゴロウに、ついに対面する夢が叶った。それも一気に4匹もである。 これで、もう思い残すことは・・・・・・いやいや、まだである。もうひとつ、さきほどの期待の池が残っている。ミズカマキリが大量に発生していた、あの素晴らしい溜め池にアタックしないで終わるわけにはゆかないのである。はるばる、山梨まで来たのである。 対向車が来たら、とてもすれ違えそうにないほどの細い田舎道に車を駆ること10分。 我々は、最後の挑戦の舞台となる溜め池に到着した。
エピローグ
時刻はすでに4時近くになっていた。 太陽がそろそろ西に傾き始めた頃、最後の溜め池での採集を終えて、我々は帰宅の途につこうとしていた。 用意してきた水槽には、どれも虫たちがいっぱいにひしめいている。満足感で胸までいっぱいだった。 小学校の子供たち、これを見たら喜ぶだろうな。 そう思ったら、嬉しくて体がぽっぽと熱くなった。 最後の最後に、長畑さんは、もう一箇所だけ見ていこうと言い出した。 一日中、池の中で網を振るい続けたというのに、なんという体力であろうか。これぞ、虫好きの本領発揮というべきか。すでに満足感にどっぷり漬かっていた私は、少々、気乗り薄だった。だが、そこは、以前、長畑さんが100匹ものゲンゴロウを捕獲した、とっておきの池なのだという。そうと聞いては、私に否やは無い。 ギラギラする西日に照りつけられながら、車は一般道をびゅんびゅん、ひた走る。そして、あっという間もなく、栄光の池に到着。だが、勇み立って車から駆け下りた我々が、そこで見たものは・・・・・・
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*- ゲンゴロウ採りの長い一日が終わった。 今、振り返ってみても、ボリュームたっぷりの、実に楽しい旅だった。 帰りの車の中で、ラジオのアナウンサーが、北朝鮮の地下核実験成功のニュースをエキセントリックな口調で伝えていた。 世間では、大変なことが起きていたのだな・・・・・・光り輝く甲府の街の夜景を、車窓の向こうに見つめながら、私は、虫三昧という、最高に贅沢な時間を過ごしたこの日の幸せを、生涯、忘れないだろうと思った。 長畑さんの昆虫に関する該博な知識と、豊かな採集の経験が、今回、ゲンゴロウを6匹も捕まえるのに成功した鍵になったことは言うまでもない。 おかげで、現在、我が家の水槽には、この憧れの虫が元気に泳いでいる。 ありがたいことである。たかがゲンゴロウといわれるかもしれないが、私にとっては、積年の夢だったのである。長畑さんには感謝しても、しきれない思いがする。 それにつけても、驚かされるのは、長畑さんの強靭な体力である。あれだけ、さんざん網をふるい続けたというのに、まるで何事もなかったかのように、長時間、車を運転し、疲れた顔一つ見せない。 好きなことに没頭しているとき、人は夢中になるあまり、疲労を忘れてしまうのかもしれない。そして、そのとき、人は、時の流れをも超越するのであろう。 いつまでも溌剌としている長畑さんの若さの秘密は、きっと、ここにある。 また、採集に行きたい。 帰ってきたばかりなのに、もう、フィールドに出てゆきたくてたまらない。 昆虫採集とは、どうやら、癖になる快楽のようである。 <完>
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