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コラム

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今回の話は、『黒くて平べったい、家屋に潜む厄介なあいつ』に関する考察である。
ここまで読んで、こりゃまずいと感じられた方は、即座にブラウザを閉じるか、別のページに飛んでゆかれることをお勧めする。尻に帆を掲げて遁走されたとしても、私は別に「根性無し!」などと罵るつもりはない。しょせんは文章による伝達であるからして、そう大したこともないのではあるが、無理に踏みとどまって、あとで文句を言われることだけはご勘弁願いたい。


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まずはじめに言っておかねばならぬことがある。
それは、彼らだって立派な虫の仲間である、ということだ。嘘だと思うなら、昆虫図鑑を見て欲しい。Yamato、Kuro、Chabaneといった代表選手が、少なくとも数種類は見つかるはずだ。
虫である以上は、このコラムに登場する資格は十分にある。以前にはコバエやダニ、それに紙魚まで取り上げているのである。彼らだけを仲間はずれにするいわれはないのである。


ただ、なぜか、こと彼らの話を語るとなると、途端に気分が悪くなってしまう方がいらっしゃることも一面の事実である。カブトムシやクワガタムシが好きで、ブリードまでやっている「虫好き」を自認されるような方であっても然り。彼らだけは、いや、もう、はっきりと書くとしよう、ゴキブリだけは、どうしても苦手とおっしゃる方を、私は今までに何人も見てきている。
その姿を見ただけで、大の男が、か細い悲鳴をあげて逃げ惑うという図は、いささか滑稽の感を拭いきれないのだが、それだけ強く嫌悪感を抱いている故なのであろう。心から同情する。


だが、人の世とは不思議なもので、反対に、熱烈なゴキブリのファンがいることも、また事実なのである。彼らは情熱をもってゴキブリを飼育している。それも累代飼育に挑戦している。その熱心な姿は、クワ・カブを愛する人たちと、なんら異なるところがないといっても過言ではない。いや、むしろ、マイナーな分野の趣味であるだけに、本当に好きな人だけが取り組んでおり、飼育に関する気持ちの純度は、よりピュアなものがあると断言できる。


ちなみに、我が国のゴキブリはあまり見栄えのよくないものが多いように思うのだが、外国産のものは、例えば全身が緑色でとてもゴキブリには見えないような、非常に美麗な種類がいる。また、飼育種として名高いところでは、オーストラリアのヨロイモグラゴキブリが挙げられる。こちらは、親が子を散歩に連れて歩くなど、非常に愛情深い子育てをすることで知られている。一口にゴキブリ飼育といっても、そう地味なものでもなく、意外と興趣をそそられるものがあるということがご理解頂けたかと思う。


さて、こうしてみると、ゴキブリに対する好悪とは、西欧では蛸が悪魔だというので、忌み嫌われているのに対し、日本ではご馳走と考えるという状況に酷似しているように思われる。
物事はすべからく見方一つで、180度違って見えるものなのである。その好例が、蛸であり、ゴキブリなのである。


では、そもそも、なぜ家屋定住型のゴキブリたち(ゴキブリは野外性の種類が実は大変に多い)は、(一部のファンを除いて)かほどに嫌われるのであろうか。
いろいろと理由は考えられるが、もっとも大きな要因は、ゴキブリが、我々人類と同じ居住空間を共有するためと思われる。しかも、ゴキブリは食物まで、我々に頼って生きている。その上、これほどお世話になっているくせに、まるで我々に対しては、なんら恩恵を施してはくれていないというところに大きな問題が潜んでいるように思われる。


生物には「共生」という生き方がある。有名なのは、クマノミとイソギンチャクの関係だ。「共生」とは、異なった種類の生き物同士が、お互いに身を守りあって生きるという、実に有意義なライフ・スタイルなのである。
だが、人類とゴキブリのそれは、現在までのところ、甚だ遺憾ながら決して「共生」などといえるものではなく、一方的に片方に寄りかかって生きるというものである。この状況を一言で表わすならば、まさに「寄生」という他ない。
野良犬だって、一宿一飯の恩義を忘れないものだ。しかるに、長い歴史の中で、生活の殆どを人間に依拠してきたゴキブリはどうであろうか?
恐らく未だかつて我々人類は、誰一人として、ゴキブリから感謝状はおろか、お礼の言葉ひとつも、かけてもらった例がない。
仮にゴキブリが、我々に対して、何らかの利益をもたらさないまでも、せめて、感謝の念でも示すようであれば、話はまた別であったかもしれぬ。陰に乗じてこそこそと徘徊し、食料を漁り、糞を撒き散らして、てんとして恥じぬその姿は、これはもう忘恩の徒と罵られても、致し方ないものと思われる。こうしたゴキブリの生活態度こそが、今日、多くの人々に毛嫌いされる由縁なのである。


さて、ここでちょっと視点を変えてみよう。
人類が誕生する遥か以前、3億年以上もの昔からゴキブリは地球に生息していた。生命の歴史という観点からみれば、実はゴキブリの方が人類よりもずっと先輩なのである。
ゴキブリたちは、かつて森林に住んでいた。穏やかな毎日だったかどうかは知らない。中には、琥珀に閉じ込められるものもいて、それが後の世にまで彼らの姿を伝えるよすがとなった。
やがて、サル型の哺乳類が繁栄し始めると、彼らの生活は一変した。人類は、森を切り開き、彼らの生活を圧迫し始めた。それでも多くの仲間たちは森に残った。だが、人類の数が増えてゆくにつれ、ゴキブリたちは次第にその棲家を失っていくことになった。
なす術もなく、多くの仲間が絶滅していった。これまでにも、様々な危機はあった。地殻変動や天候の不順といった環境の変化が、彼らの生活を脅かしてきた。だが、人類ほど、彼らの生活環境を破壊することに長けた種族はいなかった。
大昔からひっそりと生き延びてきたゴキブリたちは、しかしながら、実にしぶとい性質をもっていた。彼らの一部のものたちは、敵である人類の暮らしの中に、ついに生活の場を見つけることに成功したのである。
もとより、命がけの適応であった。なぜなら、人類の懐に飛び込んで生きることは、毎日が死と隣り合わせだったからだ。隠身の術は彼らの天性である。だが、万が一にも見つかってしまったら、まず命はないものと思わねばならない。ストレスに満ちた、過酷な日々である。
それでも、ゴキブリたちは生活の場を広げる必要があった。これは、種としての存亡をかけたサバイバルだったからである・・・


先述した通り、物事はすべからく見方一つである。
とはいえ、私の家においても、ゴキブリが出現したとなれば、その黒く薄べったい姿に、3億年の悠久の時の流れを重ね合わせて感慨にふける・・・などというわけにいかぬのは論を待たない。
家人はアンチ・ゴキブリ派である。特に妻はその急先鋒である。だが、家人は誰一人として手を汚すことを潔しとしない。それどころが、ご他聞に漏れず、悲鳴をあげて逃げ惑うくちである。畢竟、私の出番となる。


以前はスリッパで叩いたり、掃除機で吸い取ることにしていた。しかし、スリッパは角度を一つ間違えると、するりと逃がしてしまうことになる。掃除機に至っては、よしんばうまく吸い取れたとしても、この程度の吸引力では殺すまでには至らず、必ずといってよいほど脱走されてしまう。
一番、確実な方法は、手で直接、握り潰すことである。人間の手というものほど、素早く的確に動くものはない。ここ数年、私はもっぱらこの方式を採用している。


これはなんとも嫌なものである。
ゴキブリといえども、生き物なのだ。嫌われようが、なんと言われようが、生きているのだ。蚊やアリならば、叩き潰してもなんとも感じないのだが、ゴキブリ程度の大きさの虫となると、殺すということに対する抵抗感は思った以上に大きいものがある。
胸が痛むのである。
手の中で、死んでいくときの足の痙攣を感じるたびに、私は、なんて残酷なことをやってしまったんだろうと、深い罪悪感を覚えてしまうのだ。
心の中で、命を奪ってしまったことを、幾重にも詫びているのである。
泣きたい気持ちになるのである。


なかなか死にそうに無い、タフなイメージとは裏腹に、ゴキブリは案外もろい体をしている。ソフトインセクトの仲間なのだ。指先のほんの少しの圧力で、簡単に潰れてしまうほど、華奢なのである。ちょっとひっぱっただけでも、簡単に足がもげてしまう。
できれば殺さずに、庭にでも放してやりたい。でも、生かしたまま捕まえようとする方が、かえって大変なのである。ゴキブリも必死に逃げ惑うから、こちらも素早く動かねばならない。このため、捕獲時の力加減が大変に難しく、五体満足のまま確保するのは、意外と困難なのである。


3億年もの昔から地球に棲息してきたゴキブリたち。
彼らは生き延びる方策として、やっとの思いで、人類の住居に適応してきた。だが、それがために、かえって人類から目の敵にされ、罠をしかけられ、毒殺されたり、叩き殺されたり、薬殺されたりと、実に散々な目に遭うことになってしまった。
そこに存在しているというだけで、忌避され続けてきた彼らの孤独は、いかばかりであろうか・・・


姿を見れば、狩らねばならなくなる。
家人のために、その命を奪わねばならなくなる。
だから、どうかお願いだ。
出てこないでくれ。
たとえ寂しくても。
どんなに悲しくても。
私は祈る。
孤独のうちに、彼らの一生が終わらんことを。

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