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コラム |
<<< 匠の技 >>> |
どのような職種であれ、その分野に通暁したプロフェッショナルたるもの、必ずやそれに伴う「技」に関して、卓抜なる一家言を有している。
私はそういう、いわば「匠の技」ともいうべき話を聞くことが大好きだ。
大概の場合、それは単なる小手先の技の話に留まらず、その人が歩んできた人生の深みまでをも感得させる内容になることが多く、実に興趣がつきない。
一口に職人といっても、ここでのそれは様々なものを意味している。
植木職人、電気工、そば屋、大工、陶芸家・・・
そういえば、私自身、虫屋という、ちょっと変わった分野の職人でもある。
こうした人々から得られる話は、その後、自分にフィードバックが効く場合が多く、人生をより深みのあるものにしてくれる。
例えば、タクシードライバーからは高速道路の運転技術を教えてもらった。
これはサラリーマン時代、帰宅が深夜になると、毎度、タクシーを使って帰ってきたのだが、その際に実地に見聞させてもらった事柄である。
ブレーキを使わずに走行する技術、カーブの手前では何キロで進入するか等、さすがは運転のプロである。その教えるところはいちいち理に適い、自然の法に従って間違えるところがない。
おかげで、これ以降、狭く、見通しの悪いカーブが連続する首都高を何の不安もなく快適に通行することができるようになった。
この他、学校の先生、犬のブリーダー、システムのSEなど、いろいろな分野の方から、その得意とする方面の話を聞いてきた。
いずれの技も生活や仕事の面で実際に役立ち、私を支える杖ともなってくれている。まことに貴重な教えなのである。
こうしてみると、街にはいろいろな師で溢れている。
職業の数だけ、マスターがいるといっていい。
それぞれがその道のプロであり、その技能でもってサービスを提供し、生計を立てているのだ。
一生かかっても、その技の全てを盗めることはないのであろうが、せめてこれからも、一人でも多くの名人から話を聞きたいものである。
ところで、今般、散髪に行った際に聞いたことがあり、それを書いておきたい。
私には以前から懇意にしていた、腕の良い美容師がいたのだが、突然、辞めてしまい、以来、近在の美容院に鞍替えし、いくつか試してみたのだが、どこに行っても気に入らず、大変気の重い状況だった。
そこで、以前から気になっていた、自転車で10分以上もかかる、少々、遠いところの美容院にまで、わざわざ足をのばしてみた。
幸いなことに、これが大当たり。
そこの男性の美容師はなかなかの腕前で、実にたくみにカットしてくれるのだ。ようやくにして納得のゆく美容師に出会えたという次第なのである。
散髪なんて、どこも大して変わりないだろうというのは、主に床屋の場合をさすものと思われる。
床屋は、大概、画一的なカットを志す。
私も床屋に通っていたころは、正直言ってあまり髪型なんて気にも留めなかった。なぜなら、どの床屋であっても、いつも版で押したように殆ど同じような髪型に整えてくれたからだ。
また、それが床屋の良いところでもあり、堅い職業の方には、床屋で毎度、同じ調子に髪を整えてもらうことにその意義がある。
しかるに美容院となると、これはもう、まるで違ってくるのだ。
個性爆発とでもいおうか。
切る人の感性で、いかようにもなる。
そういうところが気に入って、以来、散髪といえば美容院。
それも腕の良い一人の美容師に頼って切ってもらっていたのであった。
今回、いろいろな美容師に遭遇して、つくづく、この世界にも上手い下手はあるものだと感じ入った。
下手なのにあたると、こういっては甚だ失礼なのであろうが、全くの素人である私よりもずっと腕が悪いように思う。
何をえらそうにと思われるであろうが、しかし、こちとら、かれこれもう10年は子供の髪を切ってきており、最近では妻の髪も切るようになっている。いささか腕に覚えはあるものと思って頂きたい。
ましてこの10年、漫然と切ってきたわけじゃ決してない。
本でも勉強し、また、自分が切りに行く際には、美容師のはさみの入れ方を逐次、しっかり見て、自前の技になるよう取り入れてきた、いわば修行の年月でもあったのだ。伊達に子供の頭を実験に使ってきたわけじゃない。
だからこそ、美容師の腕の良し悪しなぞは、これはもう一目瞭然なのである。
しかし、そうはいっても、腐っても鯛なのだ。
カットそのものの技術はそれなりにあるわけで、では、一体全体、上手と下手の間には、何がそんなに違うというのか。
これについては、自分の頭を犠牲にして様々な美容師の手技をみてきた結果、どうもこうではないのかと感ずるところがあった。
そこで、このことを新たに知り合った、かの美容師に尋ねたところ、まさにそのとおりで、これこそがカットする際の実に大事な要諦である。よくぞそれが分かりますね、なぞと、しっかりおだてられてしまった。
さて、この美容師の仕事の肝心要な要諦とは一体何と思われるか?
それは、「最終形をイメージしてカットする。」という、ただそのことだったのである。
言葉にすると実に簡単な所作と思われるであろう。
実際、いろいろな名人の言葉に含まれるものは、すっと耳を通り過ぎてしまうようなことが割合に多い。
一聴、驚嘆すといった趣のものとは大きく隔するのだが、実は、その単純な中に真実がこもっている。
これなど、その典型なのではないだろうか。
この平明な摂理がいかに実現されていないかは、先に書いた通り、私自身が遭遇した不幸な散髪遍歴がそれを十分に物語っている。
さらにかの美容師が興奮した口ぶりで付け加えた言葉がある。
声を潜めて私に伝えたそれは、
「もっともまずいのは『できちゃったカット』なんです。」
ということであった。
なるほど、美容師の世界にもこのようなものがあるのだと、今回、つくづく心に沁み入った。
物事の上手い・下手は、確かにもって生まれたセンスというものもあろう。
だが、このようにその裏側においては、ちょっとした「気づき」の差異が後々の結果に大きく響いてくる場合が往々にしてあるということなのだ。
これは何も美容師だけの話ではない。
カブトのブリードでも、やはりこういったことの積み重ねがものをいう。
いずれも言葉にすればいかにも単純明快なことなのだが、それに気がついて実践しているか否か、ことはその一点にかかっている。
私がこの方を腕の良い美容師と認めたのは、出来上がりは勿論だが、こうした「匠の技」をしっかりと持っているからなのである。
或いは、先に私の髪を「できちゃったカット」した美容師たちも、本当はこのような技法なぞ、とっくに知っていたのかもしれない。
だが、言葉で知っていることと、それを自家薬籠中のものとして体現すること、すなわち「識(し)っている」ということの間には、大きな隔たりがある。
以後、私は、髪を切りに行くときには、必ずこの散髪の要諦を識っている美容師を指名することに決めている。
市井には、名人があふれている。
私は生涯、匠の言葉を集めてゆきたいと思う。
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