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コラム |
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私は横浜生まれである。
しかし、その後、関東各地を転々とし、今に至るまでに8回も引越しをしている。おかげで一緒に育った友垣というものが近くには全くおらず、成人式も、それがゆえに行かなかったくらいだ。
あちこちで、久し振りに再会した友人同士が肩を叩き合って、互いの無事を喜び合う。そんな中、独りだけポツンと取り残されている自分と向き合うのは、居たたまれぬ寂しさを感じるからだ。
今までの人生で、一番長く住み、最も多感な少年時代を送ったのは、千葉県だった。 これはその千葉県在住時代に体験したお話である。
今から30年近くも前のことだ。
小学2年の夏休み。
私の家族は千葉県市原市に居を移した。
ようやく慣れた学校や級友たちと別れ、見知らぬ土地に迷い込んだ私は、引越し当初から近在の少年たちと衝突してしまった。
それまでの私は、東京の足立区に住んでいた。
当時、まだ田んぼがあちらこちらに残っていたとはいえ、殆ど自然といえるようなものはなく、工場から立ち昇る煙、環七を走る車の排気ガス、墨汁より黒い綾瀬川の臭気といったものに囲まれて、私は育った。
引越し先の市原で初めて見た空は、本当に青くて高かった。
空気がピリリと、胸に痛いような感じさえした。
なにしろ、そこは小さな山の斜面を削って作られた村落のような住宅地で、谷を隔てた真向かいは、広葉樹のおい茂った山並みが続いていたのである。
季節になると、猟師が鉄砲を持って入ってきた。
ドーン、と音がすると、向かいの山から雉がバタバタとこちらの方に飛んで逃げてくる。
カエル、ヘビ、カブトムシ、ホタル、リス。
滅多に見ないけれど、野生のウサギさえいた。
なにより多かったのは微細な蜂だった。
秋には、あけびや柿がたわわに実り、ホタルブクロが風に揺れる。
モズが高く鳴き、冬枯れの季節には、葉を落とした山の木々が、黒々とした枝を天に向かって屹立させる。
幼い頃、私が育った土地は、そんな草深い田舎だったのだ。
「東京から越して来た人間」
すぐにその匂いは消え失せ、私は地元の子供たちと溶け合っていった。
だが、初めて顔を合わせたとき、恐らくは、私の言動の一つ一つに、自分たちとは違う何かを感じとったのだろう。
彼らは、私を囲み、暴力で歓迎しようとしたのだ。
そんな中、一人の小さな少年だけが、最初から私の味方をしてくれた。
本当に無鉄砲で、やんちゃな奴だった。
だが、今までの都会生活では、会ったこともない、キラキラした目をもつ男の子だった。
彼のとりなしで、その場はどうにか事なきを得た。
その後、子供同士の小さな諍いもすぐに終焉を迎えた。
喧嘩も早いが、打ち解けるのも早い。
それが子供の特権だ。
やがて、私たちは、何をするのも一緒という仲間同士の付き合いになっていった。
だが、中でも、一番といってよいほど、遊んだ友達は彼だった。
私が空手を習い始めれば、彼もすぐに入門してきた。
一緒に小学校に通い、休みの日には遠くに自転車で出かけ、向かいの山を探検し、炭焼き窯を秘密基地にした。
今となっては遠すぎる思い出だ。
一つ年下の彼は、或いは私を兄のように慕っていてくれたのかもしれない。
いや、あの行動力と義侠心溢れる性格からすると、それは私の驕りか。
彼の中にあるものは、荒削りで純粋な勇気、もしくは純然たる怒りの感情だったように思う。
後年、それは彼の周囲の人間と、そして彼自身をも焼き焦がす。
ある日、彼と二人、山倉にある巨大なダムに釣りに出かけた。
朝まだき時分に到着したため、辺りはまだ闇に閉ざされていた。
ところどころに点在する電灯の周りだけが、ぼんやりと薄明るく、それ以外は全て真っ暗だった。
とても寒くて、じっとしていることができないくらいに冷え込んでいた。
ダムは静かに眠っていた。
水は穏やかに黒ずんでいた。
だが、その水面には、白い蒸気がゆらゆらと幾本ものカーテンのように立ち上り、風にあおられ、ふわり、ふわりと、生きているかのように動き回り、音もなく岸に向かって吹き寄せられてくる。
それは、あたかも幽霊たちが舞い踊っているかのような、不気味で、とても神秘的な光景だった。
やがて燭光のような光が刺し染め、太陽が空を明るく輝かせると、ダムの水は透明さを増してゆき、いつの間にか、蒸気の亡霊たちは消え去った。
新しい一日の始まりだ。
寒さのせいばかりではなく、ぶるぶる震えていた私たちにとって、その日の朝の太陽は、心強い救世主のようだった。
朝になれば、恐れるものなど何も無い。
明るい光の下では、どんな化け物だって色を失い、逃げ出すもの。
私たちは早速、釣りの道具を出して、太公望を決め込んだ。
だが、その日に限って、何も釣れないのだ。
白状しよう。
私はとても釣りが下手だ。
ろくすっぽ釣れた試しがない。
多分、生まれて初めて釣った魚が、野生化した金魚だったからだろう。
他の者は皆、フナばかり釣っていた池だというのに。
しかし、彼は別だ。
どんなときでも、彼は何か、獲物を釣り上げる名人なのだ。
その彼さえも、その日は、眉間にしわを寄せる状況だった。
ピクリとも、浮きが動かないのだから、打つ手もない。
昼前くらいの時間だったろうか。
もう、いい加減、諦めようということになった。
疲れた顔を見合わせ、私たちは、ノロノロと釣り道具をしまいこんだ。
そのときだった。
太陽が雲間に隠れ、幾本もの光の矢が、にごった水に差し込む中、突然、それは現れた。
暗がりから、光の筋の中へ、そして、また、暗がりへと、鰭ひとつ動かさず消えていったそれは・・・
全身が真っ白な、1メートル以上もある巨大なウナギだったのである。
胴回りは大人の腕よりも太かったように思う。
病気のように体表がほの白く、尻尾に至るまでの全身の筋肉を、何一つ動かさないまま、それは闇から光、光から闇へと消えていったのだ。
あまりのことに呆然としていた私たちは、それが視界から消えるや否や、大慌てで、もう一回、釣り道具を引っ張り出したことは言うまでも無い。
だが、それを捕らえることはおろか、その後もクチボソ一匹、釣ることは叶わなかった。
あれは一体、なんだったのだろう。
ダムに住む生き物たちの主だったのか。
それとも、別の何かだったのだろうか。
二人の間で、その後、この出来事を口にしたことは一回も無い。
この世のものではない何か。
今だったらそうは思わないだろうが、当時はとても神聖なものを見てしまったように感じていたし、どうせ誰も信じてはくれないだろうという気もしていた。だから、このことを話題にすること自体、無意識のうちに避けてきたのだ。
いずれにせよ、この話を証明するすべは、今となっては何一つない。
その後、高校受験を迎える頃になると、私は勉強に打ち込むようになり、彼との付き合いも自然と遠くなっていった。
程なくして、また、引越しを行い、私は少年時代を過ごした地を離れ、以降、彼とは音信不通になってしまったのである。
あれは私が大学2年に進級した頃だったか。
交通事故で彼はこの世を去った。
スピードの出しすぎで電柱に激突したのだ。
通夜の日、数年ぶりに訪れた、小さい頃、彼と共に育ったあの土地は、当時と変わらない景色のままだった。
今でも、きっと、そのままだろう。
この世には見てはならないものがあるのかもしれない。
私は、祟りだの呪いだのといったものは信じていない。
だが、ひょっとすると、この世のものならざる何かを見てしまった者は、早世の定めを負ってしまうということがあるのやもしれぬ。
死者に名前は無い。
だから、この話に出てくる少年も、ずっと「彼」のままで終わることにする。
もしも、いつかまた彼と再会することができたら、聞いてみたいことがある。
君は私をかばい、とりなしてくれたのか?
初めて出会った、あのときのように。 |
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