お題No,07「交わる」


「寒くなったなー」
或る朝、クロユリが部屋のバルコニーに立って空を見上げていた。頬をつつむ空気は冷たく、吐く息はふんわりと白い。冬の到来である。
「雪は好きだけれど、寒いのは苦手だぁ」
寒さが増してきたこの時期、雪はまだ降らないが、いずれこの帝国の地にも花びらが散るような雪の舞が見られるようになる。どんなに寒いのが苦手でも、あの氷の結晶は嫌いじゃない。
そんなふうに物思いに耽りながら独り言を呟いていたクロユリは、
「ハルセは寒いの平気?」
後ろを振り向いて話し相手を探す。ハルセは少し離れたところに立っていたが、ゆっくりと近付き、屈んでクロユリの耳元にくちびるを寄せた。
「私は……そうですね、苦手ではありません。寒さは私が妨げますのでご安心下さい」
「寒いの平気ってすごいね。いいなー」
「さぁ、クロユリ様、そろそろお時間です」
就業の時間になるのを知らせて抱き上げると、
「きょ、今日は歩いていける! 僕、眠くないし!」
珍しく脚をジタバタさせて自分から降りようとした。
「どうしてです?」
起きている間は……否、寝ているときもハルセに抱き上げられているクロユリにとって、ハルセの腕の中は生活の場所である。ハルセもそうしていないと落ち着かないのか、命令されずとも抱き上げ、そうしているうちにいつの間にかクロユリは眠ってしまうのだった。
「えと……ちょっとね、太っちゃって」
「は?」
「チョコの食べすぎかなぁ」
「クロユリ様?」
「僕、重くなったでしょ?」
「……」
30キロ代のクロユリの体重が40キロになったとしてもハルセには大して変わりはなく、なんの影響もない。
「ハルセが疲れると思って」
「クロユリ様……私は別に重いと感じたことはありませんが」
実際は500グラム増えただけである。毎日クロユリを抱き上げているハルセは、わずかなその差にも気付いていたが苦になるほどではない。
「ほんと?」
少しだけクロユリが安心したような顔をすると、ハルセは微笑みながら冗談を言う。
「クロユリ様が私より大きくなれば分かりませんけれど」
「僕がハルセより大きくなる!? そんなの無理に決まってるでしょー!」
クロユリが真剣になって言い返したのは、想像も出来ないことで、万が一にも本当にそうなってしまったら笑えないと思ったからだ。
「分かりませんよ?」
ハルセが軽く煽ると、
「えーっ、僕に大きくなってほしいの? ほんとにそれでいい? そしたら今みたいに出来なくなるじゃん」
いじけているような口ぶりで責められ、
「いいえ。クロユリ様は今のままでも十分ですが、あなたの成長を見るのは幸せです」
ハルセは穏やかな声でまた破顔するのだった。
「そう……」
複雑な気分になってハルセの首に腕を回して抱きついた。さきほどまで降ろせと騒いでいたのが嘘のように、きゅっと口を噤み、腕の中でおとなしくなった。
「クロユリ様?」
「ちょっとこのままで」
「はい。ですが、どうかされましたか?」
「ううん」
「急に元気がなくなったような気がするのですが」
「そんなことないよ」
小さく呟いたクロユリの声がかすかに震えていた。
「参謀部までもう少しですからね。きっとコナツさんが一人で奮闘してると思います」
ハルセが参謀部の一日の始まりを予測して言うと、
「大丈夫。大佐がついてるって」
「そうですね。でも、カツラギ大佐は朝からアヤナミ様と会議に出席なさるようなことを仰ってました」
「マジで? じゃあコナツ大変だ」
「私もお手伝いしますから」
「うーん。僕も事務処理はあんまり好きじゃないんだよねー」
「いいですよ、その分私が引き受けます」
「ありがとう、ハルセ!」
「いいえ、クロユリ様のためならば」
「嬉しい。ハルセは僕の最高のベグライターだよ」
幼い顔が満面の笑みを見せる。この笑顔が見たくて尽くしているといっても過言ではない。クロユリのために働きたい。自分はそのために居るのだとハルセは新たな気持ちでクロユリを抱いたまま執務室に向かった。

結局、その日は何事もなく一日が過ぎた。ハプニングも一興だが、平和であることが一番だ。規模の大小に拘らず、争いごとは些細な切っ掛けがあれば手段問わず勃発する。国の平和を守るのが軍の仕事であるから、その安泰を維持するために彼らは常に努力をしているのだ。無事に過ごせることは至福の喜びでもある。

そうして翌日の朝、ハルセがいつものようにクロユリを迎えに行くと、おはようの挨拶もなく、
「うえーん! うわぁぁぁん」
子供のように泣きわめいていた。
「どうしました!?」
ハルセが慌てて覗き込むと、クロユリはベッドの中で本を手に持って涙をポロポロと零している。
「これ、この本、すっごく感動するんだよー!」
本の内容に感涙していたのだ。
「先日から読まれていた本ですね。読み終わったのですか?」
「うん。途中で泣きたくなったけど、我慢したの。でも、最後は悲しくて」
「分かります」
ハルセはクロユリが読むものは先に熟読し、内容を把握してからクロユリに手渡すようにしている。予めリサーチしてから情報をクロユリに流すのだ。そうすれば良くないものをクロユリに知られずに済む。余計な知識は不要とばかりにハルセの上分別は石橋を叩いて渡る勢いだが、たとえクロユリが俗世間の事情を知ってしまったとしても、当の本人は案外ケロリとしていてハルセの杞憂であることが多い。見た目が幼いために考えもそうだと思いがちで、子供扱いしたくなるものだが、実際クロユリは中々にしたたかなのだった。だからといって大人の目線で見ていると、舌足らずな言葉で甘えてくるから、ついつい抱き上げて御包みでくるんでしまいたくなる。まさにハルセの母性本能がかきたてられ、これでもかと甘やかしてしまう。
「このね、最後の主人公の言葉が切ないよね! でも、もう相手には届かないんでしょ? それを思うとほんとに悲しい」
「そうですね。ですが……」
今回クロユリが読んでいた本も、ハルセは中身を知っていたが、まさここれほど感銘を受けて本気で泣かれるとは思っておらず、紹介するのを失敗したかと後悔したが、そこまで慎重にならずともいいのではと己の中で葛藤していた。
しかしながら、
「クロユリ様、ベッドの中で本を読まれるのは構いませんが、寝転んだままというのは頂けません。目を悪くされます」
これだけは譲れないと思い、口に出して言うと、
「そんなの分かってるよ。だって、この方が読みやすいんだもん」
いつも寝転んだまま本を読まないように注意されている。これで何度目か「耳に蛸が出来た」と口を尖らせ、
「じゃあハルセが読んで聞かせてよ」
寝る前の本の読み聞かせをねだった。
「いいですよ」
ここでもハルセは拒否をしない。クロユリが望むのならどんなことでもやり遂げようとする強い意志がある。今すぐに300ページの本を朗読しろと言われたらその通りにするだろう。だが、
「でも、どうしよっかな」
クロユリは後になって迷い始めた。
「私ではご不満でしょうか」
うまく出来る自信はなかったが、尽力するつもりだ。
「違うよ。ハルセは声がいいから、きっと集中できなくなるもん」
「えっ」
そんなことを言われるとは予想しておらず、ハルセが目を丸くしていると、
「ハルセの声って深みがあって、僕は凄く好き。いつまででも聞いていたい。っていうか、いやらしい声してるよね」
「ええっ」
普段は取り乱すことのないハルセである。それなのにクロユリからいやらしいと言われて冷静ではいられなくなった。
「あ、あの、私のどの辺が……失礼な言葉は使った覚えはありませんが……」
「えー? あはは、そういうんじゃないんだけどー」
「私の発言でご気分を害されたことがあるならば申し訳ありません」
「だから違うってばー」
ハルセの落ち着いた口調と深みのある低音は、子供のような喋り方をするクロユリとは対照的で、何気ない言葉でも囁くように言われるといやらしく聞こえることもあった。もちろん、ハルセにはそんなつもりは毛頭なく、クロユリが勝手に思い込んでいただけだ。最近はベッドでおやすみなさいと言われるだけでもドキリとして、慌てて頭を振って邪念を追い払う始末だった。
それでもクロユリは、その言葉遣いや声音が好きなのだ。
「何か問題がありましたら直します」
「ハルセに問題なんかあるわけないでしょ。どっちかっていうと僕のほうかな」
そして、クロユリは自分が欲求不満だということに気付いてしまった。
「何か悩みごとが?」
「……ううん」
敢えてそう答えたが、
「困ったことがおありでしたら、ご相談下さい。私で役に立たなければ、他の話し易い方に相談されては如何でしょう」
そんな模範的な台詞に、
「僕の考えてることなんか大したことじゃないよ」
自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「クロユリ様」
ハルセが寂しそうに名前を呼んだが、そこから会話が続くことはなかった。

そして昼食の時間になり食堂へ行くと、コナツが先に席に着いて食事を摂っていた。
「あれー、ヒュウガは?」
クロユリが隣に座り、向かいにハルセが座る。
「少佐は外に出ています。アヤナミ様と一緒ですよ」
「あ、そう。じゃあ、大佐は? 朝に見たっきりだけど」
「ええ、大佐は用事があるようで、朝にアヤナミ様とスケジュールの確認をしたあと参謀部には顔を出してません」
「そっか。みんな忙しいんだなぁ」
「お二人はどちらへ?」
「僕とハルセは偵察に行って来たよー」
「偵察ですか?」
「第八ブロックまでね」
「あ、あそこは……」
中々に手ごわい囚人が収容されている場所だった。
「僕とハルセなら、ブロックごと破壊してやるのにな〜」
「お気持ちは分かります、中佐」
「でしょー? しかも、僕なんか巡回してたら『お嬢ちゃん』って呼ばれてムカついたから闇徒玉投げつけてやろうかと本気で思った」
「そうなんですか!?」
「ハルセが睨んだらおとなしくなったけど」
「ハルセさん、大きいから迫力ありますもんね」
「うん。ね、ハルセ!」
「はい」
ハルセは相変わらず物静かだ。
「ねぇ、ハルセ、お醤油足りないから貰ってきてくれる?」
クロユリが調味料の入った瓶を見つめてハルセに言うと、ハルセは「分かりました」とすぐに席を立って厨房へと向かった。
「クロユリ中佐? お醤油大量にどうされるんです?」
「お蕎麦にかけるの。今、手持ちの青空ソースがないからその代わり」
青空ソースとは、味覚のないクロユリが自分で開発した調味料である。
「塩分の摂り過ぎは躯によくないですよ?」
「やだな、実際はちょっとしか使わないよ。ハルセに席を外してもらっただけ」
「えっ、どうしてです?」
クロユリはわざとハルセに席を外させるためにそう仕向けたのであって、本当は調味料などどうでもよかったのだ。
「ねぇ、コナツ、相談があるんだ。あんまり大きな声では言えないことなんだけどさ」
二人きりになった途端、クロユリはコナツに顔を寄せて何かを言い出した。
「はい、なんでしょうか」
「好きな人を誘う方法ってどんなのが一番効き目あるかな」
「?」
突然のことにコナツは首をかしげてから、
「誘うって何処にですか?」
そう訊ねた。
「何処って、ベッドだよ」
「ベッド?」
クロユリが聞きたいことは完全に大人向けな内容であって、決してトレーニングに誘うなどという爽やかなものではなかった。
「うん。どうしたらその気にさせることが出来るかな」
「ベッドと言いますと眠るんですよね? 不眠症ですか? 睡眠導入剤とまではいかなくても、アルカロイドのハーブが入ったお茶なんかはいいと思うんですけど」
「コナツ……意味が違う」
「はい?」
「僕が言ってるのはエッチがしたいってことなの!」
「はぁ!?」
クロユリの真意を知ってコナツが仰天する。
「ベッドですることって言ったらコナツは眠ることしか思い浮かばないんだねー。子供だなぁ」
「!?」
「普通ベッドに誘うと言ったらエッチでしょ。コナツは自分から誘うことってないの?」
「はい?」
何を言われているのか分からなかった。
「まぁ、コナツの場合は誘わなくても無理矢理押し倒されそうだしね」
「!?」
「相手が女であれ、男であれ」
「あの?」
「僕も無理矢理押し倒されてみたいや」
「……」
「でも、こんなこと誰にも相談出来ないし」
「クロユリ中佐?」
「どうしたらいいのかなぁ」
コナツが答えられない状態になっていることから、クロユリが独り言を呟くようになってしまった。
が、しかし。
「それでしたら遠回しに言わないで『抱いて』と言うしかないのでは?」
「ぶっ」
コナツの発言にクロユリが噴き出した。
「直談判しかないですよ」
「……いきなりビックリしたじゃないか。意味分かってないのかと思ってたら分かってたんだ」
「はい、ようやく」
「でもねー、直接言えたら苦労はしないよ」
「言えないんですか?」
「言えないって。言っても断られそうだし」
「えーっ」
「なんで驚いてるの」
「私の場合は……断られたことは……」
「ないの?」
「はい」
「うっわ、マジ?」
コナツの場合、断っても無理強いを迫られるくらい相手が強引なのである。
「でも、中佐も誘えば断られないかと思います」
「それがねぇ、僕たちの場合は難しいんだよ」
クロユリが悲嘆に沈んでいると、
「そうですよね。クロユリ中佐とハルセさんは常に密着してて、ハルセさんはいつも中佐を抱き上げてますからね。接触なんて日常茶飯事に見えて、中佐の本音は忠実なハルセさんには伝わらないのでしょうね」
コナツが的を射た発言をすると、
「僕は相手がハルセだって一言も言ってないけど……」
「えっ、違う方でしたか!? アヤナミ様!?」
「ぶっ」
クロユリがまた噴き出す。
「怖いこと言うね」
「ですが、ハルセさんしか思い浮かばなくて。違う方でしたらすみません」
コナツが恐縮して謝ると、
「ううん、ハルセで間違いないからいいんだ」
クロユリは正直に告げた。
「そうですか。ハルセさんは我慢強い方ですからね」
「我慢強い?」
「きっと中佐に興味を持っていると思います。でも、中佐は……そうですね、手を出したら壊れてしまいそうだし」
「僕が? そうかなぁ? 心はめちゃくちゃに揺れて躯もぶっ壊れるくらいになりたいや。望むところなんだけどー」
「……激しいですね」
「またまたー。人ごとだと思って、コナツってば。コナツだって、そういう覚悟だったんじゃないの?」
「私はっ! そのっ、いや、えっ」
自分のことになると動揺するコナツは、こういった内容に関しては言いよどんでしまうのだった。クロユリもそれは分かっていたが、
「僕はコナツの意見も聞きたいな」
そう言うと、コナツは少し考えてから意を決したように呟いた。
「私は相手のすべてに関心がありました。だから、私自身が相手を知りたいと思う気持ちが強かった。それが伝わったのだと。もっとも相手がとても私のことを……」
「興味持ってたんでしょ? そんな感じ」
「はい……」
「でもコナツの言う通り、こっちもそういう気持ちでないといけないよね。自分のことばかりじゃなくて」
豁然と眼界がひらけたようにクロユリが笑った。
「というわけで、ちょっと頑張ってみようかな」
「中佐……」
「うん、大丈夫。長期戦でいくつもりだから」
「陰ながら応援してます」
「困ったときにはまたコナツに相談してヒュウガに慰めてもらうよ」
「えっ」
何故ここでヒュウガの名前が出るのか不思議だった。
「ヒュウガはあれで面倒見がいいんだよ?」
「そうなんですかっ」
コナツが驚いていると、
「うん。そうは見えないかもしれないけど」
「荒療治をするのではなく?」
「それもあるかもね。ヒュウガのやり方って変わってるから」
ヒュウガは口下手ではないから人をあやすことに長けている。
「最後にどうしようもなくなったらアヤナミ様に泣きつこう」
「ええっ、それは!」
「アヤナミ様も優しいし」
「……」
コナツはアヤナミに泣きついたり愚痴を言うことは出来ない立場だが、クロユリが時折アヤナミに甘えているのは知っている。アヤナミも冷徹非情には見えるが、実際部下には優しいのだ。
「そうですね、アヤナミ様に声を掛けて頂けたら立ち直れる気がします」
「でしょ? アヤナミ様効果絶大」
「はい」
クロユリとコナツが笑いあった。そうして違う話題に以降したところへハルセが帰ってきた。
「お待たせしました」
「ううん、ちょうどいい」
「少し時間がかかってしまいましたが……」
「でも、いいタイミングだよ」
「そうですか?」
ハルセには聞かれてはまずい内容のものを話し終えて戻ってくるあたり、遠くから様子を伺っていたのだろう。ハルセは寡黙で何も言わないが、本当はクロユリの思いや悩みを誰よりもよく知っているのかもしれなかった。

午後は昼寝の時間も取れないほど忙しかった。クロユリの力を必要とする他の部隊からの要請で外に借り出される羽目になり、予定外の体力を使ってへとへとに疲れたのをハルセがしっかりと抱いて帰還した。
「お疲れ様でした。もう夕食の時間ですが今日は何を召し上がりますか?」
うとうとしているクロユリに問うと、
「今日もカレーでいい。チョコ……」
「ございますよ」
「ご飯食べたらシャワー浴びる」
「分かりました」
クロユリは夕食後に早めのシャワーを浴びるのが習慣になっている。起きているときにそうしなければ、いつ眠ってしまうか分からないから時間の調整が必要で、それからまた仕事に出ることも少なくはない。この日も一旦シャワーを浴びてから仕事に向かった。というより、寝ているのをハルセが抱き上げて参謀部に顔を出している形になる。
その夜、仕事を終えクロユリの部屋に着いた二人は、いつものようにハルセがクロユリの眠りを確認するまでそばにつくのを、クロユリはいつまでも俯いたまま黙っていて眠ろうとしない。さきほどまで眠ったり眠そうにしていたのに、急に目が冴えたように溜め息をついたり爪を噛みながら考え込んだりと眠る気配がないのだ。
「どうされました?」
「……」
「今日は眠れそうにありませんか?」
「……ううん」
「私がついていますから、安心してお休みになって下さい」
「やっぱり眠れないかも」
「クロユリ様?」
我儘を言うつもりなどなかった。ハルセを困らせるつもりもない。けれど、もう少し話をしたかった。
「じゃあ、何かお話しましょう」
こういうときにクロユリの思いを汲み取って機転を利かせるのがハルセのいいところだ。しかしクロユリは自分から或る提案を持ちかけた。
「ねぇ、ハルセ。話をするなら僕からの質問に答えるってのはどう?」
「質問ですか?」
「僕がハルセに質問するから、それに答えてくれるだけでいいの」
「分かりました、どうぞ」
ハルセは困惑せずにクロユリの提案を受け入れた。
「ええと、ハルセは僕のどこが好き?」
「……」
無表情だったが、すぐに答えられずに僅かな動揺を見せていた。すると、
「突然凄いことを仰いますね」
ハルセが緩く笑った。
その表情は堅実なベグライターというよりも、大人の男が垣間見せる柔らかさで、ひどく色香のある笑みだった。クロユリはハッとしたが、
「そんなことないよ。第一、僕はいつもハルセのこと好きだって言ってるんだから、僕が聞くくらい何ともないでしょ? それとも答えられない?」
にっこりと笑って好戦的な態度を示す。この小悪魔のような笑顔に勝てるはずもなく、ハルセはクロユリの顔をじっと見つめたあと、わずかに目を細め、
「答えられないわけではありませんが、こんなときにそんなことを聞いてはなりません」
意味深長に返した。
「どうして?」
夜だから? ベッドの中でのことだから?
そう思いながらほんの少し空気が変わっていくのをクロユリが更に促す。しかし、
「私はクロユリ様のすべてが好きなので、それを事細かに答えていたら時間がかかってクロユリ様の眠りを妨げてしまいます」
「……」
見事にはぐらかされたと思った。ハルセは真面目な顔で一番重要な部分をさらりと言ってのけたのだ。
「それでも宜しければ申し上げたいところですが、ベグライターとしても私個人としても、クロユリ様のことを思うなら睡眠時間を優先させなければ何の意味もありません」
「……ハルセ」
「他にご質問は?」
「まだあるよ」
「では、続きをどうぞ」
中々余裕のあるやりとりではあるが、いつまで均衡を保っていられるか分からない。
「じゃあ、次の質問。僕が眠るとき、朝まで起きてそばに居てと言ったら、いつもそうしてくれるでしょ?」
「はい」
「それはどうして?」
「……寝顔が可愛いので」
「かっ、かわ……」
その単語は禁句である。ハルセでなければ蹴りの一つでも入れられていたかもしれない。
「次! この間の話だけど、僕が寝る前に本を読んでと言ったら読んでくれるって言ったよね?」
「はい」
「わざわざ読んでくれるのはなんで? 面倒だと思わないの?」
「いいえ。クロユリ様が私の声を好きだと仰ったので」
「……」
是非とも朗読してもらいたいものだが、やっぱり声に聞き惚れて内容なんか把握出来ないと思った。
「ハルセ、美声だもんなー。声の商売出来そうだよね」
「商売は無理ですが、クロユリ様が私の声を聞くのが好きだと仰って下されば私はいくらでも語ります」
「えー?」
「ですが、今は駄目ですよ? 睡眠が優先です」
ハルセの行動にはすべて意味があり、そして順序もある。常識や秩序があって、それを乱すことはない。
「分かった。ハルセは真面目だからなー」
「ええ」
「じゃあ、これで質問は最後にする」
「はい」
二人は同時に、これでもう終わりかと心の中で思ってしまった。ほんとうはずっと語り合っていたいのに、時間がそれを許さない。
「ハルセは毎晩僕におやすみなさいのキスをしてくれるよね」
「……そうです」
「僕がとっくに眠っていても必ずキスをするけど」
「……」
「絶対に、いつ、どんなときでも忘れないでしてくれる」
「その通りです」
「どうして?」
「……」
「なんで黙るのさ」
「クロユリ様が起きていらっしゃる時はご挨拶として致しますが……眠っていてもされたことを覚えているというのは……」
「あー、僕、寝てるように見えても、ときどき目を覚ましてることもあるんだよ。ちゃんと覚醒してないから起きてても目を閉じてるだけなんだけど。だから、ハルセの行動が分かっちゃう。必ずほっぺとかまぶたにキスしてくれるよねって思って」
「気付いていらっしゃったのですか」
「うん。でも、うとうとしてるからすぐ寝ちゃう」
「そうでしょうね」
「だから、とっくに寝ててもわざわざキスしてくれる理由は?」
なんとしても聞き出そうとするクロユリは、次第に恥ずかしさを覚えて爪を噛み出した。
「私がクロユリ様にキスをするのは……そうですね、お顔が小さいからでしょうか」
「何、それ。意味分かんない」
「私もよく分かりませんねぇ」
ハルセが笑っていた。
おやすみなさいのキスは、感謝の気持ちと愛情表現である。愛しくて愛しくて、起こしてしまうかもしれないと思っていても触れたくて、また明日、笑顔が見れるように願いを込めてキスをする。
「ハルセってばヘンなの!」
「すみません、まともにお応え出来なくて」
「……いいけどさぁ、どうせこんなことだろうと思ったし」
「さぁ、もうお休み下さい」
「分かったよ、寝ればいいんでしょー」
クロユリがむくれていると、
「これでも真面目に答えたつもりなんですが……」
ハルセが苦笑いを漏らした。
「いいよ、収穫はあったから」
「そうですか? よかったです」
そんなやりとりをしながら、最後の儀式が行われようとしていた。
「すっかり遅くなってしまいましたね。眠れそうですか?」
「たぶん……あ、痛い」
ハルセはクロユリの編み込まれた髪をゆっくりとほどいていった。
「すみません、指に引っかかってしまいました」
これは毎夜行われる眠る前の儀式だった。
ハルセの大きな手と長い指がクロユリの髪に絡んではするりと解かれて、それが何度か繰り返され、柔らかな髪を下ろしたクロユリは少女のような面立ちになってハルセを見上げた。
「女の子みたいだって言うなよ?」
こんな時にまで意地を張るクロユリだったが、
「ええ、言いません」
ハルセはにっこりと笑って大人の対応をした。
髪をほどく行為も、最初の頃は自分でしようとしたのをハルセが手を添え、驚いているクロユリに構わず指を絡ませてときはなしていった。
今まで何度も当たり前のように繰り返されている行為なのに、今更になってクロユリはハルセを困らせるかのように訊ねた。
「やっぱりこれが最後の質問!」
「まだあるのですか? 仕方ありませんね」
ハルセは柔らかな笑みをたたえたが、たとえクロユリが因循姑息な手を使おうとも、ずるいとは思えず、可愛いと感じてしまう。それは欲目ではなく、やはりクロユリは愛される要素を持っているのだった。
「ねぇ、ハルセ。髪を触ることがどういうことか分かってる?」
わざとこんな時にこういう質問を持ってくるあたり、勝負師のような賭けをするクロユリだったが、本当は震えるくらい怖かった。またうまくごかされるか、それともこのままなしくずしに夜の闇に二つの躯を溶かしてしまうか、どうなってもいいと覚悟した。自暴自棄ではなく、本音と願望が入り混じっている。
それに対してハルセの答えは、
「クロユリ様の髪が綺麗なので」
だった。
当たり前のように最高の褒め言葉を贈り、ハルセは空気を少しも乱すことはなかった。
「綺麗? 僕の髪が?」
「ええ、とても」
「そうかな」
クロユリはまだ少しだけ震える躯に安堵の色を表しながら、幼い顔ではにかんでみせた。
「では、お喋りはここまでにしましょう」
その一言で二人の一日が終わる。そしておやすみなさいのキスをして、すべての行為は滞りなく行われようとしていた。
「明日お迎えにあがります」
「おやすみ、ハルセ」
今、これ以上求めるのは酷だと思った。
期待を裏切られそうだからというのではない。クロユリ自身、何もかも投げうつ覚悟は出来ていても、もう少しだけこの関係が変わるのを先延ばしにしたいと思ったのだ。つまり、楽しみはあとにとっておくという心理である。
けれど、このまま平穏に過ごすのも癪に障る。
「続きは明日ね」
明日こそはもう少し大胆な質問をしてみよう。コナツがヒントをくれた通り一歩踏み込んだものにしていけば、最後に何処に辿り着くのか胸がドキドキするほど頼もしくなる。

詩趣の夜、心が少しずつ揺れ、もどかしい痛みを含んで変わっていく。

試すように交わる言葉と愛しい気持ちがあれば、あとは見つめあって手を重ねて、とっくに堕ちていた恋にもう一度目覚めるのだ。

「おやすみなさいませ、クロユリ様」
閉じた左目のまぶたにキスをして、ハルセの指が名残惜しそうにクロユリの長い髪から離れていった。


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