お題No.03「火照る」


ラブラドールが一言も喋らなくなってしまった。
教会は閉門時間を迎え、夕食を終えてから就寝前の仕事を片付けなければならず、カストルとラブラドールは揃って図書館に居た。予想外に時間がかかり、就寝時間を過ぎてしまったが、二人で仕事をしている間は会話もしたし、ラブラドールは少しだけ予言もした。他にも世間話というほどではないが、今日あったことの中で気掛かりな問題を案じていたのに、仕事が終わってからは一転して何も言わなくなってしまった。
「ようやく終わりましたね。もっとかかると思いましたが早く終わってよかったです」
カストルが一仕事を終えた達成感に満足しても、ラブラドールは不満そうだった。
心配になったカストルは、
「一体どうしたんです」
顔を覗き込んだが、フイと視線をそむけてしまった。機嫌を損ねているのかと思われたが、瞳が潤んでいて泣きそうな表情をしている。
「私が何かしましたか? だとしたら、すみません、記憶になくて」
カストルが自ら謝ると、ラブラドールは慌てて首を振った。
「違うのならいいのですが。でも、どうして黙っているのです」
「……」
「まさか喉が痛いとかじゃないですよね。体調が悪かったのですか?」
ラブラドールはまた首を振る。
「突然失語症になってしまったのでしょうか。もしそうなら大変です」
ひどく心配そうにしているカストルを見て、ラブラドールはクスリと笑った。
「今、笑いましたね!? 私が何かおかしなことを言いましたか?」
そしてラブラドールはフゥとため息をつくと、
「なんでもない!」
急に声を張り上げたのだった。
「喋った! 喋れるんじゃないですか」
カストルが安心すると、
「だって、君が凄く心配するから」
観念したように呟く。
「当たり前です! 突然おかしな行動をとるのはやめて下さい」
「ごめん……」
「いえ、ラブのことだから何か理由があるとは思うのですが、ふざけているだけだったらとても困ります」
「うん」
「私がどれだけ心配したか」
「迷惑かけるつもりじゃなかったんだけど、黙ってるほうが仇になってしまったね」
ラブラドールが俯く。
「言って下さればいいのに、黙り込むからです」
「じゃあ、言ってもいい?」
「えっ」
ラブラドールの発する言葉の重みがどれだけのものか分かっているカストルは、こうやって宣言されると思わず構えてしまうのだ。そしてラブラドールは怖い顔で口を開くと、
「君は仕事を片付けるのが早すぎるよ」
カストルを叱りつけるように訴えたのだった。
「!?」
「さっさと終わらせようとしたでしょ」
「ラブ!?」
仕事を早くこなして、どうして怒られなければならないのか仰天しながら、
「仕事というのはそういうものでは?」
カストルも一応反論する。
「時と場合によるよ」
「はぁ」
「罰として、今夜は僕の部屋に来て」
「……」
「どういう意味か分かる?」
「……分かります。誘っているのですよね?」
「その通り」
「そうですか。でも納得がいきませんよ。仕事して怒られてしまうなんて」
「……怒ったつもりはないんだ。そう捉えられても仕方がないけど」
「じゃあ、どうしてです」
「それは後で分かるよ」
「ラブ……」
「単に僕の我儘なんだけど」
ラブラドールが舌を出すと、カストルが困った顔で、
「明日は大きなミサがありますよ」
そう言ってみた。
「だからだよ」
「……」
最後のほうは普通なら理解できない会話であろうが、二人の間では暗黙の了解のようなものだ。
カストルは自室へは向かわず、ラブラドールと一緒に部屋に向かった。途中、ラブラドールは、
「ごめんね、巻き添え喰らわせて」
悲しそうな顔で言ったが、
「なんのですか?」
「なんでもない」
「まったく仕方ありませんね」
カストルは追求しなかった。何か理由があるようだったが、真意はまだ分からない。

そして部屋に辿り着くと、当たり前のようにその「行為」がなされ、数十分、否、数時間に渡って睦言にまじる吐息と軋むベッドの音が宵の時を艶やかに染めていくのだった。ラブラドールは何度もカストルに貫かれ、最後には美しい涙を零した。

終わってからもまた無言になったラブラドールは、着替えを済ませたカストルを恨めしい目で見上げた。
「なんて顔をしてるんです」
「……」
「明日……と言っても、もう今日ですが、大変な仕事が待ってます。これ以上無理は出来ない」
カストルはラブラドールを気遣っているつもりでも、
「僕は大丈夫だもの」
その一点張りで、素直になる様子はなかった。
「でも、今はもう休んで下さい」
「……」
「正直に言うと、あなたは心ここにあらずという感じで、私に抱かれている間も違うことを考えていましたね?」
「!」
「私に飽きてしまいましたか?」
「カストル!」
「私の気持ちは変わらないですが、あなたに嫌われてしまったらさすがに落ち込みますね」
「だから!」
ラブラドールはカストルの言葉を遮るように大きな声を出した。
「ラブ……そんな大声出して。あなたらしくありません」
「僕らしくない? 僕はいつもおとなしくて素直でいればいい? 君を好きになってどうしようもなくなっているのは変?」
「何を……」
「僕は君となら、朝まで仕事してたって構わないと思ってるのに、君はさっさと仕事片付けちゃうし、誘うのも一苦労。ようやくベッドで一つになれても、終わればとっとと帰ろうとするし」
「ラ、ラブラドール?」
溜まっていた感情を一気にぶちまけても、まだ収まらない。
「最中に僕が何を考えていたかって、終わったら君が帰っちゃうのが嫌だってことなんだよ」
「本気ですか」
「分かってる。君には大事なものがたくさんあるからね。部屋に帰ったらやらなければならないことが山積みでしょう」
「……」
「君は優秀だし、個別に頼まれている仕事もあるだろうから、ほんとは僕に構っている暇はないよね」
「……ラブ……」
「こんなこと言われても君は困るだろうけど」
「ええ。困ります」
即答だった。
「!」
大きく目を開いて驚くラブラドールにカストルは肩を竦め、
「とても困ります。だってそれ以上に私はあなたが好きですからね。あなたが私のことで気に病んでいるとしたら、私は自分が許せない」
厳しい顔で呟いた。
「カストル……」
「あなたが言う、部屋に帰ったらやらねばならないことというのは人形作りを指してますね? 確かに私は人形作りには熱心ですが、もしかして人形にまで嫉妬してますか?」
「そ、それは……」
肯定したくても出来ない。してしまったら負けだと思うが、もう知られてしまっているのだ。
「教区長の仕事だって、それほど大変ではないですよ。大司教補佐にでもなれば別ですが。だから私はあの仕事を断ったというのに」
「えっ」
「人形作りは口実に決まっているじゃないですか。私にももう少し自由になれる時間が欲しいですからね。もっとも、自由な時間というのも口実で、すべてはあなたに関することですが」
「カ、カストル……」
「私のことなど、お見通しだと思ってました」
「僕は……」
「ただ、私たちはすれ違っていたようですね。一緒に居られるなら朝まで仕事をしてもいいと思っているあなたと、仕事を早めに片付けて違うあなたの顔を見たいという私の邪な思い、そして、私を帰したくないというあなたの思いと、疲労させてしまったあなたの躯を気遣って休ませたいという思い。どちらも、互いを慮ってのことです」
「……」
「それなのに、お互い違うことを考えているという結論になってしまった」
「……ごめんね」
ラブラドールが力なく呟く。
「いいえ。私の愛情表現が足りないのでしょうか」
「そんなことはないよ。まぁ、君はクールだけど」
「私は自分でそう思ったことはないですが」
「僕のほうが取り乱しちゃったみたい」
普段はこういう性格ではないのだが、それだけカストルが特別ということだろう。
「可愛かったですけどね」
「可愛くなんかないよっ」
頬を膨らませるのも似合うのだ。少女のような顔立ちが抜けず、童顔で、それこそシスターに変装しても疑われないだろうと思われる。カストルの好みの顔だと言えば、まったくその通りであった。
「で。あなたは他に何か言いたいことがあるのでしょう」
カストルに言われ、ラブラドールは苦笑した。
「なんだか君のほうが預言者みたいだ」
「残念ながら私にその能力はありませんが、ラブに関してならばなれるかも?」
「僕限定?」
「そうですね」
「嬉しいよ」
悲しい顔が苦笑いへ、そして笑顔に変わってゆく。
「言いたいことがあるなら、今のうちですよ」
「……ううん」
ラブラドールが微笑んだ。
「どうしてです?」
「まだ、いい」
「それは残念ですね。何が聞けるか楽しみにしていたのに」
「また今度でいいや」
「そうですか」
カストルは執拗に問うことはしない。それが彼の性格でもあるのだが、ラブラドールが考えていることを予想するのも手段だと思っているからだ。
まして、ラブラドールが有り得ないことを考えているとは想像もつかないが、いつか予想外の答えを聞くのも楽しみにしている。
「では、私は戻ります」
「うん。また朝にね。って、もうじきだけど」
「仮眠が出来る程度でしょうか」
「ふふ。眠くなったら特製のお茶を出してあげるよ。目が覚める効果があるやつ」
「ぜひ」
カストルはラブラドールの手をとると、甲と指先にキスをする。これは別れ際に必ずする行為である。
「ひとまず、しばしの眠りを、ラブラドール」
「カストル……」
「って、なんです、これは」
キスをし終えたカストルの袖を、ラブラドールは強い力で掴んだのだった。
「何でもないよ?」
「何でもないという態度では……」
「気にしないで?」
袖を掴んだまま離さないラブラドールはにっこりと笑う。
「言っていることとしていることが矛盾しています」
「そうだね?」
「困った人だ」
「ごめん」
抱きしめようか、いや、ここで抱きしめたらお仕舞いだ。頭の中で警告音が鳴るのを、カストルはなけなしの理性で欲情を抑えた。
「もう行って」
ラブラドールが言う。
「ええ。では、おやすみなさい」
カストルが歩き出すと、ラブラドールはようやく袖を離した。指先が、別れを惜しんで震えていた。
「ラブ」
部屋を出て行く前に、カストルはラブラドールを見つめて、さきほどまで掴んでいた袖にキスをしてみせる。
「大好きですよ」
そう呟いて。
「カストルのばかっ」
カストルは、涼しい顔でラブラドールの叫びを受け止めた。

やがて一人になった部屋で、ラブラドールは独り言を呟く。
「すぐにまた会えるのに、ちょっと離れるだけでこんなになるなんて」
まるで恋に恋して愛を焦がれている少女のようだと思った。
「でもね、こんなことを言っても君は信じないだろうな。君を想うと躯が火照るなんて」
死神である躯。
もう、人ではない、死んでしまった器。
それなのに。

だから言わなかった。言えなかった。言っても信じてもらえぬだろうし、言って笑われるより隠しておいたほうがいい。火照り、疼く躯をどうすることも出来なくて八つ当たりしたなんて、巻き添えを食らったと哀れんで謝ることは出来ても、本当のことは言えないのだ。
そばに居てほしいのに、離れるからこそ逢瀬が楽しくなる。ひとときを共有するから、永遠が欲しくなる。恋愛の条件を知らない子供でもないのに、求める気持ちばかりが強くなって戸惑う。
だがカストルのこと。ラブラドールの言葉をいつだって真摯に受け止め、大きな心で包み込む。躯が火照ると言われても、きっとこう言うに違いないのだ。

「愛の力は偉大です」

と。


fins