休日の過ごし方 C


 そうして一週間が過ぎ、二週が過ぎ、数週間、一ヶ月、そして、とうとう二ヶ月が経とうとしていた或る日、
「駄目、オレ、もう限界。せめてサボらせて」
 ヒュウガが瀕死の状態になっていた。いくら我が部下のためとはいえ、今まで生きてきてこんなに真面目になったのは初めてだったし、本来、そういう性格ではないから自分が自分でないようで落ち着かない。
「うん。コナツに色目さえ使わなければいいんだから」
 参謀部への出勤途中の廊下でブツクサと文句を言っているヒュウガは、そろそろ本性に戻って有意義な逃避行を目指そうと計画の変更を企て始めた。
「最初はサボり半分、仕事半分な感じでいいかな。もちろん、コナツには余計なことは吹き込まないようにするとして、あ、そろそろ別な球技大会してもいいか。ここの所バラバラに打ちっぱなししてるだけだったし。今度は何がいいだろう……」
 そこへ、
「ヒュウガ少佐、おはようございます!」
 後ろからコナツがやってきた。
「ん? 今から出勤?」
「いいえ、私はお使いから帰ってきた所です」
「お使い?」
 コナツは少し息を切らしており、急用をこなしてきたのだと思ったが、
「はい、カツラギさんから頼まれて、人事総局に行って来たんです」
「は?」
「え、ですから、総局に……」
「一人で?」
「? そうですが」
「ふーん、朝からご苦労様」
 ここでまたヒュウガは内心で焦っていた。あまり他の部署に顔を出させたくないのに、一人で行って誰かに襲われなかったかと詰問したかったし、襲われかけて走って逃げてきたから息を切らしているのではないかと疑った。だが、まだこういった質問をNGにしているから絶対に聞けないし、ヒュウガに手を出されていないコナツは色に耽ることもなく日々快適に過ごしているようで、要らぬ心配だと杞憂するも、
「……」
 チラチラと横目で見て、首筋にキスマークなどは付いていないかと確認してしまうのだった。しかし、軍服の襟をきっちり締めているその姿からは、怪しい様子など一切感じられない。
(いい傾向だ)
 ヒュウガは胸を撫で下ろした。
 その日の仕事も、コナツはてきぱきと要領よくこなし、
「少佐、申請書類を置いておきます。期日が迫っているものは右側で、来週でもいいものは左に置いていますので、右側のは急いで下さい」
「分かった。って、何、この量は」
「沢山あるんです。先週からのものではないでしょうか。いつもぎりぎりになって提出しますからね」
「……こんなに沢山」
「大方目を通しましたが、ほとんど問題ないので、よろしければ判だけ押しても構いません。問題があるものは再審査という形をとるようにしています」
「そっか。なら、ラクだ」
 ヒュウガはコナツの手際のよさに感動しながら、思い切り褒めようとしたが、おかしなことを口走ってはまずいと思い、そのまま書類に判を押していった。
「全部終わりましたら私の机の上に置いて下さいね」
「了解」
 と、順調な滑り出しを見せた所でコナツが先に口火を切った。
「そうだ、少佐、そろそろまた勝負して頂けませんか?」
「おっ!?」
 ちょうどヒュウガも同じことを思っていた所で、やはり気が合うと思いながらも身を乗り出して耳を傾ける。
「ちょっと間が空いてしまいましたが、少佐なら大丈夫かと思うので」
「いいよ! こっちはいつでもOK。で、今度は何をするの?」
「それなんですが、何にしようかと考えている所なんです。でも、少佐は何でもお強いので突然提案しても構いませんか?」
「えー? その日に何しようとかいきなり言うわけ?」
「そうです」
「別にいいけど」
「良かった。じゃあ、考えておきます」
「いつになる?」
「そうですね、いつにしましょう」
「オレはいつでもいい。コナツが決めて」
「分かりました。ありがとうございます」
 コナツがにっこりと微笑みながら頭を下げた。
「……」
 ヒュウガは、少しだけ違和感を覚えてコナツを見つめた。
「どうしました? 私の顔に何かついてます?」
「えっ。あ、いや、顔には目とか鼻とか口がついてるよ」
「な!」
「ほんとのことだし」
「もう、相変わらず冗談ばかり仰って」
「あはは。ごめんごめん」
 そんなふうに笑い合ったが、ヒュウガの釈然としない思いは晴れないままだった。
(暫く抱いてなかったら、何だか他人行儀のように疎外感がある。ただの上司と部下ってこんなもん?)
 ということだ。
(まぁ、しょうがない。これでいいんだから)
 ヒュウガは寂しそうに肩を竦めながら、再び書類に視線を落とした。

 その週は何事もなく平和に過ぎていき、結局、今日こそはサボろうと決意を固めたヒュウガも、コナツの鶴の一声で撃沈していた。
「少佐が仕事をして下さらないと、ストレスが溜まって素振りだけでは済まなくなってしまいます。誰かに相談に乗って貰わなくては」
「え? 何?」
 コナツが誰かの手を借りる状況だけは避けなければならない。参謀部内のメンバーだけならともかく、他の目の届かない所に行かれるのはまずいのだった。
「でも、今は少佐が仕事をして下さるので私も快適です」
「そ、そう」
 そしてサボれないまま週末を迎えた。
 金曜の夜に仕事を終えて自室に戻ったヒュウガは、余計なことを考える前に早めに風呂を済ませ、酒を飲む気にもなれずに寝てしまった。
 ベッドに入りながら、
「こんな時間に寝るなんて子供じゃあるまいし。でも夜遊びするのも面倒くさい」
 大人らしからぬ台詞を吐き、
「ま、いいか。お肌のためにもたくさん寝よう」
 そんなことを言っていた。
 翌日は休日であり、早起きをする用事もない。ゆっくり起きて腹が減ったら食事を摂り、眠くなればまた寝て、気が向いたらアヤナミの所にでも遊びに行こうと考えていた。
 広いベッドの中、一人寝が寂しいとは言わないが、コナツを抱かなくなってどのくらい経つのか、どうしても気になってしまう。
 だが、今はコナツには手を出していけないと腹を決めるしかなく、だからといって代わりを探すにも、コナツの代わりは誰も居ないのだった。
 そうして眠りに堕ち、深夜の時間、ヒュウガは夢の中に居たが、その夢の内容というのが、なんと、コナツから提案された第二回スポーツ懇親会だった。はっきり勝負を賭けているため、懇親も親睦もないと思うが、ここは気持ちよく交歓という意味でそう表現をしている。問題はその開催内容だったが、何をするかは当日のお楽しみと言われていてヒュウガには知らされておらず、突然言われて突然始めるという不自然さはあったものの、その時は何故か卓球をしながらしりとりをしていて、バッティングより難しいのかどうか判断しかねる競技だった。しかし、やってみると中々高度なテクニックを要し、幾度も難局に突き当たりそうになりながら堪え、ルールとしては一回3分勝負なのを、5ラウンドまできてもコナツは余裕を見せていて、今度は自分が負けるのではないかと思ったほどだ。
 相当疲れる夢をみながらうなされていると、今度は場面が変わって自室が映る。暗い部屋のドアが突然開き、
「少佐!」
 コナツが現れた。
「!?」
 なんというせわしさか、ヒュウガはワケも分からず驚いた顔でコナツを見つめると、
「もう寝ていらしたんですか!?」
 コナツは寝ていたヒュウガの布団を剥ぎ取った。
「あれ!? 夢!?」
 随分リアルな夢だと思っていると、
「何を寝ぼけているのです」
 コナツが冷たく言い放つ。
「!?」
「夢じゃありませんよ」
「!!」
 今度は夢ではなく、現実での出来事だった。現実のような夢ではなく、夢のような現実だが、余りに突然のことで悪夢のようだと思った。ただ、目の前に居たのは天使で、コナツはどんなに声を荒げても品があることには変わりなく、そして怒っていても可愛いと思う。
「目が覚めましたか?」
 そんなヒュウガは寝ていたところをコナツに叩き起こされ、辺りを見回している。
「えっ、もう朝なの? さっき寝たばっかりだと思ってたのに……って、外まだ暗くない!?」
 てっきり朝寝坊して仕事に遅刻し、いつものようにコナツに迎えに来られたと勘違いしてしまった。
「今は朝でもありませんし、遅刻もされていませんが。それに、明日は土曜ですし」
「!?」
「大丈夫ですか?」
「いや……何が何だか……って、え?」
「寝ぼけている場合じゃありません」
「ということは何か事件? 戦争!? オレら呼ばれたの?」
 急な出動要請に動じることはないが、しかしながらコナツは軍服を着ておらず、どうも様子がおかしい。
「いいえ。何もありません。ただ、私が少佐に言いたいことがありまして」
「ええっ!?」
 日頃の恨みを晴らすために懲らしめに来たとでもいうのだろうか、それならば何故きちんと話し合い出来る時間帯を選ばないのか疑問に思うし、これではまるで不意打ちというよりも深夜の討ち入りではないか。
「さきほどまで我慢しておりましたが、もう我慢の限界になり、こちらに参りました」
「我慢!? 何の我慢!? こんな時間に!?」
 何が起きているか分からないヒュウガにとって、コナツの言動は予想外のことだった。だが、コナツは少しも表情を変えず、冷静に詰問していく。
「……少佐こそ、何故こんなに早くお休みになられているのです?」
「って……」
 確かにいつもより早くベッドに入ったせいで、本来なら起きている時間である。
「大体、変です」
「!?」
 コナツはベッドに上がりこむと、驚いているヒュウガに跨って上司を見下ろした。
「どうして急に私を抱かなくなったのか、お聞かせ願いたい」
「!!」
 ヒュウガは愕然としてコナツを見つめた。コナツは瞳を大きく開けて、ためらうことなくヒュウガをじっと見て、逃げようものならとっ捕まえる勢いで威嚇している。もっともヒュウガは逃げたくても腰の上に跨られては身動きもとれない。
「あれほど私を必要としていたのに、今はもうその欠片すらない。私は用済みということですか?」
「えっ、何言ってるの!?」
「しかも、突然でしたよね? 最初は気付きませんでしたが、少佐が急に真面目に仕事をしだして……しかも、柄にもなくスポーツの話題を出したり、余り冗談も仰らなくなり。それが短期間であれば気のせいだと思うようにしたかもしれませんが、ここまでくると何かあるとしか思えません」
「別にオレは……」
 ヒュウガは言い訳を考えたが、こんなふうにいきなり乗り込んでくるとは思っていなかったために弁解の言葉を用意していなかった。
「吐いて頂きます」
「それは……っていうか、何もないよ。オレが真面目になったのだって、ほら、昇給審査があるからって言ったはずだけど?」
 せめてそれだけ言えばコナツが納得するだろうと思ったが、
「それがどうしました? 少佐は今までそのようなことには気を使わなかったはず。お金が欲しくて軍に居るわけではないようですし、少佐にとって審査などクソくらえなはずですが」
「……」
 やはりバレていた。
「どんな裏があるのか、私にきっちり説明して頂きたいのです」
「……だから何もないって」
「どうしても仰りたくないのですね」
「……」
「ということは、私はもう少佐には必要ないということですか。それならそうと、言葉で伝えて下さい」
「えっ?」
 どういうことなのだろうと理解しかねていると、
「ですから、用無しだと言って下さらないと私は納得出来ません」
「!?」
「あ、仕事はお傍にいられる限りは尽力致しますが、プライベートではもう関係がないのですよね? そうであれば、私も踏ん切りをつけたいのです」
「って……」
 つまり、自然消滅ではなく、きちんと面と向かって別れを告げられたいのだった。
「いつかこうなると覚悟はしていましたが、待てど暮らせど少佐からは何のお達しもないし、このまま私たちの関係がなかったことにされるのも癪だと思いまして」
「ちょ、え?」
 ヒュウガはきょとんとしていたが、コナツが何を言っているのか分からないわけではなかった。
「本当は私も空気を読んで少佐が望んでいる通り、このまま何もなかったことにするべきだということは分かっています。どうして抱いてくれなくなったのか詰め寄るのも重いし、ご迷惑だということも重々分かっています。そもそも、相手にされなくなった時点で飽きられたということは予想出来ましたから、時間がかかりましたが私も諦めかけていたんです。でも、私の性格上、うやむやに誤魔化されるのが嫌いで、少佐に幕を引いて頂きたかった……ただ、それだけです」
「コ、コナツ」
「こうして迫っていること自体がウザイということも分かります、でも、どうか、これが私の最後の我儘だと思ってご理解下さい」
 コナツが泣きそうな顔で呟くのをヒュウガは黙って見つめていたが、
「……ちょ、ちょっと待って……」
 どう答えていいものか、うまい言葉が見つからず、一旦手で制すると、息を吐いては吸って、深呼吸をするように心を落ち着かせていた。さすがのヒュウガも、多少なりとも動揺したのだ。
「はい、待ちます。でも、本当は最後にもう一度抱かれたかったかなぁ……なんて」
 コナツはヒュウガの上に座り込むように腰を落とし、誘うように躰を乗り出して様子を窺う。
「えっ、いや、それは……」
 ヒュウガが困ったような顔をすると、
「何だか少佐には全くその気が見られなくて、私、完全に飽きられてしまったのですね」
 コナツがゆっくりとヒュウガの上から離れた。その瞬間、ほっとしたように息を吐いたヒュウガに向かい、
「少佐を困らせてみたかったので、失礼な態度をとってしまいました。これも最後ですから、お許し下さい」
 小さく笑って呟く。
「こ、困らせるって……これは確かに……」
 ヒュウガにとっては拷問に近かったが、本当のことは言えず、これらのやりとりにおいてすべてに言葉が詰まってしまい、話し合いにならない。するとコナツは、
「というわけで、いつでもお話を聞きますから時機を見て私をお呼び下さい。突然やってきた私も悪いですが、少佐のことだからすぐに別れ話を切り出して下さるものと思っていました……」
 コナツの算段としては、ヒュウガのことだから切り捨てるのは早いと思い、振られる覚悟で部屋を訪れた。最後の仕返し……ではないが、嫌がらせに近い形で寝ていた所を叩き起こしたが、それはいつものことで、コナツから事情を説明すれば進展も早いと思ったのだ。
 しかし、肝心のヒュウガの歯切れが悪い。それならば、一度辞去し、日を改めた方がいいのではないかと判断し、伝えた。
「いや、ほら、突然のことでびっくりしたからさ」
「それはそうですよね。すみません。この件についてはまた後日ということにしましょう。では、失礼します」
「え、帰っちゃうの!? いきなり来ていきなり帰る!?」
 ヒュウガは狐につままれたようになっている。
「それはいつも少佐が私にして下さることではありませんか」
「あ、そうだっけ」
 コナツこそ、寝ている所を突然起こされて拉致されたり、急に違う行動をとっては驚かされたりと、そうやって振り回されることが多かったが、今夜の訪問は決して仕返しのためにとった行動ではない。
「こんな時間から寝ていらっしゃるし、最近の少佐は変ですよね。でも、その調子でお仕事も真面目にして下さるなら嬉しいです。また月曜から忙しくなるし、宜しくお願いします」
 コナツは律儀にヒュウガのベッド周りを整え、
「では、おやすみなさい」
 そう言って部屋を出て行こうとした。
「ちょっと待ってってば」
 当然ヒュウガは引き止める。
「……一応待ちますが、3秒だけです。1、2、3……では、失礼します」
「何それー!」
「お休みの所にお邪魔してしまったので余り長居出来ませんし」
「ええっ、今更何を言ってるのー!?」
「今日はこれで失礼しますが、但し、ご返事は長引かせないで下さいね。早めの対処をお待ちしております」
「だ、だから、それは今から言うよ!」
「えっ、本当ですか!?」
 何故かコナツの顔が輝いた。振られることが嬉しそうなのは気のせいだろうか。ただ、コナツにとって、どうせ分かりきった展開なら早い方がいいと思っている。
「うん、今、言うよ。来週また話をするのも何だし」
「そうですか。まぁ、一言で済みますからね」
「え? あ、一言……ね、そうだね」
「はい」
 コナツがにっこりと笑うと、
「じゃあ、ちょっとこっちに移動しようか」
 ベッドの上では話しづらく、ヒュウガは一旦寝室から出てきちんと座って話が出来る場所に移動した。
「コナツも座って」
「……はい」
 少しかしこまった状況にコナツがわずかに緊張の色を示すが、特に動揺することなく、じっとヒュウガを見つめ、ヒュウガの言葉を待っていた。
「夜にいきなり来るとは思わなかったよ」
「……すみません」
「コナツも中々なことしてくれるよね」
「思い立ったら即行動を実行してしまいました」
「だろうね。まぁ、ここまで長引かせたオレの責任かな。オレも言おうか言わないか迷ってたんだけどね……」
 ヒュウガは真剣な表情で腕を組んだ。
「私が無理やり吐かせる形になってしまったんですね」
「いや、そうさせてしまったオレが悪いんだけど」
 ヒュウガは珍しくしおらしい態度をとっていて、ふざけてごまかしたり、お茶を濁らせて逃げるつもりはないようだった。
「ただ、私は少佐の口からはっきりと聞きたかっただけなんです。本当なら静かに待っていればいいのでしょうけれど、それも時間の無駄だろうし、ならば私は一人できれいさっぱり過去のことは忘れてしまおうとしましたが……そうすると、どうしても期待してしまうんです。また誘って頂けるかもしれない、声を掛けて貰えるかもしれないって」
「……」
 一瞬、ヒュウガが苦しそうな顔をしたが、それがコナツに対する贖罪の始まりであるかのように、暫く口をきくことが出来なくなってしまった。
「少佐? あの、やっぱり日を改めますか?」
 コナツが申し出るとヒュウガは首を振る。
「たった一言でいいのに……私、無理強いしてますよね。あ、もし口で仰るのがお嫌でしたら、メモでも構いませんよ? 契約書みたいに判とか要りませんし」
「……」
 そしてヒュウガはまた首を振る。
「ですが……もし、気の利いた別れの言葉をお探しでしたら、そんなのは必要ありませんからね? 一言、終わりにしようと仰るだけでも構いま……!?」
 コナツがすべて言い切らぬうちにヒュウガはテーブルを叩いて威圧した。
「あ、あの……すみません……余計なことでしたね」
「いや……別に怒ったわけじゃなくて」
 ヒュウガは逆切れしたのではなかった。
「はい。すみません」
 二度も謝って、今度はコナツの方が黙り込んでしまった。最初はしどろもどろになっていたヒュウガに勢いだけで責めこんだが、ヒュウガの表情が次第に変化し、おどける様子もなく、ずっと真剣で、一度それを”怖い”と思ってしまうと、もう余計なことは言えなくなってしまう。そしてヒュウガも何も言わない。
 張り詰めた空気の中で二人はどちらも無言のまま、目を合わせることもなく、ただひたすら、呼吸と瞬きだけを繰り返していた。
 どのくらい沈黙が続いただろう。わずか数分……であれば気も楽だったが、数十分どころか、なんと、数時間も経ってしまった。まるで幾星霜にも感じられる長い刻は、ますます二人に溝を作り、コナツは更に自己嫌悪に陥るようになる。
(本当は別れ話するのも嫌だった?)
(執拗に迫りすぎた)
(少佐は、こういう話が苦手な人なんだ)
 など、後悔の嵐である。
 一方、ヒュウガは一切口を開かず、難しい顔をして考え込んでいるというよりも、苦渋の選択を強いられ、悲痛な思いでいるのだった。
(きっぱり、終わりにしてしまった方がいいのだろうか)
(その方がコナツのためになる)
(コナツは普通の人間で、コナツには当たり前の生活を与えてやるべき)
 そして。
「ごめんね、もっと早くに言うべきだったけど」
 ヒュウガが先に沈黙を破った。
「今までも何度かこういう話になったこともあって……それでもオレとしてはこの関係を終わらせるつもりはなかったし、何とかなるさって思ってた所もある。今はそれがまずかったのかなって反省してる。これがコナツが女の子なら、悩むことはなかったんだけどねぇ」
「……少佐……」
 どちらかが異性であれば、それなりの関係は成り立つし、保てる。正式に付き合ったとしても何の問題もない。
「あ、オレが女ってのは無理があるから無しね? 心は繊細なんだけどさ、もう乙女でもいいくらいなんだけど」
 少し冗談を交えるようになって、いつものヒュウガらしくなってきたが、コナツには笑えず、ずっと固まったまま言い返すことも出来なくなっている。
「……」
「難しいよね、ほんと」
「……」
「オレもねぇ、柄にもなく結構悩んだんだよ? その結果がここまで延び延びになったっていうか」
「はい」
「だから、本当はねぇ、このまま流して欲しかったし、コナツには何もなかったことにするのが一番かなって思ってた」
「!」
「でも、それは嫌なんでしょ?」
「……そう、ですが……。でも、今の少佐のお気持ちをお聞きしただけで十分です」
 つまり、自分たちの関係はなかったことにするべきだというのがヒュウガの主張なのだと理解し、上司がそう言うならば、その通りにするしかないと思った。
「最後に一つだけ申し上げてもいいですか?」
 コナツがふと寂しそうに言うと、
「最後って、まだ話は終わってないんだけど」
 ヒュウガは肩を竦めて苦笑していた。
「もう、十分です。これ以上訊ねたいこともありませんし。ただ、私は少佐と過ごした時間を忘れることは出来ないので、大事にしまっておきたいと思います。なかったことには出来ません。少佐にはご迷惑をお掛けするような行動をしないように心掛けます。ですが、今後もお仕事はきちんとして下さいね?」
 言い終えてコナツが立ち上がると、
「あら、自己完結してる。なんでそういう話になるのか」
 ヒュウガが困ったように頭を掻いた。
「せっかく真面目になりつつあるのですから、このまましっかりお仕事をこなし続けて下さい。アヤナミ様も喜ばれると思います」
「そんなのどうでもいいよ」
「!?」
「オレは誰かに褒められたくてこんなことをしてるんじゃない」
「……」
 ヒュウガの声音が変わり、コナツが再び躰を強張らせる。
「お前のためだって、勝手にそんなことも言いたくないけど、褒められるとか給料が上がるとか、オレにとってはどれも無意味」
「えっ、あの……私……」
 ついつい言い過ぎたかと思うが、いつもはもっとヒュウガをきつく叱ることもあるし、日常会話からすれば、コナツが言っていることは普段と何ら変わりはない。だが、ヒュウガの態度が、和らいだり厳しくなったりで、明らかに日頃とは違うのだった。
「私……」
 コナツは何も言えず、立ったまま震えていたが、何やら不穏な雰囲気になってきたことを恐れ、
「少佐のお考えが私には理解出来なくて、不快になられるようでしたらすみません。ですが、いつもどんなに私が申し上げても冗談で済ませてしまうのに、どうして今夜は違うのですか?」
 突然の訪問に怒っているだけかと考えたが、それだって互いに珍しいことでもないのに事態が悪化している。
「今夜は違うって、本当のオレなんか誰も知らないよ」
「えっ!?」
 コナツが戸惑いを見せた次の瞬間、コナツは腕を掴まれていた。
「何もしない」
 最初に告げたのはヒュウガだが、この状態で何もしないとは説得力に欠け、押し倒されると思ったコナツの顔色がみるみる変わっていった。
「あ、あのっ……」
「座って。あ、襲わないから。もうしないって誓ったんだし」
「!」
 誓ったと言ってもヒュウガが自分自身に言い聞かせていただけで、コナツにとっては誰に誓いを立てたのか気になってしまう。が、それを問い詰める余裕もなく、呆然としていると、
「怖がらなくてもいいよ。暴力を振るおうっていうんじゃない、ただ、話をするだけ」
「!?」
 とてもそんな状況ではないのに、ヒュウガは微笑んだままコナツを座らせ、一旦腕を放した。
「逃げちゃ駄目だからね」
「逃げたりしません、ただ、もう話はありませんが」
「あるよー」
「これ以上何があるというのです」
「あるでしょ、オレもお前も」
「!?」
 コナツは言いたいことを言ったし、ヒュウガからもそれらしいことを聞いた。もう日を改めて話し合いをする必要もなく、収束したと判断出来る所まできたのだ。また話を蒸し返しても、互いが辛くなるだけで利点など何もなかった。
「あのね、コナツ、オレが本当に言いたいのは……」
 ヒュウガがゆっくりと言葉を選ぶように呟いた内容とは──


to be continued