「ああ、やっと片付いた。あと、もう少し」
参謀部は相変わらず多事多様の毎日で、慌しく混沌としており、書類の整理が追いつかないまま一息つく暇もなく時間があっという間に過ぎてゆく。 「ふぅ。なんかもう、ぐったりです」 コナツは少々夏バテ気味だったのを乗り越えて残暑にも耐えながら、若いとはいえ疲労が蓄積する躯に鞭を打って任務に就いていた。 暇を持て余すより忙しく駆け回っているほうがいいと思うコナツも、こんな日々が続けば休みの日はぐったりとして、ひたすら寝て疲れをとることしか出来ない。 「さすがの私も少佐じゃないけど、糖分補給したくなります」 おやつが残っていないかと引き出しをあけてみたが、食べられるものは一つもなかった。するとヒュウガがやってきて、彼も仕事を終えたのか最後の仕上げとばかりにコナツに声を掛ける。 「今日の報告してー。あと明日の予定の確認しよう」 「はい、只今」 もしヒュウガがりんご飴を持っていたら奪い取ってしまおうかと真剣に考えたコナツだったが、ヒュウガはすっかり手ぶらだった。 「では、申し上げます」 もう遅い時間帯で、参謀部には既に人は残っておらず、コナツとヒュウガだけになっていた。 「あ、その前に明日の夜からの会議の資料も出来ましたのでお渡ししますね。今夜中に目を通して下さい」 書類をまとめながらヒュウガに手渡す。嬉しくなさそうに受け取ったヒュウガを見ない振りをして、コナツは今日あったことをメモした紙を取り出し、 「朝一から行われた軍法会議にはアヤナミ様だけ出席されましたが、我々にも議事録が届いています。他に本日参謀部に送られてきた書類を大まかに説明します」 今日一日の締めくくりを手際よく終わらせようと、明瞭な言い方で付け加えた。 「うん、昼からの会議についても宜しく」 「……少佐も出席されてましたよね?」 確かに午後から行われた会議にはヒュウガも列席している。 「オレ、目を開けたまま寝てたの」 「器用ですね。私には真似出来ません」 「そうかな!」 褒められたように喜ぶヒュウガと、溜め息をつくコナツの温度差が激しい。 「落書きもせず珍しく話を聞いていると思ったら寝てたんですか。私は必死に話を聞いて要点をまとめていたというのに」 「まぁ、死ぬほど飽きる内容だったからね」 「またそのようなことを仰って」 「いいの、いいの。睡眠学習なんだから」 「意味が違います!」 「もう。そんなに怒らないでよ。それにしても今日のコナツは無言で事務処理こなしてて、すっごく良かったねぇ」 「そうですか?」 「時間きっちりに行動して、少しの無駄もなくて」 ヒュウガが突然、日中の勤務態度を検証するように説明を始めた。 「今日は特に忙しかったので」 コナツは当たり前のように答えたが、 「何を考えていたの?」 そんなことを聞かれ、 「何をって、仕事中は仕事のことしか……」 一体何が言いたいのだろうとコナツがきょとんとしていると、 「ほんとにー?」 何故か疑いの眼差しを向けられる。 「はい。どうやったら処理能力があがるのか、一度にどのくらいのことが出来るのか考えていました」 「うわー、真面目ー」 「当たり前のことですよ? それに私、忙しいほうが好きです」 「ああ、そうだろうねぇ、でなきゃ、あんな仕事量こなさないでしょう」 「仕事は嫌いではありませんから」 コナツが落ち着き払って呟くと、 「ほんとに真面目だね。オレにもそんな時があったっけ。……あったような、なかったような。むしろ無いと断言出来るかもしれない」 遊びたい盛りの年齢であるのに、国のために働きたいと胸を張って宣言するのは、そう出来ることではない。 「仕事が好きだというのが私の取り柄です。自慢ではなく、私にはそれしかないというか」 「コナツは仕事抜きにしても、いいとこいっぱいあるんだから、そんなに重く考えることないよ」 「でも、日々精進したいという思いは変わりません」 「いいね、その心意気」 「もっと色んなことをこなしていきたいですし」 「なるほど! じゃあさ、ここでこんなことをしたら怒る?」 「? ……ッ!?」 何のことかと思っていると、机の上に押し倒された。余りにも突然で、一瞬何が起きたのか分からなかった。抵抗や防御のしようもなく、コナツは背中や後頭部を机の上に打ちつけて痛みを堪えながら状況を把握するしかなかった。 「いっ……痛っ、ちょっ! 少佐! 悪ふざけはやめて下さい!!」 仕事場でこんな展開になるとは思っておらず、コナツが焦って抵抗する。 「ふざけてないって。それより報告してよ」 「え?」 「今日のことと明日のこと」 「こんな状態で?」 「そうだよ、仕事の話だからいいでしょ?」 「だって、これでは……!」 押し倒されながらでは無理だと言いたかった。 「大丈夫だよ、誰が来てもいいように素っ裸にはしないから」 「な……!」 混乱しているコナツをよそに、ヒュウガは軍服の襟を乱し、隙間から手を入れて胸に触れた。 「あっ!」 反射的に声が漏れたが、感じた振りをしているのではない。明らかに快感が胸から広がり、じわじわと悦楽の波がコナツの正常な思考を崩してゆく。 「やめて……やめて下さいっ、こんなこと……ッ」 「こんなこと?」 「仕事中です。それに、私の胸なんか触っても意味が……意味がな、い」 コナツは最初の頃、男の平たい胸を触って何が楽しいのだろうと思っていた。ところがヒュウガのテクニックが勝ったのかコナツの方が気持ちよく感じるようになってしまった。胸を触られてよがるのは女性だけだと思っていたから、勝手に声が出た自分に驚いて呆然とした。 だから、「もう一度触ってみて下さい」と言ったこともある。感じたのは何かの間違いだと思ったのだ。もう一度してもらって確かめようとしたが、何度やっても同じ結果が出た。 それなのに、今でもコナツは納得出来ずに自分の感度の良さを認めてはいない。 そしてヒュウガはヒュウガでコナツの胸にやたらと興奮するのだと言う。見るのも触るのもいい。一番好きなのは淡い色の花飾りのような二つの突起を吸うことだ。これをした時のコナツの乱れようは筆舌に尽くしがたいものだった。 そして勿論、それを説明してもコナツは一向に聞き入れず、この行為に意味は無いと言い張る。 「意味なんかありすぎてどうしようもないよ」 やれやれ、といった様子でヒュウガが呟いた。 「!?」 「別に背中でもお腹でも脚でもいいんだけどね、撫でたり揉んだりするの」 コナツは返答に窮したが、ヒュウガが言いたいことだけは分かった。ヒュウガは何でもいいからコナツに触りたいのだった。その中で胸がお気に入りだというだけだ。 「そんなに触りたいんですか」 「触りたい!」 元気いっぱいに答えるヒュウガに呆れながら、 「私のじゃなくても……!」 「駄目だよ、他の人のは触れないもん」 セクハラになってしまうから、それは不可能なのだろう。自分は何をされてもタダだし、結局は部下であり、本気で抵抗出来ないのだから格好の餌食なのだと諦めるしかなかった。 「っていうか、興味ない。触りたいと思わない。全然思わない」 「えっ!? それは……」 「他の人のは目もいかない、魅力的な女性が居ても気にもならない」 「なっ! そんなのおかしいです」 「だってコナツがいいんだ」 「少佐……」 こういう時だけ真摯になるヒュウガを見て、自分は心から求められているのだと感じる。躯だけが目的という表現があるが、一見してそれは虚しいものであるのに対し、他には興味がないと言われれば、自分はオンリーワンになることを示す。つまり、特別ということだ。それを思えばヒュウガの横暴にも目を瞑ってしまいそうになる。 「ほらほら、早くしないと寝る時間なくなるよ」 「でも……!」 さすがに報告が済むまでは仕事同様であり、これでは要領が掴めない。 「駄目駄目、コナツの仕事とオレの欲求を一度に終わらせるのはこれが一番なんだから」 「意味が分かりません!」 「コナツ、処理能力を上げるために一度にどのくらいのことをこなせばいいのか考えてるって言ったじゃん。それを実行してるだけ。で、今日オレが出なかった朝イチの会議の内容はどうだったの? 議事内容届いてるんでしょ?」 「えっ、ええっ!?」 「オレが出た方の会議の報告書はいつまで提出すればいいんだっけ」 「……ッ」 矢継ぎ早に質問をしながら、ただ胸を撫で回すだけでなく揉むのである。無いものを揉むという行為は通常では考えないことだが、ヒュウガはそうしたかったし、コナツも、そうされれば、まるで胸が大きくなるような、或いは本当にあるような感覚に陥る。その奇妙な感覚に、自分が何か違うものに変わってしまうような焦りと、もうどうなってもいいと自棄になって、いっそ理性をかなぐり捨てて喘いでしまいたい衝動に駆られる。 だが、コナツは歯を食いしばり、意地で書類を掴むと一度だけ視線を注いでから、 「今朝の軍法会議は……審議の内容が大きかったようです……先日から問題になっている……第3小隊の……」 「ああ、どこぞの指揮官がドジ踏んで責任を問われてるってやつね」 「はい。ただ、判断ミスだったようですが大敗を喫することはなかったので重い刑は免れそうです」 「へぇ。てっきり自決コースかと思ったよ」 「論点は装備に集中しました。不具合が多すぎたと」 「あれかな、下調べが不十分っていうか認識が甘かったんだろうな。あれだけ寒いし視界も利かないって言われてたのにね」 「ですから、検討箇所が多かったので会議もだいぶ長引いたらしく……」 「だからアヤたん帰ってこれなかったんだぁ」 「アヤナミ様は元帥より直々にお話があるようで、日を改めて会合を持つそうです」 「ふーん」 「それに関しては少佐にも……アッ」 「オレが何?」 「ひゃっ」 ヒュウガは指の腹でコナツの胸の突起を撫で、決して力を入れずに摘んだ。 「まだ理性は取り上げてないよ。報告続けて」 「う……」 これはもう拷問と同じだと思った。愛撫を仕掛けている方まだいい。される方は様々な感覚に耐えるのに苦労する。 「だからね、頭の中できっちり仕事のことだけを考えていれば快感なんてどっかいっちゃうかもよ?」 ヒュウガが能天気な意見を述べるが、 「無理ですっ! どれだけ気持ちがいいと思ってるんですか!」 コナツが大胆な台詞で応戦した。 「そんなに頑張ってるつもりないんだけど……。仕事場で淫らなことしてるって思うから駄目なんじゃない?」 「少佐がこんなことするからいけないんですよ!?」 「オレがしたいこととコナツがしなきゃないことが一度に出来てるんだから時間短縮で便利な状況なのに」 「むちゃくちゃを……」 「で、午後の会議のやつって論題なんだっけ」 「……環境と経済について前年度と比較したデータが発表されました。重点を簡単に抜粋しましたので後で目を通して下さい」 「化学がどうたらっていうのもなかったっけ」 「そちらはまだまとめることが出来てなくて……明日の午前中に仕上げる予定でした」 「コナツ、大忙しだね」 「……それと、少佐が提出しなければならない書類は明後日までです」 「んー。骨組みはコナツに任せる」 「……」 「むしろ代筆してくれても構わない。そのくらいなら出来るでしょ」 「……はい」 「出来ないなら出来ないって言ってもいいんだよ?」 「いえ、出来ます」 いくら従順な部下を演じようとしても、すべてを引き受ければ何かが負担になり思わぬところでケアレスミスを犯しかねない。だから無理することはないのだと宥めようとしてもコナツは首を縦に振ることはなかった。 「それから夕方に緊急で届いた書類には、明日の朝一番で判を押して頂きたいのですが……」 「どんな内容だったの」 「上半期の決済と下半期の予算の件です」 「それってアヤたん目を通した?」 「はい、アヤナミ様とカツラギ大佐、クロユリ中佐はもうサインをされています」 「そう、じゃあ、明日やるよ」 「……ッ」 時折漏れる声は快感によるためであり、それ以外のなにものでもない。強弱をつけたヒュウガの徹底したコナツの性感帯へのアピールは、どこまでコナツを攻め続けるのか終わりが見えなかった。 「明日の件についてですが、少佐はアヤナミ様と外交戦略における交渉に同伴して頂くことになります」 「それって明日だっけー。確か時間が変更になったんじゃなかった?」 「……はい、午前10時だったのが早まり、9時になりました。恐らく半日以上はかかる見込みです」 「げー、じゃあ、明日早く出勤しないと駄目じゃん」 「そうです」 「コナツ、起こしに来てよー」 「私がですか?」 「他に誰が居るの」 「……分かりまし、た」 「明日はオレが居ない分フォロー宜しくね」 「はい」 「って、ほんと余裕ないよね?」 「……」 その通りだった。いつもならヒュウガがサボるからだと騒ぎ立てるのを、ヒュウガもれっきとした仕事で不在にするのであれば責められない。 「コナツ、いっぱいいっぱいだよなぁ。そのうち倒れちゃうかも」 「そんなことは……」 この多忙を極める毎日は今に始まったことではないし、今更だが、いつも思うのは猫の手も借りたいということである。すると今度はヒュウガがとんでもないことを言い出した。 「うーん、なんだかんだでオレも結構仕事増えてきたし、コナツが大変になるのが目に見えてるから、コナツを補佐する意味でオレにもう一人ベグライター付けようか?」 「!!」 これには心臓が止まりそうになるほど驚いた。 確かに現時点でベグライターは一人という決まりはなく、むしろ付けても付けなくても自由だったし特に難しい決まりはなかった。ベグライターを決めるのも自薦他薦どちらも可能なのだ。 「そうすればコナツも負担が軽くならない?」 「……」 ショックで何も言い返せなかった。 「コナツ、仕事だけじゃなくて新人教育もしてるわけだし」 シュリとスズ、ユキを指すのだが、一人に教えるだけでも骨を折るのに自由奔放な我侭息子のシュリと言葉の通じないスズとユキの相手をすることは容易ではない。本来ならお手上げ状態であるのを、コナツは全て背負ってこなしている。 「しかも、オレの相手まで……ね」 ベッドでのことはコナツの意思でもあるし、決して小姓のような役回りではないが、躯に負担がかかっているだろうとヒュウガも心配している。だからといって自粛出来ないのが困り物で、本当は毎晩でも抱きたいと思っているのだった。 「……私のほかに……もう一人……」 「うん、勿論立場的にもコナツより下の子を選ぶよ。今年ベグライター試験に受かって、まだ誰にも付いてない子も居るみたいだし、 雇うとしたら仕事の出来る子を慎重に選ぶけど」 「本当は少佐が……それを、お望みなのでは」 「コナツのためを思えばってこと。今より負担が軽くなるならいいかなって」 「じゃあ、要りません!」 「お?」 「私一人で十分ですっ」 「え、そう? ほんとに?」 「私がぜんぶします!」 コナツがだんだんムキになっていった。 「ならいいんだけど」 「少佐はお気に入りの子を見つけてきて、きっと手を出すに違いありません」 「えーっ」 「図星ですよね!?」 「そっちかい、そう来たか」 「それしか考えられません」 「なんでー!?」 「少佐の可愛い子好きは心得てます」 「そりゃあ可愛い子を選ぶつもりだけど……」 「やっぱり! それならいいです。私も他の上官と寝ます!」 「!?」 「等価交換みたいなものです」 「違うでしょー!」 ここで口論が始まった。売り言葉に買い言葉だった。 「少佐ばかりいい思いしてずるいですもん」 「可愛い子をそばに置くのは古今東西男のロマンだよ。でもあくまでも仕事だし、手なんか出さないから」 「私には出したじゃないですか」 「それは別の話」 「そんなこと言って、誰にでも同じことを言うんですよね?」 「言わないよ。可愛いとかいい子とか言うかもしれないけど」 「ほらぁ! だったら私も上官に甘えます」 「ちょ、何、その浮気する気満々な態度は」 「私だって、その気になれば相手が居ます」 コナツがフイと視線を逸らして言うと、 「……聞き捨てならないな」 ヒュウガが突然深刻な面持ちになって呟く。 「少佐こそ!」 どちらが悪いか正しいかの是非を問うにしても、感情の方が上回り冷静ではいられなくなってきた。 「コナツ、ベッドを共にするような人、居るの?」 さっきまでと口調が変わり、声のトーンも落ちている。 「探せば居るんじゃないですか、世の中物好きな人も居ますから」 「……それ、自虐ジョークには聞こえない」 「私は冗談なんか言いません」 「もしかして今まで実は他の男と関係があるとか、過去にそういう事実があるんじゃないよね?」 「……」 「なんで黙るの? 黙るのは肯定と同じだってコナツ言うじゃん」 「そ、それは……」 「コナツって処女じゃなかったんだ。オレが初めてだと思ってた」 「処……!」 恥ずかしさの余り、最後まで言えずに顔を真っ赤にしてしまったが、 「私は……」 「だよね、そんなの分かるはずないし、オレの思い込みだったってこともあるよね」 「……そ、そういう……でも、私は」 コナツがしどろもどろになっていると、 「ねぇ、いつ? 何処で? どんな人と寝たの?」 「少佐!」 「教えてくれるはずないか。聞くオレもバカだよね」 「……」 急に冷めたような口調になったヒュウガに焦ったが、 「でもコナツは触り甲斐あるから弄り倒すよー。なんなら泣くまで攻めちゃおうかな」 「!!」 ヒュウガはコナツから離れようとはしなかった。 「で、今日の報告と明日の予定確認は終わり?」 最後の仕上げとばかりに首筋を撫で、そっと顔を近づけてくちびるを押し当てた。 「……ッ」 コナツは息を呑んで躯を固くしていたが、激しく抵抗することはなく、じっとその行為を受け入れていた。チリ、と首筋に痛みが走り、吸われたことを理解すると、コナツは深い溜め息を漏らしたのだった。 「はい、お疲れ、頑張った頑張った」 ヒュウガが躯を起こしてコナツを見つめ労うと、コナツは声にならない声を震わせていた。 「あれっ!? 泣いてる!?」 「……ッ。泣いて、ませ……ん」 「だって涙が出てるよ」 「違いますっ」 「何が違うの、泣くなんて聞いてない」 「泣く宣言なんかしませんから」 「オレが涙に弱いの知ってるよねぇ」 「私は慰めて欲しいわけではありません……大丈夫、です」 「原因はオレでしょ。だとしたら謝らなきゃいけない」 「……」 コナツからの返事はなかった。 「でも、どれが引き金なのか分からないよ」 「いいです」 コナツは躯を起こし、乱れた襟を直した。直しながらも涙が止まらないのだった。 「コナツ」 突然机の上に押し倒され、愛撫を仕掛けられて感じるのを耐えろと言われながら業務をこなした。いっぱいいっぱいだったのを、他にベグライターをつけるとまで言われて仰天し、ショックを受けているところへ非処女疑惑をぶつけられた。もっともコナツは女の子ではないから適切な表現ではないかもしれないが、どういうふうに言われようとも、わずかな時間の間に受けた衝撃は数多く、そして度合いも大きく、歯を食い縛って耐えていたのに緊張の糸がほぐれた途端、どっと涙が溢れてきた。 一度にこんなにたくさんの感情に操られたのは初めてである。仕事をしながら愉悦と快楽を受け、焦らされては我慢と忍耐を強いられた。そうしているうちに怒りと嫉妬に苛まれ、涙が出るほど悔しい思いをした。 「う……ぅ、ひっく」 しゃくりあげながら机から降りると、 「では、私は戻ります」 小さな声で一言だけ呟いた。 「……」 ヒュウガが無言でコナツを見つめた。 コナツはいたたまれず、すぐに走って逃げ去りたかったが、今も仕事中だということを思い出し、 「あ、すみません、書類をお部屋までお持ちするのを手伝います」 そこまでしなければならないと考えた。ヒュウガのことだから、故意に忘れていくかもしれないと読んだのだ。 涙が頬を伝うのを構わず、コナツは書類を手に取る。 「いいよ、これは持って帰る。ちゃんと目を通して、検印が必要なものはやっておくから」 「分かりました。お願いします。では、お部屋までお送りしなくても宜しいですか?」 目を真っ赤にして俯いたまま尋ねる。 「今日はここで」 「では、私は失礼します」 頭を下げて背を向けた。それでも涙を拭うことはしない。 「お疲れ様」 ヒュウガが声を掛けたが、ヒュウガは部屋に戻る様子もなく、そのまま椅子に腰掛けて長い脚を組んでいた。ただ一人コナツだけが参謀部から出て行ったのだった。 しばらくしてから、 「さて、オレも帰ろうかな」 電気を落とし、机の上の灯かりだけを点けて書類を眺めて呟く。 「って、印鑑だけ押しちゃうか」 朝にやるのも今やってしまうのも同じだとヒュウガは印鑑を取り出し一枚一枚素早く押していった。 「この単純な作業が飽きるんだよね……プチプチを潰すのと同じくらい飽きる」 夢でアヤナミから延々と気泡緩衝材を潰す作業を強要されたことを思い出し、その内容にかぶせながら、飽きっぽい性格は単純作業には向いていないと認め、静まり返った参謀部で独り言を呟いている。 「つか、資料読んどけって言われたよな。……今読むしかないっていう感じ?」 渋々資料を捲ってみるが、数分、数十分経っても余り進まない作業に嫌気が差し、 「はー、結構枚数あるなぁ。読み終わるまでに日付け変わっちゃうねぇ。もう部屋に戻んなくてもいいかな」 そう言って頬杖をつき、ため息をついた。すると、突然、カチャリと参謀部のドアが開いたのだった。 「誰?」 ヒュウガが驚いて視線を移すと、最初に金色の髪が見えた。 「あの……」 ひょっこりとドアから顔を出したのはコナツだったのである。 「えーっ、どうしたの、忘れ物!?」 ヒュウガは本気で驚いて声を上げた。 「……」 コナツはドアから顔だけを覗かせたまま何も言わず、そして動かずにいると、 「おいで。何かあったの? 報告し忘れ? 他に伝言が?」 ヒュウガが呼んだ。 「……」 それでも動くことはなく、そこでじっとしている。 「コナツ、まさか……帰ってなかった?」 「……」 「部屋から戻ってきたんじゃないよね?」 「……」 「コナツ?」 「……はい。ずっとそこに居ました」 「あれまー! それは予想外!」 ヒュウガが意味深なことを呟くと、 「少佐を置いて帰るわけにもいかず……」 「なんでー!? それは自由だよ、きっちり仕事終わったんだから、コナツの任務はここまでだし」 「嫌です」 「は?」 「少佐を逆襲しに参りました」 「えっ」 「少佐が余りに意地悪だったので、仕返しに」 「ええーっ」 仰天しているところへ、後ろ手にドアを締め、ゆっくりとヒュウガの元へ歩み寄った。 「お仕事してらしたんですね。いいことです」 「な、なに、さっきまでめそめそ泣いてたくせに」 「……そうですね、誰のせいだと」 「オレ」 あっさりと認めるも、反省の色は見えない。そこで落ち込むコナツではなく、すぐに話を続けた。 「では、私の質問に答えて下さい」 「えっ」 「答えて、それが当たるまでは帰しません」 「何それ。しくしく涙零してるコナツのほうが可愛いし」 ヒュウガが言い返すと、 「でしたら尚更です」 「どういうこと?」 「私が泣いた理由」 コナツはそれに関連付けた質問をしたのだった。 「オレが泣かせたからでしょ」 「その原因です」 「……」 「分かりますか?」 「今ひとつはっきりしない……けど」 「思い当たるものを仰って下さい」 「あー、もしかしてベグライター付けるって言ったから?」 「違います」 「違うの!? ええっ、じゃあ、何だろう、あっ、処女じゃなかったって疑ったからだ」 「違います」 「えーっ!?」 ヒュウガが混乱し始めた。 「全然違います。少佐はちっとも分かってませんね」 「他には何が……うーん、仕事しながら変なことしたから?」 これならどうだと言ってみるが、 「違いますね」 それも外れた。 「違うのか。えーと、そうすると……ごめん、分からない」 正直に告げた。眠かったから、お腹が空いていたからという答えもあったが、それではふざけていると怒られかねない。 「では、申し上げます。口にキスしてくれなかったからです」 「!?」 「私の胸を弄るだけ弄って、首にまで跡を残してくれたのに、一番欲しかったものはくれなかった。躯の関係はあっても口にキスしないと本気じゃないって言いますよね」 「な……っ」 都市伝説のような迷信のような言い伝えであるが、実際にその説は一理あって、浮気ならばキスはしなくてもいいが、本気の相手とは何度でもくちびるを合わせたくなるものである。そして今回ヒュウガはそれを省いた。 「確かに、私にとってヒュウガ少佐が初めてじゃないって言われて凄く驚きましたが」 「え?」 「少佐はすぐに話題を変えて下さったので助かりました。本当のことを言っても信じて貰えるかどうか自信なかったので」 「どういうこと」 「……士官学校時代に、私を可愛がってくれた教官が居たのですが、一度だけ、その教官と関係と持ちました。私の憧れでもあって、その教官も凄く私に手を掛けてくれたせいか、その流れもあって全然抵抗なく……私は躯を許しました」 「!!」 「でも、一度だけです。お互い一度だけで良かった。それが美学みたいなところがあって。二度目があったら完全に溺れていたし、先生と生徒という関係が崩れたと思います。そうしたら多分、私は首席で卒業することは出来なかったと」 「コ、ナツ……」 まるで時間が止まったかのようにヒュウガが息を止めている。だが、 「なんて言ったら信じてくれますか? 今の作り話ですけど」 ケロリとコナツが言い放った。 「ええええええッ」 とんでもない作り話だと思った。まるで事実のような口ぶりで、とても虚偽には聞こえなかったのだ。 「でも私、明日は少佐が不在が多くなりがちですので今度こそ浮気出来るかもって思いました」 「いきなり何ーっ!?」 「明日は私もちょっとしたミーティングで呼ばれていて、そこの指揮官がいつも私によくして下さるので誘っちゃおうかと」 ヒュウガが引き止める間もなく、コナツは次々に衝撃の発言を繰り返す。 「本気で言ってるの?」 「はい。でも、急ですから、さすがにその日にベッドまでは行きませんし、そこまでする勇気もありません。私は不慣れなので段階を踏まないと無理ですし」 「なっ!」 「ただ、ちょうどいい機会でもあります」 「なんの!?」 「私が他の男に胸を触られても平気なのか、むしろ感じるのか確かめたかったんです」 「……」 理由がリアルすぎて反論の余地がなく、頭の回転の速いヒュウガでも言葉を失った。コナツは構わず、 「少佐は自分から触って下さるのでいいのですが、他の男性を誘う場合は私からお願いするしかないでしょうか」 平然と言い続けている。 「何言ってんの」 「結構悩みますね」 「コナツ!?」 ヒュウガが驚いているのを気にもせず、コナツは机の上にたまった書類を見つめ、 「お仕事、まだ続けますか」 今度はそう訊ねた。 「朝やるの面倒だからついでにやっとこうと思ったんだけど」 「それなら、私も少佐に奉仕しながらお仕事をして頂くのはどうでしょう」 「は?」 「ご奉仕致しますよ、私の口で」 「え、それって……」 「ご想像通りです。さきほどの逆バージョンと申しますか、ちょっと違うような気はしますが、でも、構図が悪くてお仕事しづらかったらご迷惑になりますし、どうしましょう」 「……」 「私、口でするのが下手なので、いっぱい練習したいんです。だからこそ他の人に練習台になってもらうのがいいのか、それとも少佐で練習して、他の人に奉仕して褒められるようになれたらいいのか、どっちなのか分からなくなってきました」 「……」 「あっ、他の人のを口でするだけなら、浮気のうちに入りませんよね」 コナツは負けなかった。気が強いとは思っていたが、ここまで強腰だとは思わなかった。相当な精神の持ち主で、執念深さには適わない。小さな時から苦境を生き抜いてきたのは伊達ではないのだ。 「もう分かった、分かったよ」 ヒュウガが手を挙げて完全に降参した。 「……」 「オレの負け」 「……ほんとに?」 「ほんと。コナツに迫られるとマジで弱い。アヤたんには打たれても平気なんだけどさ」 決して平気ではないのだが、鞭で打たれても懲りずに寄って行くヒュウガである。アヤナミに手酷い仕打ちを受けながら、それを望んでいるような素振りでちょっかいを出し、また打たれるという悪循環になっているが、アヤナミに構って欲しいヒュウガにとって、それが好都合なのだった。なのにコナツに対しては同じようにはいかない。部下として可愛がって愛の鞭を与えても、「少佐なんか嫌い」と言われたら泣きそうになってしまう。コナツが居ないと困るのだ。まるで娘に嫌われる父親のようだとさえ思うこともある。いや、妹に嫌われた兄の心境か……と悩むも、コナツを娘や妹に置き換えている時点で何かが間違っているということに気付いていない。 「しかしコナツって怖いよね」 「私は怖くなんかないです」 「将来旦那を尻に敷くタイプだよ」 「……あの、もう一度仰って頂けますか?」 コナツがにっこりと笑って促した。否、口は笑っているが目は笑っていない。 「だから、恐妻っての? そういう場合は大人しい旦那さん貰ったほうがいいよ。オレみたいな」 「……」 コナツのこめかみがピクピクと反応している。 「余計なお世話かも知れないけど」 ヒュウガがぼそりと呟くと、コナツは大きく息を吸い、大声で叫んだ。 「ですから! 私は貰うならお嫁さんで、なるなら亭主関白ですっ」 「えっ!」 「なんですか、えっ、て」 「そ、そうだったの?」 「ですから何がです!」 「コナツ、ウェディングドレス似合うと思うんだけど」 「似合うとかいう問題ではなく」 「重要だよ!」 「……」 「なんてね、どんなに怖い奥さんだろうとコナツはよく尽くしてくれるから、それだけで十分なんだけど」 「その奥さんという表現をやめて下さい。それに私はベグライターですから少佐に尽くすのは当然です」 「そりゃそうだけど」 「でも、少佐が先に白旗を掲げてくれて良かった」 コナツがほっと胸を撫で下ろした。 「どうして?」 「これ以上少佐に迫ることは不可能でした」 「ええっ、そんなふうには見えなかったけど!? 怖いくらいガツガツ来てたじゃん」 「演技ですよ!」 「マジでー!?」 「バレてるかと思いました」 「気付かなかった。不覚! って、まさかあの時泣いたのも? 全部演技?」 驚きながらヒュウガが訊ねると、コナツは途端に黙りこみ、暫くしてからようやく口を開いた。 「……前半は本当です。だから、後から恥ずかしくなってしまって。私こそ不覚でした」 「コナツ……」 「だって、少佐意地悪でした」 コナツが呆れながら指摘すると、 「ち、違うもん! コナツがいけないんだもん!」 子供のような言い方で弁解をしようとするが、コナツは落ち着きを取り戻し、冷静な声で諦めたように呟く。 「もしかして、私を試しましたか?」 ヒュウガがすることに無意味なことは何もないのだと気付いた。だから、執拗に攻めたのは理由があるからで、その事実を確かめたいと思った。 「あー、うん、まぁ」 「やっぱり」 「置かれた状況で一度にどんな感情に動かされても、揺らぐことなくすべての思考を逆転させて考える癖をつけないといけないからね」 「……つまり、少佐のしたいことと私がしなければならないことを一度に終わらせるためにしたこととはいえ、私が色んな感情に支配されて何処までもつのか見たかったんですか」 「そうだね。最初こそパニクってたけど、なんとかなったみたいだし。キスしてくれないからって泣かれるとは思ってなかったけど」 「結果的にはそうですが、途中はもうめちゃくちゃでした」 「コナツのこと、仕事させながら気持ちよくさせて、焦らして我慢させて耐え忍ぶ姿が見たくて、それだけにとどまらず煽って悲しませて、ちょっと妬ませてから怒らせて、それから泣かせて悔しがるところが見たくなった。困らせてみようかと。これだけのことしたらどうなるかなって」 様々な感情を一度に味合わせてみたかった。混乱し惑乱しながら涙を零すコナツの泣き顔を見て良心が痛んだが、 「あれが演技じゃなければオレは嬉しい」 「演技もなにも、快感と忍耐、悲しみと妬み、怒りと悔しさと困惑、そして最後には泣かせるって、どんなシナリオですか! だからって私は演技なんか出来ません! 私が心底悲しい思いをしたのに、嬉しいなんて酷いです」 「悲しい?」 「もう一人ベグライターを付けるとか、心臓が止まりそうになりました。それだけは嫌だった。完全な嫉妬ですね、他の人に少佐を盗られてしまうって焦りました」 「それってオレのこと凄く好きで独り占めしたいみたい」 「ええ、全くその通りですが」 「わー、嫉妬されるって何かくすぐったいねぇ」 「喜んでますよね?」 「うん」 「やっぱり酷いです」 「コナツだってどっか他の上官と寝るって言ったじゃん」 「それは少佐の言い方に合わせたまでです! でも、それは私のも嘘ですね。そんなつもりは更々なかったのに」 「しかも過去の男性経験まで飛び出したんだよ。オレだって心臓止まりそうになった。っていうか止まったね。オレがベグライター付けるより信憑性ある話だし」 「あるわけないでしょう。それこそ有り得ないです」 「過去話はともかく、現実問題として有り得るよ。身の危険を知らないのはコナツ本人だけ。お前みたいに見た目が目立つのはすぐに狙われる」 「はぁ? 何を仰るのか」 「金髪の子は少年好みのオッサンに目を付けられやすい。年齢がいってる上官を落としたいなら、尚更。オレには冗談には聞こえなかった」 「……」 「ここだけの大人の話、男はさぁ、ぶっちゃけ好きでもない女でも抱けるわけ。そんでそっち系の男は、目当ての相手が居れば場所なんてトイレだって物置だって何処でもよくって即やりたいって思うの。そういう生き物だから。それはコナツも分かるでしょ?」 「!!」 「女の子は気持ちがないと関係持てないって言う子も居るけどね、むしろそういう子の方が多いけど、それが男の女の違いなわけで、コナツはさ、好きでもない男に抱かれるの平気?」 「……」 決して恋愛経験が豊富ではない。だから、想像しても分からないことだらけで何一つ答えることが出来なかった。 「それにさぁ、アヤたんじゃないけど、オレだってこういうことに関しては嫉妬深い方だから、コナツが他のヤツと寝るっていうのなら、こっちもやたらとマーキングしたくなるの」 「え?」 「コナツはオレのだって躯に教え込むし、そういう印を付けたくなる。コナツがもし誰かと寝てきたら、帰ってきた途端すぐに犯しちゃうと思う。前のやつの名残とか消し去って、自分の匂いを付ける、みたいな」 「……なんか動物のよう」 「そりゃそうでしょ、動物だって人間だって性に関しては根本的には同じ。だから、コナツは一日で二度も違う男に抱かれることになるよ」 「……」 「オレもさ、結構ギリギリなわけ。いつ誰にコナツ奪われるのか心配でさ」 「ないですって」 「オレがどれだけ予防線張り巡らせていると思ってるの」 「何ですか?」 「いや、いいんだけどね」 「?」 「でも本当はこんなことがしたかったんじゃないよ。 取り敢えずオレとしては試すよりも色々してみたくていたずらしちゃったけど、でもそれは全部嘘だったのさ」 「は?」 「嫉妬させたり怒らせたり、泣かせたのも、ただの仕掛け。仕事だってさせたくなかった」 仕掛けはすべて嘘。 「どういう……意味ですか」 「はい、これを上げたかった」 机の引き出しから取り出した或る物をコナツに差し出す。 「? ……あっ、これ!」 「うん、糖分補給」 キャラメルだった。 「な、何故に!? 普通に渡して下さればいいじゃないですか。仕掛けって何です!?」 「ちょっとした喧嘩がしたかったのぉ」 ヒュウガがデレデレと呟いた。 「何と?」 「言い合いとかぁ、殴り合いは無理でもぉ、軽くスレ違い?」 「……」 「機嫌損ねさせて、そんでぇ、仲直りするのにこれあげるってやりたかったんだー」 「……」 「だからコナツが参謀部から出て行くところまでは予定通りだったんだけどね」 「……」 「戻ってきたし。コナツ本格的に怒ってたから怖いと思って」 「当然ですが」 「だから、今あげるよ」 「……少佐……あなたという人は」 「えー? でも、コナツの感情のコントロールを鍛えるのも目的だったんだよー」 「もう何も言えません」 「いやいや、楽しかったでしょ?」 「知りませんっ」 「ほら、すぐむくれるんだからー。それ食べて落ち着きなよ」 コナツは手のひらにあるキャラメルを凝視した。 「これはもしかして春夏限定のですか?」 「そうだよ、限定のやつを全部揃えた」 「揃えた?」 「うん、たくさん買ってきたの」 ヒュウガがよくコナツに贈っているアンリルルーのキャラメルだが、今回買ったのはシトロン・ヴェールにアナナス・ベ・ローズ、ディアブル・ローズにピナコラーダ、そしてシトロンの5種類だった。その中でも今コナツに手渡したのはピナコラーダで、 「これねぇ、これがねぇ、シャワー浴びたときのコナツって感じなんだぁ」 ワケの分からないことを言い出した。 「は? はいっ!?」 「この色がさ、コナツの濡れた髪の色とかぶるっての?」 「はいーっ!?」 ピナコラーダの特徴はパイナップルにココナッツの風味を加えた常夏の味である。見た目も柔らかなゴールド系ブラウンで、甘い雰囲気がある。 「お店で特別にポットに詰め合わせて貰っちゃった。勿論、コナツ用だからね」 「私の? 私に全部!?」 「そう、オレの部屋の冷蔵庫に入ってる」 「いつの間に」 「今日、外に出る用事があったからね、寄ってきた。なんていうのは便宜上で、買いに行きたいからそっち方面の用事を作って貰った」 「またそのようなことを! 本当に抜かりないですね」 「だって普通にあげたらインパクトないし」 「だからって何故にこんな複雑……キャラメルを渡す為の伏線が私を泣かせることだったとは。しかも、今こんな時に一つだけ下さるって、このやり方が……」 偶然なのか計算通りなのか、実に巧妙だった。 「もっとホントのこと言うなら、机の上でオレがコナツ弄り倒しながらキャラメル喰わせて仕事の報告しろってのがやりたかったの」 「そんなバカな!」 食べながら仕事、淫らな動作、怒り、悲しみ、焦り……対処できるはずもない。 「それは無理だろうと思ったからしなかったけど」 「私をどれだけ苛めれば気が済むのですか」 「苛めてないよ! っていうか苛められてるのはこっちだよ」 「何処が!」 「弄ると三倍返しみたいに衝撃発言するし」 コナツは意識しているわけではなく、発言の内容が濃いのだ。 「マジで、誰かと寝るとか言わないでよねー」 「少佐だってベグライター募集しないで下さい!」 「しないよ。なんでオレが二人も。大佐でさえ居ないのに。もしかしたらコナツが一人で忙しそうにしてるから手伝ってくれる人が欲しいと思ってるかもしれないと考えただけ」 「絶対に反対です」 「分かったって。あのね、雇ってもいいけど、コナツはオレがその子に奪われるって言うけどさ、そいつにコナツが奪われる可能性だってあるんだよ? 危険すぎる。現にシュリなんかコナツのこと大のお気に入りだし」 「あれは……ただ……」 「何さ、そのうちオーク元帥に『パパ〜、コナツお兄様をボクのものにしたい〜』なんて言いかねないよ。そしたらコナツはオーク家に嫁に行くことになる」 「ぞわっ」 背筋が震えた。 「シュリはそういう意味で私を慕っているのではありません!」 「おやおや、シュリはコナツの強さに惹かれたんだよ? どっかの誰かさんもそうだったよねぇ?」 「!」 コナツもヒュウガの強さに惹かれた。そうして想いが深くなった。 「……私、少佐以外は駄目です。シュリがどうとかじゃなく、他の誰かなんて、触れないし、触られるのも考えられない」 「えっ」 やはり、そうなのだった。例え誰かに情熱的な告白をされても、そこから発展することは何もないと思った。 「女の子みたいだって笑えばいいです」 「ええっ」 「もう、少佐しか……少佐じゃないと感じないかも……かもじゃない、絶対そうです」 「えええっ」 「少佐は他の男の子でも女の子でも相手に出来るんでしょうけどね」 「いや、なんでそう来るかな。だから、オレはもう興味ないんだって。可愛い子見ても反応しなくなっちゃったし。そりゃ、いいな、可愛いなって思うことはあるよ、普通に思うけど、それ以上は何もなし」 「……」 「前は、こう、それなりだったのにさぁ。ちゃんと男としての欲求が芽生えたりしたもんだけど今枯れちゃったよ。なんだかなぁ。それなのにコナツ相手だと興奮しすぎて早漏みたいになるし、こんなはずでは……」 コナツを相手にすると、あれだけ自慢だったコントロールが不能になるときもある。 「それに関しては自分なりに分析してるけど」 「ぶ、分析?」 「オレの方が純情なんだってこと」 「え。今なんて?」 「一途で純粋」 「誰がです」 「オレ」 「……」 「不服そうだけど?」 「いえ、何でもありません」 「大体さ、コナツが可愛いからいけないんだよ?」 「またそれですか!」 耳にタコが出来ている。一日に何度もそういう台詞を聞かされて、しかも褒め言葉にはならないから嬉しくもない。 「そうやって嫌がるところもキュンキュンしちゃう」 「少佐おかしいですよ!?」 「何とでも言って」 「もう呆れたのを通り越して疲れました。正直なところ泣き疲れです」 「あらー」 まだ目尻が赤く腫れている。 「私、廊下でずっと泣いてたんですからね!」 「うわ、何そのキュンキュンなシチュエーションは」 「そうじゃなく! 最初はキスしてくれなかったから涙出たけど、無理な要求にいっぱいいっぱいになって悲しいやら悔しいやら。部屋に帰ってサンドバッグ殴るくらいじゃ気が済まないと思って。でも、焦りのほうが一番大きかったかもしれません。そしたら涙がいっぱい出てきちゃいました」 「焦りが大きかった?」 「明日になったらちゃっかりベグライター連れて来てたらどうしようかと」 問題はそこだったのだ。 「だから、ないって」 「あ、でも少佐みたいにいい男なら歓迎しますね」 「怖っ。大体コナツより年下でいい男ってどんなよ? どんだけ老けてるの」 「ですから冗談です」 「それにオレ、別にいい男じゃないし。まぁ、実際はデキる男だけどねっ」 「普段サボり魔の少佐がデキる男と謂われるのは、悔しいですが認めざるを得ません。その通りですから。それに少佐はかっこいいですよ」 「サングラスが? 取り敢えず身長が?」 「全部です。っていうかいやらしい?」 コナツがはっきりと答えると、 「えーっ、そういうキャラじゃないと思うんだけどなぁ。オレとしては可愛さを前面に出してるつもりなんだけど」 ヒュウガが真面目な顔で自己紹介を始めた。 「……」 「りんご飴はその象徴! 喋り方とかも意識してるし! こう、語尾にハートマークとか星マークとか付けてる感じにしたり。常にフレンドリーにニコニコ営業スマイル! ね、可愛いでしょっ?」 「……可哀想に」 「ちょ、何、その哀れみの眼差し」 「少佐の外見がせめてクロユリ中佐のように愛らしければ、それも有りなのですが……残念なことに努力は余り報われていないと思われます」 「……」 「あ、ええと、確かに可愛いと思うこともなきにしもあらずですよ」 急に大人しくなったヒュウガに対して、本音を打ち明けたせいで傷付けてしまったのではと配慮し、微妙なフォローをする。 「ほんと?」 「絵を描くのもお上手ですし!」 「うん、まぁね」 「というか、優しい」 「ええ?」 「そうなんです、少佐はそうなんです」 「?」 「あなたは……どうしようもないくらい……優しい」 「……」 「だから、私は……」 コナツの独り言が止まらなくなった。これぞ本音中の本音である。あれだけ無茶なことをされても、最後に与えられる甘い感触に酔ってしまうのだ。 「ああ、もういいよ、その先は言わなくても」 「でも」 「言わない方がいい」 「……っ」 「お喋りは終わりにしてさ」 もう日付けが変わってしまっている。部屋に居るのと職場で長居をするのでは疲労の度合いが違うのだ。 「はい。じゃあ、最後に一言だけ。キャラメル、ありがとうございます」 「明日の朝、ポットごと持って来るから」 「楽しみです。そうやって私好みのものを私が欲しいと思ったタイミングで用意するところが上手なんですよね。全部私が頂いちゃいます」 「どうぞ? それも今食べたら?」 てのひらの上にある夏の味。 「それにしても、これの何処が私のイメージなのか」 まじまじと見つめて呟くも、 「中身も見た感じも、そのものだよぅ」 「分かりませんね」 「濡れた髪とか、オレらの関係とか、季節とかぁ」 「はぁ? ……案外少佐って詩人なのかも?」 「えっ、どういうこと?」 「想像したり、物を何かに例えたりするの得意じゃないですか」 「そうかもね」 「でも私、これ、大好きです。頂きます」 コナツが素直にペロリと口の中に収めてしまうと、 「今だからでしょうか、特別に美味しいです」 満足そうに微笑んだ。 「それは良かった。味見出来なくて残念」 「あ、半分こにするべきでした」 申し訳なさそうにくちびるに手を当てていると、 「ん、オレが欲しいのとコナツが欲しいものを同時にすればいいわけで」 「!?」 「やっぱ、これでしょ」 ヒュウガがコナツの顔に近づけて顎をとった。 「まさか……」 「ここにキス、欲しかったんだもんね」 「!!」 それはそれは濃厚なくちづけで、夏の終わりを惜しむような切なさを交え、ヒュウガはコナツのくちびるとピナコラーダの常夏の味を同時に味わった。そしてコナツも、本当に欲しかったものを与えられ、試された罠を甘酸っぱい夏の思い出として胸にしまうことにした。 ここが仕事場ということを忘れてしまうようなひとときだった。こんな形で仕事をしながら想いを深めるのも、たまには許されてもいいのではないか。こんなふうに愛し、愛されることが語り継がれてゆくのならば。 夏が終わる。 そうして秋がやってくる。秋は人が恋しくなり、だからきっと、二人は夏よりももっと熱く長い夜を過ごすことになるのだろう。 |
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