大切なひと


ハルセが焼きもち焼きなのは分かっていたことが、実はクロユリもそうであることが最近になった分かった。普段のクロユリはヒュウガと並ぶほど飄々としている上、時に喧嘩腰で、他人には余り執着をしないと言い切ることもあったし、焼きもちを焼くなどという可愛い性格ではなかったはずだ。だが、現実は少し違っていた。
とりわけハルセのクロユリに対する想いは濃すぎるほど濃いのは辺りも呆れるほどで、毎日のように顔を合わせているブラックホークのメンバーでもハルセの行動は呆気にとられることが多かった。
そんな或る日の会話である。
「そんなのいつまでもとっておいてるほうがおかしい」
ヒュウガはハルセが持っている一枚の紙を見て呟いた。
「でも、これはクロユリ様が初めて一人でお遣いしたときの領収書なんです」
「うん、それは分かるけど、なんで君が持ってるのかな」
ヒュウガが順序立てて訊ねると、
「いわゆる私へのプレゼントを買ってくれたときのものなので、プレゼントと同じようなものです。買ったときの日付けや時間が記されているでしょう、これはいい記念になります。クロユリ様に無理言って譲って頂きました」
ハルセは目を輝かせて答えたのだった。
「あ、そう」
なるほどね、とヒュウガは妙に納得した顔で呟いた。
「オレもアヤたんが何か買ってくれたらレシートだけじゃなくて包み紙までとっておくかも」
「ですよね! もちろん、それもとってあります! ただ、それらは持ち歩けないので、こうして領収書だけを手帳に挟んでいるというわけです」
「分かる分かるー。って、実際にはそんなことしないけどさぁ」
性格上、ヒュウガもそこまでマメなことは出来ない。それを聞いていたクロユリは、
「ほんと、ハルセは変なんだよ。僕の行動を逐一チェックしてるだけじゃなく、僕が誰かと親しく話してるとすっごい目で相手を睨んでるし」
ハルセの現状をあれこれと暴露したのだった。
「クロユリ様、それは……」
ハルセが口ごもると、
「やだなぁ、クロたん、それは焼きもちってやつだよ」
「えー? なんで焼きもち?」
「そんなのハルセがクロたんのこと好きだからに決まってるじゃない」
「分かってるしー」
「ク、クロユリ様っ、ヒュウガ少佐っ」
3人の会話は慌しく続けられ、今が最高潮とばかりに盛り上がってるところへ、
「ゴホン」
仕事をする気の無い3人にカツラギが咳払いをした。
「楽しそうですが、午後からまた忙しくなりますよ」
スケジュール帳を見ながら促すと、最初にクロユリが声を上げる。
「はぁい。またいっぱい紙っきれが運ばれてくるの? 事務仕事って細かいことが多いから嫌いだよー。僕もヒュウガと同じで実践のほうが好きだなぁ」
「オレは実践しかしないよ」
ヒュウガが言い切り、
「私はお菓子作りのほうが得意です」
ハルセが言うと、
「それはちょっと違うよ、ハルセ君」
「うん、違うね」
ヒュウガとクロユリが突っ込みを入れた。だが、ハルセはそれに構わず、
「この間作った新作は中々イケると思うんですが」
自信満々な顔で思いを述べた。
「……」
その際に試食を勧められたヒュウガが黙り込んだ。
ヒュウガは決して悪食ではない。度々開発されるクロユリのために作った食品の味見をさせられ、最近は体調を崩し気味だ。心なしか1キロ体重が落ちてきている。
「あ、ハルセのお陰で僕は最近食べるのが凄く楽しみなんだ!」
クロユリが顔を輝かせると、ヒュウガは苦笑し、
「まぁ、それが一番なんだけどね」
クロユリを見つめた。その視線は慈愛に溢れ、心からクロユリを想う暖かさが滲み出ていた。ところが、それを見ていたハルセが突然、
「少佐はクロユリ中佐のことがお好きなんですね」
そんなことを言い出す。
「は? オレが何?」
「ですから、クロユリ中佐のことを……」
「ああ、好きだけど?」
ハルセが先を言えずに言葉を切ったところでヒュウガがはっきりと意思を示した。ハルセがぎょっとしているところへ、
「えーっ、やだなぁ、僕、もてもて?」
クロユリが顔を輝かせている。
「でもね、クロたんの好きな人はアヤたんなんだよね。そんでアヤたんもクロたんのこと好きなんだよね」
ヒュウガが面白そうに言っている。
「きゃー、何言ってるのぉ」
少女のように頬を赤くして目を伏せたクロユリは、
「でも、僕、ヒュウガのことも好きだから。わっ、言っちゃった!」
そう言って両手で顔を隠したのだった。
「あー、もう、クロたんってば可愛いねぇ」
ヒュウガはクロユリの三つ編みの先を突付きながらからかう。2人がいちゃいちゃと仲良くしているのを見て、ハルセはただ呆然としていた。
「……」
学生のノリでキャッキャと騒いでいるのは、ここにアヤナミが居ないからだった。居たら勿論、こんな会話は出来ない。出来るとしてもヒュウガ一人くらいで、クロユリは恥ずかしがるし、ハルセに至っては緊張して固まっているだろう。
「お三方、そろそろ仕事をして頂かないと」
少し離れたところからカツラギが再び咳払いをする。
「はい、すぐに」
返事をしたのはハルセだけで、ヒュウガはあくびをしていたし、クロユリは「眠い」と言って口を尖らせている。
「もうすぐアヤナミ様が戻られますよ」
「え、マジ? やっとアヤたんの顔が見られる!」
「わぁ、じゃあ仕事しなきゃっ」
カツラギの一言でヒュウガとクロユリが喜び、やる気満々でデスクワークに取り掛かったが、ヒュウガは1分も立たないうちに飽きてしまった。
「少佐も補佐をお付けになったらどうです」
カツラギが言うと、
「カツラギさんも居ないじゃないですか、ベグライター」
「私はアヤナミ様のベグライターのようなものですので」
「うーん、オレじゃあアヤたんの補佐は出来ないからねぇ。っていうか細かいこととか無理だし? 管理出来ないっていうか?」
「ですから、少佐の管理をしてくれる補佐が必要なのでは」
「色々考えてるんだけどさぁ」
「軍にはベグライター試験を受けて合格した新人が居ますよ」
暫しカツラギとヒュウガの会話が続く。
「うん、知ってる」
「……もしかして選り好みしてます?」
「あは、バレた? オレ、もっと若い子が好きなんだよね」
「そうだろうと思ってました。ならば士官学校に視察に行かれるといいです。卒業を控えた若い学生が選り取りみどりで揃ってます」
「どうしよっかなぁ、簡単には決められないし、迷っちゃうよ」
「少佐は好みが激しいのです。選びすぎですよ。しかも、若いだけならともかく、綺麗で可愛い子が好きなんでしょう? 男の子でもね」
「なっ、なんで知っ……」
「そんなの誰でも知ってます」
「うそっ」
わざとらしく驚いてみせたのは演技であり、今更隠すつもりもなかった。
「だけどね、遊びじゃないし、新人を育てていくという義務もあるわけだから、ほんとに考えちゃうわけ」
ヒュウガが真剣に悩んでいると、
「まるで結婚相手を探しているみたいですね」
カツラギが真顔でそう言った。そこへ、
「なんか、お見合いって感じ?」
クロユリがあっけらかんと呟く。
「面白いこと言いますね、クロユリ中佐」
カツラギが笑っていた。
「僕にはハルセが居るからね、いい人を見つけたなって思うよ」
その意見に異議を唱える者は居なかった。
ただ、独り思い悩む人物が居た。クロユリに褒められたハルセである。夜になって仕事を終えて部屋に戻る際、
「私とクロユリ様は上司と部下であって、それ以上でもそれ以下でもなく……」
独り言を呟いている。
「え、何か言った?」
少し前を歩いていたクロユリは、後ろを振り返ってハルセに訊ねた。
「いいえ、何でもありません。でも、私はまだ軍に入ってまだ日も浅いですし、クロユリ様のベグライターとしてお役に立っているかどうかも怪しいし」
引き続きハルセの独り言が続いていたが、それを聞いたクロユリは、
「うん? なぁに、ハルセが役に立っているかって? 昼間も言ったけど、これ以上のことはないくらい僕に尽くしてくれてるじゃない」
「そう仰って頂けるのは有り難いのですが、私とクロユリ様の関係がですね、どのようなものかと思いまして」
独り言の続きとしてハルセが呟く。
「なんで今頃そんなことを?」
「なんとなく……」
「僕とのことを気にしてるの?」
「少し……いえ、かなり」
「ふぅん」
これはもう独り言ではなく、完全な会話である。そして、次第に妖しく深みを帯びている。
「すみません、どうでもいいことですよね」
ハルセが薄く笑った。
「どうでもいい? そんなわけないじゃないか」
「そうですか?」
「確かにハルセは僕のベグライターだけど、僕の大事な友人でもある。今では無二の親友だよ。そして……」
「そして?」
「あとは内緒」
「内緒、ですか」
「うん、お兄ちゃんみたいだし、背が大きいところはお父さんみたいで? でも料理が得意なところはお母さん!」
「……家族?」
「そうだね、そうとも言う」
「内緒だと仰ったのに、ぜんぶバラしてしまわれて」
「えー? だって内緒だもの」
本当のことは。
そっと心の中で呟き、クロユリがにっこりと笑った。
「でも、嬉しいです、クロユリ様」
友人であり、親友であり、家族のようなものであり、ただの機械的なベグライターという間柄を越えて付き合えることを誇りに思う。
「僕もハルセが居てくれるから毎日楽しい」
「光栄至極に存じます」
ハルセは右手を胸にあて、長身を屈めて礼をした。
「ハルセは、僕のもの」
「クロユリ様?」
「ううん。ねぇ、ハルセ」
「何でしょう」
「抱いて」
「はっ?」
突然の台詞にハルセが頓狂な声を上げた。
「部屋まで僕を抱いてって。僕、歩くの疲れちゃったの」
「ああ、そのことですね、お安い御用です」
ハルセは軽々とクロユリを抱き上げた。が、内心では心臓が飛び出しそうになるくらい驚いていた。てっきり違う意味での台詞かと思ったが、勘違いしてしまった自分を恥ずかしく思う。確かに、幼い大きな瞳で見上げられて抱いてと言われても違和感があった。我が上司ながら小さくて子供のようで、もし軍人でもなく黒法術師でもなければ、その辺の小学生にしか見えない。こんなにあどけない少女のような顔立ちのクロユリが、いかがわしいことを考えているはずもないとハルセは自身を戒め、あらぬ妄想を慌てて頭から追いやった。だが、その後、部屋に着いてから、
「僕、シャワーを浴びてくるから待ってて」
そう言われてハルセはバスルームへ消えたクロユリが戻るのをじっと待っていた。クロユリはシャワーが長い。髪を洗うことに時間をかけているために仕方がないのだが、戻ってくる頃にはドクロ柄のパジャマを着て跳ねてやってくる。ふんわり甘い香りはボディソープの残り香か。ここまでくるとあらぬ妄想がまた蘇りそうになる。
「お待たせー!」
「ウサギさんみたいですね」
「そぉ?」
「白くてピンクでぴょんぴょんしてて」
「かな? じゃあ、ウサギさんごっこでもしようか」
「なんですか、それは」
ハルセが笑うと、
「でも、もう眠い」
クロユリは目を擦ってベッドへよじ登った。
「そうですね、今日はお疲れのことと思います。さぁ、私がついていますから、ゆっくりお休み下さい」
「うん、僕が寝るまでそばに居てね? 眠ってからもすぐに帰っちゃやだよ?」
「分かりました」
ハルセはクロユリがもぞもぞとベッドに入る姿を見つめ、そっと毛布を掛けた。
「おやすみ、ハルセ」
「おやすみなさいませ」
一旦目を閉じたのに、すぐにぱっちりと目を開け、
「えへへ」
そうやって子供のように笑い返し、再び目を閉じたあと、すぐに寝息を立て始めた。
「可愛い方ですね」
ハルセの言葉はクロユリに聞こえることはなかったが、そうやって暫くの間、ハルセはクロユリの寝顔を見ていたのだった。

翌日、ハルセがクロユリを迎えに行くと、クロユリは既に着替えを終えて待っていた。
「おはよっ、今日もいい天気だね!」
クロユリはすこぶるご機嫌である。
「ええ、いい朝です。今日も頑張りましょう」
「うんっ」
晴れた日の朝は清々しく、目覚めもいい。クロユリは早くに目を覚まして窓を開け小鳥を眺め、歌を歌い、小鳥たちと戯れた。そんな日はいいことがありそうな予感がしてわくわくする。ハルセが来るまで自分で髪を結い、着替えも済ませて準備をしていた。手のかかる子供だと言われないように身だしなみを整えて、綺麗な姿でハルセに会いたいと思っていた。
そうして二人は参謀部に向かった……のはよかったが、途中でハルセは軍に入ったばかりの新人に声を掛けられた。そもそも、ハルセは歩いていると何かしら道を聞かれたり訊ねられることが多い。一見優しそうで人がよさそう、そして人よりも背が高く目立つことが理由であった。当然ハルセは快く教えてやり、時には誘導してやることもある。そのたびにクロユリは黙って見守っていたが、今日声を掛けられたのは若い女性軍人だった。しかも数人居て、彼女らは以前からハルセを知っているような口ぶりで話しかけてきた。
「ハルセさんですよね? 先日手作りの美味しいお菓子を持っていらした」
「はい、ああ、あの時の!」
「すみません、お菓子の味見をさせて頂いたお礼、まだしてなかったので」
「これ、私たちが作ってみたんです。ハルセさんの腕には適いませんが、是非どうぞ」
「あっ、ありがとうございます!」
そんなやり取りが行われる中、
「誰?」
俄然不機嫌になったクロユリがぼそりと呟く。
「この方々は先日私のお菓子の味見をして頂いた同じ陸軍の軍人さんです」
「……」
クロユリが何か言ったが、声が低かったため、ハルセには聞こえなかった。ハルセは腰を屈め、
「すみません、聞こえなかったのでもう一度仰って下さい」
そう言ったがクロユリは面白くなさそうな顔でぶつぶつと何かを呟いている。
「クロユリ様?」
ハルセが今度はクロユリと同じ目線になるようにしゃがみ込んだ。そうすればきちんと顔も見られるし声も聞こえると思ったのだ。
「バカハルセ」
クロユリがそう言った。
「あの?」
「抱っこ!」
「ええ?」
「いいから抱っこして」
「は、はい」
言われるままにハルセはクロユリを抱いて立ち上がった。
「すみません、私の上司です」
目の前の女性達に紹介すると、
「えっ、初めまして! クロユリ中佐ですよね!? ああ! 噂にはお聞きしていますがやっぱり可愛らしい!」
何故か女性たちはクロユリを見て盛り上がっていた。
「可愛い……って、僕が?」
言われたクロユリは口をあけて呆れていたが、女性を前に暴言を吐くことはない。だが、クロユリは自分が黒法術師であり、ブラックホークに所属していることを隠していないため、周りから恐れられることが多かった。それなのに、この女性軍人たちはクロユリの恐ろしさを解していないのか、知っていて外見に惑わされているだけなのか、まるでアイドルを見るように興奮している。
「可愛いですよ?」
ハルセが追い討ちをかけるように付け加えた。
「ばっ、何言ってるの!」
華やかな女性軍人に囲まれながら喧嘩が勃発しそうな、妙な雰囲気が出来上がってしまったのだった。

参謀部に戻ってからもクロユリは口を尖らせていて、
「僕、機嫌悪いの」
ヒュウガやカツラギに幾度となく訴えている。
「何したの、ハルセ君」
原因はハルセにあると思ったヒュウガは、直接ハルセに訊ねた。
「はぁ、さきほど女性軍人の方に囲まれまして……」
「え、誰が?」
「私が……」
「なんで?」
「実は先日、作ったお菓子を一休みしながら味見していたのですが、その時通りかかった女性の皆さんと目が合いまして……黙っているのもなんなので、試食して頂いたんです。その時のお礼ということで、皆さん揃って私のところに来て下さったんです」
ハルセはゆっくりと事情を説明した。
「試食? そんな女心をくすぐっちゃうようなことしちゃったの?」
「別にくすぐったわけではないんですが」
「そういう意味ではなく。でも大抵の女の子は甘いの好きじゃん」
「ナンパしようと思って味見して頂いたわけではありません」
「それは分かるけど、味見はクロたんがいるでしょ。あとオレも控えてるし」
「ですから、クロユリ様はお昼寝されていたんです。少佐もいらっしゃいませんでした」
「あー、もしかして午前中に遠征した日? 確かクロたんヴァルス玉ぶっぱなした日かな。あのあとすぐに寝ちゃったもんね。オレはアヤたんと遊んでたし。遊んでたのはオレだけでアヤたん冷たかったけど」
「そうです、その日です。ですから私が一人で外におりましたら、そういうことになったと」
「はぁ、そりゃ面倒なことになったね」
「ですが、クロユリ様は私に対してはいつもクールで動じることがないので、今回もそうだと思ってました」
「焼きもち焼きはハルセのほうだしね」
「……もしかしてクロユリ様が怒っていらっしゃるのは焼きもちなんでしょうか」
「どうだかねぇ」
そんな会話があった後、夕方から緊急会議が行われるという連絡が入った。クロユリは出たくないと駄々をこねていたが全員出席を余儀なくされ、渋々顔を出すことにしたのだった。
「クロユリ様はお疲れのようですので、早めに終わるといいのですが」
ハルセが気を揉んでいる。
「疲れてなんかないもん」
対してクロユリはまだ機嫌が悪いようだ。
「移動の間は私が居ますから」
抱いて運ぶ、というのである。
「歩いて行けるよ」
「ですが……」
「いいの」
「そうですか?」
と、ここまではよかったのだが、会議室に移動中、ハルセはまたしても友人から声を掛けられた。
「よう、ハルセ」
ハルセが軍に入った頃から親しくしている友人で、ブラックホークに入ってから疎遠になってしまったが、それでも時折姿を見かけると声を掛けてくれるようになった。
「久しぶりです、その後どうですか」
「うん、まぁ、ぼちぼち。お前も元気そうだな」
「毎日忙しいけど、それなりに頑張ってます」
「なら、いいんだ。最初は心配したけど……」
彼はハルセが突然ブラックホークに入ってしまったことを憂慮していた。元来、ブラックホークは特別部隊であり、そうそう表舞台に出ることはないため詳細は知らされていないが、だからこそ身勝手な噂が先行し、時にはあることないことが吹聴されることもあった。そのため何よりも恐れられる存在となってしまった。実際、それほどの力を持つのがブラックホークであり、恐れられるだけでなく、黒法術使いとして忌み嫌われてしまうのも仕方がなかった。
「ありがとう。今でもこうして声を掛けてくれるから嬉しいよ」
「まぁ、お前はいいやつだし。また何かおいしいもん作ってくれよな」
「ぜひ」
実に和やかな会話がなされている。一緒に居たクロユリは小さいために視界に入っていないようで、存在を無視されたピンク色の髪の少女のような中佐は、
「ハルセ!」
一層不機嫌な声で自分のベグライターの名前を呼んだ。ハルセの友人はビクリと驚いていたが、
「はい、クロユリ様、すぐに会議室に参りましょう」
ハルセはあくまでも冷静に答えた。すると、クロユリはまた両手を伸ばし、
「抱っこ!」
そう叫んだのだった。
「は! はい、では失礼します」
クロユリの脚に手を添えてゆっくりと抱き上げる。
「もう! お仕置き!」
ハルセの頬を引っ張って嫌がらせをしている。
「ク、クロユリ様!?」
「僕が小さいからって誰も気付かない。皆ただの子供だと思ってるんでしょ」
「そのようなことは……」
「大体お前!」
次にハルセの友人に向かい、ビシッと指を指した。友人は何事かと躯を強張らせたが、
「僕のハルセに馴れ馴れしくしない!」
そう言って舌を出して小ばかにするような仕草を見せた。完全にクロユリは嫉妬をしているのだった。

それからは会議中もハルセの腕の中から出ようとせず、最後にはうとうとと眠ってしまい、ハルセはハルセで降ろせば目を覚ましてしまうと気を遣い、クロユリが起きるまでずっと腕に抱いていた。
目を開けたのは深夜2時。
「ん……。あれ?」
「お目覚めですか」
「……ハルセ? って、ここは?」
「クロユリ様のお部屋です」
「え、なんで僕寝て……って、なんで?」
深夜に目を覚まし、自分の居る状況が把握できずにいると、
「起こしたくなくて……」
「僕、会議に出てるうちから寝ちゃったんだ?」
「はい」
「でも、部屋に入ったら降ろしてくれてもよかったのに」
「申し訳ありません、つい……」
熟睡していれば、たとえベッドに移動されても簡単には目を覚まさない。ハルセはそれが分かっていたが、敢えて抱いていた。
「ほんとはこのままで居たいけど……」
小さな手でハルセの腕を掴む。その指先が震えている。気まぐれに甘えているわけではなく、本心から触れたい、近づきたいと思った証拠だった。
「クロユリ様」
「なんて、ハルセが疲れちゃうよね」
「私は平気です」
「まさか。いくら僕でもそこまで我儘言わないよ」
「……」
これはクロユリの独りよがりではなく、ハルセ自身がそうしていたいと思っていることだ。
「あ、我儘で思い出したけど……ごめん、ハルセのお友達に酷いこと言っちゃった。あんなこと言うつもりじゃなかったのに」
「えっ」
分かっていて言ったことではなかったのか、とハルセは驚き、そして苦し紛れに少しだけ笑うと、
「いいえ、実は嬉しかったのです」
「嬉しい!? 友達なくすかもしれないのに?」
「大丈夫です。心配は要りません。私は……」
あなたさえ居れば、もう何も要らない。
自然に口をついて出そうになった言葉を呑み込み、ゆっくりと首を振る。だが、クロユリが禁断の殻を破いてしまった。今にも破れそうで寂しい、抑制の心の扉を小さな手で開けてしまう。
「僕はハルセが必要。ハルセの居ない毎日なんて考えられない。今までの僕は、どうやって生きていたんだろう」
普段は決して言わない台詞である。まして、クロユリはしたたかに生きてきた。弱音や甘えが許されない環境の中、強さだけを頼りに自分の力で、自分の脚で立っていた。
だが、弱くなったわけではない。耐えられなくなったわけではない。ただ、ハルセに出逢ってしまっただけだ。
「私はいつまでもお側におります。寒い時は暖めましょう、暑いときは涼しくなるよう整えましょう。お腹が空いたら私が美味しいものを作ります。疲れて眠いときは、いつでも私の腕の中でお休み下さい」
頬を撫でて呟いた優しい瞳と、大きな手はすっぽりと小さな顔を覆い、そのどれもがクロユリのすべてになった。
「ハルセ……」
「約束します」
柔らかな声を聞き、クロユリは何も語らずに短く笑って目を閉じた。すぐに寝息を立て始め、そのままハルセの腕に抱かれて夢の中へと堕ちたのだった。
通常は滅多なことでは弱い自分を見せないクロユリである。むしろ強がることのほうが多いのに、夜の魔法がかかったせいか、今夜のクロユリはひどく小さく、儚げに見えた。
「もしかして寝言だったのかな」
後で冷静になり、朝になって覚えてないと言うかもしれないと思った。
「それより忘れてるかもしれない」
ハルセが独りで笑っている。
それでも良かった。この時をしっかりと記憶し、忘れないと誓ったのだから、ずっと心に秘めていけばいい。
ハルセにとって、クロユリは自分の命より大事な存在である。そしてクロユリにとってハルセも同等の存在なのだ。上司と部下という関係上、しかも軍人なら甘い戯言など口にすることが許されないとしても、最初から罪を背負う覚悟でいる。

二人にとって互いが心から”大切な人”と呼べるのだから。

そして、いつでも同じ目線で居たいという思いから、ハルセがクロユリを抱き上げて運ぶようになった。もっとも、幼い時に非人道的な事件に巻き込まれてから躯の機能が麻痺し、成長の遅いクロユリは体力の消耗が激しいために疲れやすい。趣味は昼寝と豪語していることもあって、ハルセがクロユリを抱いているのは当たり前になった。
クロユリがただ甘え、ハルセが甘やかしている図にしか見えなくても、それはそれで二人の関係が成り立つ。ぬくもりを伝え合うことが出来れば、他に多くは望まない。こうしてそばにいられることが例え束の間の幸せだとしても、それは二人にとって永遠と同じ、消えることのない恒久の絆なのだった。


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