切っ掛けは覚えていない。
いつからこうなってしまったのか、どうしてこんなことになったのか、原因になるものが全く思い浮かばず、ユキは心の中で何度も自問自答を繰り返す。 ただの引力であると言われればそれまでのこと。けれど、その引力には何が存在するのか、奥に潜む答えを探しても、何も見つからなかった。 (参謀部に居ると彼と目が合う。合うような気がする) ユキがその事実に気付いたのは数日前のこと。意識するようになってからは特にそう感じる。だから、仕事に集中できなくなり、手が止まってしまう。 『スズ、ちょっとこれ教えて』 その余計な思念を追い払おうと、兄のスズに話しかける回数も多くなった。 『なに、ユキ。袖を引っ張らなくても教えてやるよ。どれ?』 『うん、ここ』 『ああ、これって昨日やったやつの続きじゃない? 一番下に判を押せばいいんだよ』 『そっか。こう?』 『そんで、こっちの書類の一番上に重ねて、三枚綴りにする。これの繰り返し』 『ああ、数が多いね。大変そう』 『大丈夫。ユキなら出来る』 『頑張るよ』 北の国、アントヴォルト王の側近で、戦闘用奴隷であったスズとユキがバルスブルグ帝国軍陸軍参謀部に仕えるようになってから、ようやく慣れてきた頃である。彼らはまだバルスブルグ語が話せずにラグス語だけで会話をしていたが、それを理解出来るのはアヤナミ参謀長官のみ。他のメンバーとは身振り手振りで意思の疎通を図っていた。 アントヴォルトがバルスブルグ帝国に制圧され、行き場のなくなった双子を引き取ったのが参謀部の少佐であるヒュウガだった。ヒュウガは人事を任されているかのように、優秀な人物を見抜くセンスを持っている。千里眼にも長けている。彼は双子の戦闘法や戦力を認め、ブラックホークでの活躍の場を与えることにした。 てっきりあの場所で殺されると思っていたスズとユキは、命乞いもせずにアントヴォルトの地で永遠の眠りに就くことを覚悟した。だが、ヒュウガは面白そうに二人の手足を拘束し、満足げに両脇に抱えて陣営に戻った。ヒュウガは何かを話しかけていたが、何を言っていたのかスズとユキには分からなかった。 参謀部に所属し、アヤナミのベグライターとして双子はジェスチャーだけで仕事を教えられながら、出来る限りのことを仕上げようと努力をしていた。戦闘だけでなく事務処理もどうにかこなせるようになって、世話役且つ教育係でもあるコナツは彼らの仕事っぷりに憂慮することはあまりなくなった。ただ、片割れのユキは多少のドジを踏む傾向にあり、それをフォローしなければならなかったが、シュリの無能力や上司の怠け癖に比べればまだマシである。 そのユキが時折部屋を見回すと、視線の先に必ず捉えてしまう人が居た。 (あ、また目が合った) 自分たちをこの場所に連れてきたヒュウガ少佐だった。目が合うといってもサングラスで遮られた視線は何処を見ているのかユキには分からない。だが、目が合ったとこちらが認識するとヒュウガは口の端を上げてにっこりと笑うのだ。だから、そこで初めて視線を交わしたことを知る。 (スズを見ているのだろうか) ユキはそう思って隣のスズを見るが、スズは全く意に介さずに仕事に打ち込んでいる。バルスブルグ語を解読しようと努力をしていて、恐らくスズのほうが早くに出世するだろうと思われた。 ユキはもう一度チラリとヒュウガを見る。ヒュウガはアヤナミと話していて、今度は目が合うことはなかった。 (うーん。よく分からない) 気のせいだと思うようにした。 (アヤナミ様は寡黙だけれど、ヒュウガ少佐とはよく喋っている) そして暫しアヤナミを見つめた。 初めて見た瞬間から一国の王ではないのかと思った。王自らが自国への制圧にやってきたのだと。アヤナミにはそういうオーラがあり、王でなければ違う何か……届くことのない遠い存在なのだと、そう思えた。 (素敵な方だ) 憧れにも似た感情である。もっとも、それ以上のことは何も考えていなかったし、スズもアヤナミの役に立とうと努力をしていて、負けないように精進するしかないと誓っていた。そういった内面的なものは、この参謀部に来るようになって、ここで働くすべての者がアヤナミに対して敬意を払っていることを知り、スズもユキも志気が高まっていくのだった。 ユキがしばしアヤナミに見蕩れていると、我に返った時に再びヒュウガと目が合う。ユキは視線を感じ、ヒュウガを見てしまったのだ。そしてヒュウガはまたにっこりと笑い返した。 (どうして僕に笑いかけるのだろう。すごく愛想のいい人だけど……) ユキは小首を捻りながら悩んだ。 『ユキ、終わった? 何見てるの?』 進捗具合を確かめようとしたスズに声を掛けられ、 『あっ、ごめん。やだな、僕……』 失念していたことを恥じる。 『なんか急ぐみたいだから早くしないとヤバイよ』 『うん、分かってる』 ユキはアヤナミやヒュウガのことを頭から追いやって書類整理に精を出したのだった。 その夜。 たまたまスズとユキが別行動をしているとき、というよりスズを見失ったユキが慌ててスズを探しているところであったが、廊下を歩いているヒュウガの後姿を見つけ、何故か後を追ってしまった。ヒュウガは参謀長室に入っていき、暫く出てくることはなく、ユキは廊下の隅に座り込んでまた考え事に浸った。 (アヤナミ様とヒュウガ少佐は本当に親しい間柄なんだ。アヤナミ様がまともに口をきいているのはヒュウガ少佐くらいだし) ユキはアヤナミとヒュウガの関係が気になり、二人で居るところを見てはあれこれと想像するようになっていた。 (友達? 親友? それとも戦友? まさか親戚? ただの上司と部下には思えない。腹心かな。一体どんな繋がりがあるんだろう) ユキとスズは双子で、他からは見分けがつかないほどよく似ている。意思の疎通は勿論、精神世界での会話も出来る。スズはよくユキのことを「我が半身」と呼ぶことがあったが、まさにその通りで、スズとユキは二人で一人のようなものだった。だからといって互いが半人前なのではない。能力ではなく、互いになくてはならない相手であり、何よりも誰よりも大事な存在だということを示していた。 『僕たちみたいな大切な間柄なんだろうな』 膝を抱え、ユキがぼんやりと呟いていると、 「どうしたの?」 ヒュウガが長身を折りたたむようにしてユキの顔を覗き込んでいた。 『うわっ!?』 いつの間に部屋を出てきたのだろう。ユキは全く気付かずに、ただ愕然としてヒュウガを見上げた。 『あっ、あの!? 何でしょうか!?』 ユキが驚いているのは分かったが、お互い言葉は通じていない。 「アヤたんなら参謀長室に居るよ。まだ仕事すると思うから行ってみれば?」 ヒュウガは参謀長室を指差した。 『……』 ユキは指先の方向がアヤナミの居る部屋だったことから、アヤナミに会いに来たと勘違いされていることを知り、ぶんぶんと首を振った。 「あれ、アヤたんじゃないの?」 今度はヒュウガが参謀長室を指差して首を振った。ユキは話が通じたと思い、首を縦に振るとヒュウガを指差したのだった。 「えっ、オレ?」 ヒュウガは自分に人差し指を向けると、ユキはまた首を縦に振る。 「何か用? って言っても、言葉が通じないからさっぱり分からないねぇ」 ヒュウガは頭を掻きながら困ったようにぼやいた。 『すみません、僕が勝手にあなたについて来たから』 ユキが申し訳なさそうに言うと、ヒュウガはポンと手を叩き、 「なんかよく分からないけど、ちょっと夜景でも見に行こうか。おいで」 ヒュウガはクイと手でジェスチャーして先に歩き始めた。 『?』 来いと言われたのは直感で分かったが、てっきり仕事を言いつけられると思い、参謀部に戻るつもりでいた。 ヒュウガは参謀部とは逆の方向へ進んでいき、ユキがきょとんとしたままついて暫く歩いて行くと、高い天井までがすべてガラス張りの広いスカイラウンジに辿り着いた。 「ほんとはここはオレら士官以上の人じゃないと来ちゃいけないんだけどね」 ヒュウガは笑っていたが、当然、ユキは何を言われているのか分からない。 「って、たまにコナツを連れてくるけどさ」 『コナツ?』 その名前だけは知っている。 「そう。オレのベグライターね。二人でこっそりお忍びで来るんだ。この時間は人が居ないからね。むしろ立ち入り禁止時間」 コナツの名前は聞き取れたが、それ以外はやはり分からない。だが、 『僕もコナツは大好き』 そう言って胸のところでハートマークを作ってみせた。その動作でヒュウガもユキの言葉を理解し、 「へぇ? じゃあ気が合いそうだね」 にっこり笑ってユキの頭を撫でたのだった。 「ここに連れてきたのは、ほら、夜景がキレイでしょ。これは一見の価値があると思うんだ。ここいらでホーブルグ要塞より高い建物はない。だから、ここから見る景色は一番キレイなんだよ」 ヒュウガが外を指差して説明した。 言葉は通じなかったが、ユキは街を見下ろして感嘆の声を上げて、 『すごーい! アントヴォルトの雪景色も綺麗だけど、ここは光がたくさんあってキラキラしてるよ! 宝石箱みたいだね!』 子供のように騒いでいる。 「よく見ておいてごらん。中々連れてこられないから、ちゃんと目に焼き付けて」 そう言いながらヒュウガも夜空と、そして星のように美しく輝く街並みを見下ろしていた。 「君が居たアントヴォルトは向こう」 ヒュウガは北の方角を遠く指差しながら呟いた。それだけでユキはすぐに分かり、言葉もなくじっとその方向を見ながら寂しそうな顔をした。ここからは見えないし、もう戻ることもない場所である。だからこそ胸が締め付けられる思いがした。戦闘用奴隷ではあったが、アントヴォルトは、自分たちが生きた処、生きた証だった。 そうして今、敵同士だった二人がここに居る。 少なくともスズとユキはヒュウガに刃を向けたのだ。殺すつもりだった。それこそ、なんの躊躇いも情けもなく、切り捨てるつもりだった。ただヒュウガのほうが強かっただけだ。 「戦闘用奴隷として生きて死ぬのと、ここで故郷を忘れて生きて他国の軍人として死ぬのではどちらがいいかなぁ。軍人なら何処でいつ死のうが国のためなら構わないんだけどねぇ」 『?』 ユキがきょとんとしていると、 「ああ、分からないよね。ごめんね、言葉が通じないって難しいね」 やはり通じないことが歯がゆい。 「君たちの運命を変えてしまったのはオレだ。でも、君たちに居場所を与えたかった。偽善でもなく、欺瞞でもなく」 語り続けるヒュウガの言葉はユキには理解できないが、言霊は感じたのか、 『僕はあなたが何を言っているのか分からないけれど、あなたの思いがここに響いてきます』 胸を指して微笑んだ。 「うーん。何て言ったのかな? お腹空いたんじゃないよね? 胸を押さえたってことは触ってほしいってこと?」 コナツがそばに居たら肘鉄を食らいそうな台詞である。 『私たちはアヤナミ様をとても尊敬しています。世間で言われる黒法術の噂は僕たちにとって脅威ではありません。僕たちもその力がほしい』 ユキが真面目な顔で言うのを、 「黒法術って言った?」 ヒュウガは、ほぼ勘だけで言い当てる。すると、ユキが頷いた。二人とも直感や勘で相手の心情を読もうとしていた。 『でも、あれは鍛錬してすぐに取得できるものではないのですね』 諦めたような口調から何となく察したヒュウガは、 「黒法術師になりたいのかな? そんな変わったこと言うのも珍しいねぇ。昔のコナツを思い出すよ」 苦笑しながらユキを見つめた。 見つめあって数秒、視線を逸らすことのなかった二人は、更にお互いの顔をじっと見つめ、 「かわいいなぁ」 まず、ヒュウガが先に口を切る。 『?』 ユキは何を言われたか分からなかったが、 『あなたに見つめられるとドキドキします』 顔を赤くしながら胸に手を当てた。 「さっきから胸触ってるけど、誘われてんのかな、オレ」 ヒュウガが一人でおかしな方向に話をすすめているが、会話が成立していないのが幸いして、ここで如何わしい行為が繰り広げられることはなかった。 『いつも目が合うのはどうしてでしょう』 ユキがそう呟くと、ヒュウガは、 「可愛い子は見るのもいいし、可愛い子に見られるのもいいもんだねぇ」 勝手に話を進めている。 「目が合うと嬉しい人っているでしょ、或いはどうしても目で追っちゃう人とか。オレは君を気に入ってるから試しにじっと見てたら、君が視線に気付いてオレを見てくれるからハッピーなわけよ」 『こういうの、ときめくって言うんでしょうか』 微妙に噛み合う会話が、少しずつ危うくなる。 「楽しいしね」 ヒュウガが親指を立てると、ユキも反応して両手の指を合わせて丸を作る。 「お? 話が通じたかな?」 ついでにピースサインをしてみたらユキはOKサインを出してきた。 『言葉は分からないけど、すごく暖かい』 ユキが笑うと、ヒュウガは、 「じゃあ、これは?」 と言って、ついでにウサギや鳥、猫などを表現する手影絵を始めてしまった。 『なんですか、それ!?』 ユキの笑顔が弾けて興味津々にヒュウガの手の動きを凝視するものの、真似をしようと思っても、さすがにひよこやふくろう、りすは難しすぎた。 「難易度Dかな」 『出来ません!』 「あはは」 『っていうか……』 「どうしたの、真面目な顔して。落ち込んだ?」 『長い指』 「うん?」 『あなたの指、凄く長いですね』 ユキはヒュウガの手をとり、じっと見つめた。 「オレの手がどうかした?」 『男らしくて素敵です。だから強いのかなぁ』 ユキがうっとりとした表情で呟くと、 「君の手は白いね」 ヒュウガは余り褒め言葉にはならない台詞で表現した。 いつしか指に触れ、手を握り合う。その行為自体に、違和感はまったくなかった。 「君たちが強いのは実践でよく分かっているけど、もっと強くなって欲しいな。そして、アヤたんを守って。何より、あのアヤたんが拒まなかったのは唯一君たちくらいだし」 アヤナミは自分にベグライターをつけるのを酷く嫌がる。過去に信頼していたベグライターを自分のせいで亡くしてから、頑なに、そのポジションを他人に譲ろうとしない。あの元帥の息子が候補に上がったときでさえ断ったくらいだ。もっとも、その息子たるや片腕としてそばに置くには不安があった。双方の裏事情により参謀部に在籍することにはなったものの、アヤナミのベグライターとして働くには遠い道のりがあった。現在コナツが教育中だが、元は卒業生代表である。磨けば才能が開花することを祈るばかりだ。 だが、アヤナミは、ヒュウガが見つけてきた双子のスズとユキに関して、あからさまな拒絶をすることなく受け入れた。 ユキはアヤナミの名前が出たことで、アヤナミの話をしていることに気付き、 『ずっとついていきたいと思える相手に出会いました。僕たちは強い人が好きなので、アヤナミ様に出会えたことは一生の宝です』 少し頬を紅潮させながら呟いた。 「アヤたんのこと、好きって言ってる? そんな顔してる」 『アヤナミ様のお役に立てるように精進していきたい』 「君たちがアヤたんのこと大事に思ってるなら安心。オレもアントヴォルトから連れてきた甲斐があるよ」 ヒュウガはにっこりと笑いながら言った。ヒュウガにとって、二人は自慢の部下だった。 ふと視線を絡めて、それからは会話が途切れた。 同時に夜景を見るために外を向きながら言葉もなく佇み、ヒュウガもユキも、そこから帰ろうともせずに、まるで時間が止まったかのように、否、時間が止まってくれないかと願うように、叶わない思いを内に秘めて、指先だけを重ねたまま、なんと、数時間もそこに居たのだった。 やがて夜明け近くにまで時間が進む。 「眠くない?」 ヒュウガが両手を重ねて耳元で横にするジェスチャーを示すと、ユキは意味を理解して首を振ってにっこり笑った。 「17歳だもんな、若いから多少寝なくても平気か」 『少佐は眠くありませんか? ほんとうは僕からお暇しなければならなかったのに、どうしてもこうしていたくて……』 大事な台詞はヒュウガには通じない。 「オレ、なんかこうしていたくてね。君からもそういう気配を感じたからさ」 だが、心には届いていたし、二人同じ思いだったのだ。 再び黙り込むのと、ヒュウガの顔がユキの耳元に近づくのが同時だった。ユキはわずかに動揺しながら肩をすくめ、何をされるのかと構えると、 『オレはまた、これからも君を見つめ続けるよ』 ヒュウガはラグス語でユキにそう呟いたのだった。 『ラグス語……!』 ユキはヒュウガがラグス語を話したのと、今までと変わらず視線を送ると宣言したことに驚き、瞬時にヒュウガの顔を見た。 『!!』 ヒュウガは腰を屈めてユキの耳元に顔を近づけたままだったため、ユキがヒュウガのほうを向いた時、二人のくちびるが、あと5センチというところまで接近してしまった。 あまりの至近距離にユキが言葉もなく躯を強張らせる。 「危なかったねぇ」 その距離のままヒュウガが笑う。 『ヒュウガ少佐……』 暗くても、サングラスの奥の瞳がはっきりと見えた。そこから発せられる大人の色香が、ユキの幼い心をいたずらにくすぐる。 『僕になんて……さっき……なんて言った……の』 ヒュウガの言葉ははっきりと聞こえていた。ただ、あまりの衝撃に幻聴だったのかもしれない、それとも聞き違いかと、ユキは、もう一度ヒュウガに尋ねようとした。 「えー? どうしたの? キスしてほしいの?」 距離は変わらないが、ヒュウガが角度を変えた。まるで今から深い口付けをするよ、と言っているようでユキはますます固まる。 『ヒュウガ少佐っ』 ユキはたまらずに目を閉じた。 「おや」 口を引き結んでいなかったら、ヒュウガはそのままくちびるを重ねていたかもしれない。ヒュウガは声を出さずに笑っていたが、ふと横目に夜空に光るものが見え、そちらを見上げた。 「あっ、流れ星!」 ヒュウガが突然声を上げるとユキはビクリと目を開ける。 「空見てごらん」 ヒュウガが上を指差す。 『?』 ユキが指示されたとおりに空を見上げると、本当に流星が薄暗い空を横切っていった。 『あれは!』 「ああ、ちょうど流れ星がよく見える時間帯だもんねぇ」 夜明け前は流れ星が多く見られる時間だ。薄明になり、陽が上ってくると見えなくなるが、今はまだ闇が残っている。東の空の色が少しずつ変わりつつあり、そうそう長くここには居られないことが分かった。 「仕方ない。今日はここまで」 ヒュウガは独りで呟いて、ユキの後ろに立ち、再び屈んで綺麗に切りそろえられた髪の裾にキスをしたのだった。 『えっ?』 空の星に気をとられていたユキは気付かない。が、何かされたと思い、振り返ってみるが、ヒュウガは既ににこにこと笑って腕を組んでいる。 「帰ろうか。きっと兄貴が心配してるよ」 ヒュウガが出口を指差すと、 『あっ、そういえばスズ!』 兄を思い出して真っ青になった。 『きっと僕がまた迷子になったかと思って心配してる!』 両手で口をふさいで焦っている姿を見て、ヒュウガはまた笑った。 「何? 無断外泊だって? 大丈夫だよ、オレがうまく理由考えるから」 ヒュウガはユキが誰かに責められてもいいように庇うつもりでいた。だが、実際帰った時は……。 「あれっ、コナツ!?」 参謀部へ続く廊下に、コナツと、そしてスズが居た。 「ヒュウガ少佐! 一体どちらにいらしたのです!?」 コナツはヒュウガを見つけ、一緒に居るユキを見て、心底驚いた顔をしていたが、 「コナツ、なんで兄貴と一緒なの!?」 ヒュウガの驚きのほうが大きかった。 「なんでって、スズが弟が居ないって心配して私のところに来たので、探してたんです。でも、疲れたので私の部屋で休んでました。そうしてるうちに寝てしまって、目が覚めて参謀部に来たところです」 「えっ、マジで? っていうか二人でコナツの部屋に居たの?」 「……問題はそこではなく」 「問題だよ! 寝たの!? 二人で寝たの!?」 「はぁ? そんなことより、ユキを何処へ連れまわしてたんです!? お部屋にもいらっしゃらなかったじゃないですか」 「あー、ごめん」 「謝っても駄目です!」 「だから、色々案内をね」 「夜中に何の案内ですか」 「だから色々?」 「もう、埒が明きません。少佐は連行します」 「えっ、なに!?」 コナツはヒュウガを引っ張って何処かへ行ってしまった。立ち去る際に、 『スズ、ユキが見つかって良かったね』 コナツが言うと、 『はい。ありがとうございました!』 スズが冷や汗をかきながらコナツに礼を言った。 その場に残されたスズとユキは、顔を見合わせ、 『なんか……コナツ怒ってた?』 ユキが小さく呟く。 『うん。ヒュウガ少佐に対してね。でも、僕もユキに対して怒ってるけど』 『ごめん』 『物凄く探したんだから。お前はすぐに迷子になるし、今頃餓死でもしてるんじゃないだろうかって』 『スズ……それはないよ』 『ずっと発見出来なかったら有り得るでしょ』 『……うん』 ユキはあっさりと認め、うなだれた。 『彼と居たんだ』 『えっ』 スズの、少しだけ悋気を含んだ言い方にユキがドキリとして顔を上げる。 『少佐のこと、好きなの』 『違うよ、そんなんじゃない』 『少佐は満更でもないみたいじゃない?』 スズの誘導尋問が始まった。 『それは……でも、あの人はすごく遠くて』 『は? またワケの分からないことを』 『だって』 『ユキははぐれて一人でフラフラとどこかへ行って、誰かに助けてもらうのはいいけど、おかしな約束とかしてくるから危ないんだよ』 ユキのことを一番よく知っているのはスズだ。そのスズが的を射た発言でユキを責める。 『そういうのじゃないってば』 慌てて否定するも、ヒュウガはユキをどうするか、まだ分からない。 『まぁ、いいけどね、ユキにはユキの人生があるし』 『なんだよ、もう』 『最後に一つだけ聞くけど、少佐と寝たの』 『はいっ!?』 『躯を許した?』 『スズ!』 『……』 『分かってるくせに』 『そうだね。お前に何かあれば僕が何も感じないはずはない』 スズとユキは意識がシンクロする。精神世界での繋がりは、共に同じときに同じところから産まれた証拠である。 『でもな……僕も昨夜はコナツと一緒だったから……』 スズはスズで、気もそぞろだった。面倒見のいいコナツはスズに付き合って懸命にユキを探した。あのヒュウガの補佐をやっているだけあって物事を進めるときの要領のよさと手際のよさは見事であった。スズは、それらに感服するばかりでなく、コナツが自分を部屋に呼び、まだ大して通じないラグス語で不安を語るのにじっと耳を傾け、頃合を見て休ませてくれたことにも感謝している。 ただ、それだけならばまだしも、いつの間にか眠ってしまい、次に目が覚めたときには隣でコナツも寝ていた。その寝顔を見たとき、コナツ自身も相応な表情になっていたからスズが驚いてしまった。参謀部の事務をカツラギと取り仕切るとは思えないほど無防備で、しかも、眠りながらある人物の名前を囁いたのだから興味深くもなった。 『コナツとずっと一緒だったの?』 今度はユキが尋ねた。 『うん』 『何もしなかったでしょうね』 『えっ』 『なんでそこで驚くの』 『別に』 『あやしいなぁ』 『だから、僕らに何かあれば気付くでしょ』 それは、互いのことに集中して考えていればの話である。昨夜はそれぞれ気が散っていた。 『そりゃそうだけど。ユキ、ちゃんと寝たの? 今日仕事できる?』 寝ていないとは答えず、 『仕事するよ! アヤナミ様のお役に立ちたいもの』 『ならいいんだ。アヤナミ様はもうとっくにお仕事始めてるよ』 『僕たちも早く行かなくちゃ』 『行こう』 二人は手を繋いで参謀部に向かった。予定より早い出勤ではあったが、今は仕事がしたかった。 一方、ヒュウガとコナツは……。 「駄目ですよ、可愛いからといって勝手に連れ出しちゃ」 別室に移ってコナツがヒュウガに誘導尋問をしている。 「成り行き上っていうか、気付いたらいつの間にかっていうか」 「何処で何をされていたのかは追求しませんが、私も心配したのです。少佐が消えていなくなったらどうしようかと思いました」 「えー?」 「ユキが居ないのと同時に少佐が居なくなったのは偶然なのか、二人で一緒にどこかへ行ったのかは分かりませんでしたが、もし少佐がお一人で何処かへ行ってしまわれたらと思うと……」 「そんなことしないよぉ。大体、オレがアヤたん置いてどこかに行くわけないじゃん。コナツだってそうでしょ?」 「はい。私もずっとアヤナミ様のおそばに居たいですし、ですから大丈夫だと思っていたんです。アヤナミ様がここに居る限り少佐も離れるわけがないと信じていましたが」 「うん、それでいいの」 「見つかって良かったです」 「オレはよくない」 「えっ」 こんな時に何を言うのかと思っていると、 「だからさ、スズと一緒に寝たんでしょ? 二人で一つの毛布にくるまったりして?」 「……はぁ、まぁ」 「くーっ」 ヒュウガが悔しそうな声を上げる。 「少佐?」 「それ、見たかったなー」 「ええっ」 「二人で仲良くオネムなんて、すっごい貴重なショットじゃない?」 「……」 「そこに弟のユキも加わって3人で寝れば完璧!」 「……」 何の話をしているのだろうとコナツは黙り込んだが、こちらの心配をよそにどうでもいいことを考えていると気付き、 「バカですね」 ついそう言ってしまった。 「なんでよ! オレは真面目だよ!?」 「そうですか」 「っていうか、真面目な話はこれからなんだけど」 「!?」 「コナツがオレ以外の男とベッドを共にしたことについて」 「えっ、いつのことです!?」 「だから昨夜」 「それはスズですよね!?」 「そう」 「少佐は貴重なショットだと仰ったじゃないですか」 「それはそれ、これはこれ」 「めちゃくちゃな! しかも、私たちは何もしてませんよ!?」 「私たち……一括りにしちゃったね。妬けるな」 「少佐!?」 「ほんとに何もしてないの? 偶然腕が重なったとか、顔が近かったとかない?」 「……」 「あっ、黙り込んだ! さては何かあったな!」 「え、私は何も……」 「コナツがそう言うときって大概何かあるんだ」 「ですから、何もなかったと。なかったような」 「曖昧!」 「そんなこと仰るなら私だって言わせて頂きますけどね、少佐こそ、ユキに手を出していませんよね!?」 「……」 「ほら、黙る! 少佐だって都合が悪くなると黙るじゃないですか。黙るだけならまだいいですけど、酷いときは冗談でごまかすから手に負えません!」 「厳しい」 「他に私に何か言うことはないですか」 コナツが大きな目でヒュウガを強気に見上げている。ヒュウガはひょいと肩を竦め、 「とりあえず、自分のことは棚に上げておきたい性格で」 またおかしなことを言い出した。だが、コナツは動じない。 「今更です」 「怖い」 「他には?」 「スズの寝顔は可愛かった?」 「……」 コナツがピクリと反応した。そしておもむろに取り出したのは……。 「ちょ、どっから出してきたの、その釘バット! 何処に仕込んでたの!」 「そんなことはどうでもいいです」 「うそ、うそ、うそ。今までのぜんぶウソ!」 「なんですか、いきなり。って、あっ!」 コナツの気が緩んだ瞬間、凶器を持っていた手を制するように掴んで自由を奪い、片方の腕でコナツを抱き込んだ。 「オレが本当に言いたいことと、コナツがオレに言って欲しいと思っていることは同じだよ」 「!」 「今、言おうか」 「……っ」 「それとも今じゃなくて、今夜にする?」 ここにきて持ち前の大人のテクニックが発動される。ヒュウガはぐいとコナツの腰を抱き寄せ、そして自らの腰を押し付ける。誘っているのは明白だった。 「少佐……」 「だから許して? 可愛いコナツちゃん」 「ちょっ」 その一言が余計だったが、コナツはもう力が入らない。 「腰抜かす前にやめよう。というわけで続きは今夜」 相変わらず巧いやり方である。 「少佐はずるいですっ」 少し涙目になったコナツが恨み言のように呟く。 「あれー? オレはずるい男だよ? そんなの今になって気付いたわけじゃないでしょ。でも、どんなオレでもコナツにはメロメロだからー」 ここまでくると、本気なのか冗談なのか分からない。 「分かりました。それは今夜証明して頂くのでいいです」 コナツが言い返すと就業時間を告げるベルが鳴った。 「証明……か。望むところだ」 「ええ、楽しみです。色々言いたいことはありますが、少佐、出勤時刻になりました」 「ちょうど時間切れだね。続きは今夜」 「そういうことにしておきましょう」 「いい子だな、コナツは」 「当然です」 「即答!」 「はい」 「あー、オレ、もう仕事できないや」 「どうしてですか!? 仕事しないのはいつもですが、言い切られても……」 要するに、コナツを今夜どう料理しようかとヒュウガは業務が手につかないほど悩むことになる。だが、最初から仕事を真面目にする気などない。 そうして参謀部では、慌しい一日が始まった。 『ユキ、具合悪くなったら言って。僕がフォローする』 『ありがとう、でも、大丈夫。仕事する気満々だもの』 言いながらユキはチラリとヒュウガを盗み見た。ヒュウガはアヤナミのそばに居て何かを話している。 (アヤナミ様、いつも厳しい顔をしてるけど、ヒュウガ少佐の前だと少し表情が緩むような……でも、突然にして鞭が出てくるから、やっぱり分からない) ユキがアヤナミとヒュウガのやりとりを観察するのは当たり前になっていた。そのうち観察日記でもつけるようになるのではないか。 (かっこいいなぁ、お二人とも) ユキがうっとりとした様子で見ていると、ヒュウガとばっちり目が合った。 『わぁ!』 つい声に出してしまい、スズに不審がられる。 『ユキ、寝不足のせいで頭おかしくなった?』 『ううん。ごめん』 遠くでヒュウガが笑っていた。 そのヒュウガ……とアヤナミであるが。 「何を笑っている」 アヤナミが無表情で問い掛けると、 「いーや、なにも。っていうか、アヤたん、昨夜教えてくれたラグス語、サンキュ」 「使い道があったのか」 「あったも何も、使うから教えてもらったんじゃん。でも、まさかこんなに早く使うことになるなんて思わなかったけど」 「何をしようと構わんが、規律を乱すことは許さん」 「やだな、責任のとれないことはしないよ。ちょっとナンパくらいならいいじゃん?」 「……」 アヤナミのこめかみがピクリと動いた。 「貴様。ラグス語でそのようなおかしなことをする相手とは誰だ」 「えーっ、誰って聞かなくても分かるでしょー?」 「そこに居る双子か」 「駄目?」 「ヒュウガ。死にたいようだな」 「えーっ、じゃあ、テイト・クラインならいい?」 今度こそ、アヤナミの表情が変わった。変わるだけでなく、空気が動く。それも、参謀部全体が凍りついたように冷たくなり、アヤナミが鞭を取り出した瞬間、それを見た辺りの者は背筋を凍らせた。 「冗談だってば! アヤたん、冗談くらい分かってよ!」 ヒュウガが逃げる振りをしながら笑っている。 昨夜ヒュウガがラグス語でユキに囁いた言葉は、アヤナミに教えてもらったものだった。アヤナミは、そんな口説き文句を誰に使うのかと問うこともせず、「下らぬ」の一言で一蹴するはずが、 「いずれアヤたんも誰かに使うことになるかもよ」 と言われ、ヒュウガに得意の駆け引きを仕掛けられながら教えてやった。ここで交わされたアヤナミとヒュウガのやりとりもまた、恐らく濃厚なものであっただろう。 誰かに囁くことがあっても、きっとそれは昨夜と同じような夜明け前に違いない。心が素直になって、誰かを求め、そばに居る人がとても大事だということに気付いたとき、恋の始まりを告げるようにどちらからともなく囁かれる。 ユキの中で、あの時のヒュウガの甘い言葉は、偶然見た流れ星のように突然で、そして切なく深く、いつまでも耳に残るのだった。 |
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