篝火(Kapitel.20より)


「お前の魂が好きだから」

今までそんなふうに言われたことなんてなかった。
「あいつ、たまにワケわかんねーこと言うから」
テイトは今更ながらフラウの言葉を思い出し、くちびるを引き締めて俯いた。
その時は何を言っているのか分からなかったし、自分の魂がほかとどう違うのかなんて知らず、もっとも、そういうのはミカゲに言えることではないのかと思った。人を殺しすぎている自分は決して綺麗ではないのだと。
だから、うまく対応出来ずに勢い余って殴ってしまったが、最初のフラウの言い方も悪かったのだ。ミカエルからテイトに変わる時に「殺されてもいい」と言った言葉が心に残っていて、それは誰が相手でも決して口にしてはいけないもので、まるで自分の命を粗末にしているように聞こえて腹立たしかったのだ。
殴ったことは後悔していないが、すぐに謝ればよかった。咄嗟の行動で部屋を出てきてしまい、いずれまた顔を合わせることを考えると、気まずい雰囲気のままでは居心地が悪い。
だが、事態はそこで急変する。
テイトが部屋に戻ろうとしたとき、侵食したバルスに意識を乗っ取られてしまったのだった。ハクレンが通りかからなければどうなっていたか分からない。ハクレンはテイトを絶対に離すまいと腕の中に抱き込んで守った。
二人が運ばれたところで見たものは軍服に着替えたクロユリとハルセだった。
「あれっ、だれ、これ」
クロユリが妙な顔をするとハルセがきちんと説明し、ハクレンに向き直る。ハルセは表情を変えず、
「どうして彼に構うのです。あなたはここに来るべきではない。薄っぺらい友情ごっこで彼に関わるのはおやめなさい」
淡々と呟いた。
ハクレンにとってハルセの言葉は自分のしていることを否定されたも同然だったが、ハクレンはテイトの身の上をまだ知らないのだ。だからといって易々と見捨てられるはずもないと思っていたし、過去のことなど聞きたくてもテイトの口から説明されるまでは安易に首を突っ込んではならないと思っていた。何も知らないハクレンでさえ、テイトには想像を絶するほどの重い何かを背負っているようで、軽々しく口には出来ないのだろうということだけは感じ取れていた。
ましてこんな事態になってしまえば今更手を引くわけにはいかない。それどころか自分の力がテイトの役に立てるのなら、尽くしてみようと思った。テイトの身に何が起こっているのかは分からないが、ハクレンはただ事ではないことを察知し、自ら戦う構えを見せた。たとえそれが命に関わることでも、テイトのためならば構わないと思った。

そこからのことはテイトには断片的にしか思い出せない。むろん、ハクレンにとっても一瞬の出来事のようだった。そしてすべてが終わってしまった。「それ」は歴史を塗り替えるほどの波動を与え、そして幻のように徒に時を動かした。
テイトに悲しみが訪れる。
ミカエルの瞳が発動し、瞳がテイトから離脱、そしてアヤナミの手に渡ってしまうなど、願っていたことではなかったのに。
必死で瞳に手を伸ばしても思いは届かなかった。
瞳はテイトを守るために離れたのだ。そうでなければテイトの命すら危うく、こうしなければならなかった。
テイトが受けた衝撃は大きく、耐え難い屈辱を味わったが自分の力が足りないことを悔い、すべては自分に非があると認めた。
だが、それを責める者は誰一人居なかった。
「お前のせいじゃない」
そう言って慰めてくれた言葉が辛く、どう嘆いていいのかさえ分からなかった。
ただ一つ安心したのは、ミカエルの瞳は主なしではただの石に過ぎないこと、なによりも離脱前に「必ずまた迎えに来る」と約束してくれたこと。
悔しさだけが残る現実は荒んだ心に悲しみを刻んで、これ以上ないほどの虚しさに包まれて涙もなく、眼前には暗い道が広がるだけ。
光りある未来は、あまりに遠い。
「こんな……こんなことって」
立ち止まることすら許されず、この痛みを拭い去るには、強くなって瞳を取り戻すしかなかった。絶対に同じことは繰り返すまい、繰り返してはならないと思った。

一連の騒動の後に現実に戻るように教会に帰ってきたが、テイトの心配ごとは自分のことだけではなかった。
バスティン大司教補佐が亡くなり、フラウはきっと辛い思いで死を悼んでいると思うといたたまれず、どうやって声を掛けていいものかと迷っていた。
ミカエルの瞳が離脱した時にフラウが瞳よりも自分を選んでくれたことを思い出し、テイトは苦い思いでフラウの言葉を反芻した。
「瞳以上に大事なものなんて無い」
それなのに彼が呟いた言葉は予想とは違い、テイトの心を甘く締めつけた。
「本当に大事なものってなんだよ。そんなのよく分からない」
フラウの、自分を犠牲にしても他人をかばう気質は、どこか親友にも似ていた。
「あいつはバカだ。ほんとにバカだ」
その当人であるフラウが何処へ行ったのか分からず、テイトは必死で探したが見つからない。
「勝手に居なくなってずるいよな」
そんなふうに言いながら、寂しさを紛らわそうとして口からついて出たものは、独り言ではなく”歌”だった。
自然に出てしまった記憶にある緩やかな調べ。
小さな頃に聴かされて、当たり前のように胸裏に染み付いている歌は、この年になっても忘れることはなかった。
故郷の歌を、こんなところで、こんなときに歌うとは。
懐かしさと痛みで心をいっぱいにしたテイトは、耐え難いほどの虚しい時間を一人でやり過ごそうとしていた。
そのとき。
「ラグスの鎮魂歌か?」
よく知っている声が聞こえた。
「!?」
フラウだった。
「いつからそこに居たんだよ!」
「さっきから居たぜ?」
「気配がなかった……」
探し人が見つかったことで安堵するも、歌を聴かれたことは恥ずかしい。テイトは顔を赤くしながら、
「それより何でお前がこの歌知ってんだよ」
そう訊ねるとフラウは隠さずに昔の仲間が唄っていたと教えてくれた。その仲間も、もうこの世には居ないということも。
以前、バスティン大司教補佐からフラウの過去について少しだけ聞かされたことがある。何があってこの教会に連れてこられたのかは知らないが、恐らくそれが悲しい過去だろうということはテイトにも理解できた。いたずらな少年ではあったが、それは、そういうおかしな振る舞いをしていただけだということも、今のテイトには分かるのだった。
誰かを失った悲しみが癒えることはない。
バスティン大司教補佐が亡くなった今のフラウの気持ちを推し量ることは出来ないが、自分もミカゲを失っている。傷を持つ者同士が慰めうのは自然なことかもしれない。
今は、今だけはどうしてもフラウのそばに居たかった。
帝国軍との争いで自分を助けてくれたこと、そしてバスティン大司教補佐を亡くして本当は悲しんでいるであろう心を少しでも癒したい。ミカゲを失ったときにしてくれたことを返したいのだ。
ただ、テイトはそういった慰め方を知らずに、どうしても乱暴な物の言い方をしてしまうが、場がしんみりとしてしまうより、その方がいいと思っていた。そうすることしか出来なかった。言い争いになっても側に居たいと思う。口げんかで一触即発の事態になっても近くに居たい。
引力のように惹かれてしまう理由を言葉にすることは出来ないが、フラウがテイトを守らなければいけないと言ったことで、テイト自身、無意識にフラウを頼りにしてしまっているのかもしれなかった。「自分の身は自分で守れる」と言い切っても、さきほど自分を抱きとめてくれた腕の力強さと心に響いた甘い言葉は、テイトの意識が更にフラウに向けられるようになってしまった。
鎮魂歌を少しだけ、ふたりで唄った。テイトが口ずさんでいたのをフラウが覚えて、ほんの少し、いっしょに唄った。その歌を唄えるのは自分しか居ないと思っていたテイトは、黙って聴いてくれたフラウが、最愛の師匠への手向けとして唄ったことで、もう二度と誰かを失って悲しい思いをしないよう、最後まで唄うのをやめなかった。
「なぁ」
「なんだ」
「あの……さ」
「どうした?」
「あー、ええと」
「なんだ、言えよ」
先に何かを言おうとしたのはテイトだったが、何を言おうとしたのかは考えていなかった。言おうとした言葉を頭の中で組み立ててみたら、真顔で言うには余りにも恥ずかしい台詞で、テイトは慌てて違う台詞を考えようとした。
(お前を失いたくないなんて、恥ずかしくて言えねー)
一人で勝手に顔を赤くしながら、
「試験勉強、付き合ってくんない?」
思いつきで言ったことだが、よく考えればこれは当たり前のことで、
「……そうか、明日だったな」
司教試験は目前に迫っているのだ。
「ハクレンにも迷惑かけたから、ハクレンも一緒に」
「いいぜ、お安い御用だ」
「助かるよ」

その夜、試験勉強を終えてそれぞれが部屋に戻ろうとするのをテイトはフラウから離れずにフラウのじっと手の中にあるものを見ていた。
手の中にあるものとは、ラブラドールから渡された小さな鉢だ。咲いたばかりの芽は、輝かしい色を放って光に満ち溢れて未来を照らしている。
「エーヴィの木の芽は初めて見るのか?」
「うん……たぶん」
「そんなに物珍しそうに見てるから何だと思ったぜ」
「いや、珍しいとかそういうんじゃなく……」
「?」
「それ、オレも持ってみていい?」
「ああ?」
「すぐに植えてしまうんだろ?」
「まぁ、明日には」
「じゃあ、今持つ」
「なんだ?」
「だって、これ……」
「ああ、そっか、そうだな」
「うん」
テイトはフラウから鉢植えを受け取ると、腕の中に抱き締め、
「やっぱり言わないと駄目な気がする」
「は?」
「もう誰も失わない。誰も悲しませたくない。だから強くなる。どうかオレたちのことを守って下さい」
テイトの声は泣いているようにも聞こえた。
フラウはテイトの頭の撫で、その躯ごと長い腕を回して抱き締めるようにしながら、
「大丈夫だ。オレたちがどんなことになろうとも、きっと導いてくれるさ」
「うん、うん」
「バーカ。なんでお前が泣くんだよ」
「泣いてねぇ」
「泣いてるじゃねぇか」
「お前の代わりだろ!」
「あー? いいよ、別に」
そんな会話をしていると、
「ミカゲを思い出すから、もう泣きたくない」
辛い胸のうちを吐露する。
「思い出すと泣けて、泣くと思い出すのか」
「悲しいことや憎いことが全部ミカゲに繋がる。オレは帝国軍が……アヤナミが憎い。どうして父さんを殺したんだ、どうしてミカゲを奪ったんだ。どうして、どうして」
テイトの悲痛な声が漏れ、涙の雫がエーヴィの芽にポトリと落ちた。
「オレはどうしたらいいんだ」
悲しい瞳は、救いを求めることを諦めているような儚さだった。
「フラウ……」
「ああ、分かってる。ぜんぶ分かってるよ」
フラウはテイトの手を取って部屋から出ると、薄暗い廊下を歩いて進んでいった。
「何処行くんだ」
「中庭」
「えっ」
カストルたちはもう自室に戻っているし、ハクレンも先に戻らせた。しかも、ミカゲもハクレンについて行ってしまった。二人だけでこんな夜遅くに何をしようというのか。
フラウはテイトの手を引いたまま廊下をひたすらに歩く。途中で、
「鉢を落とすなよ」
声をかけると、
「落とさねぇよ。子供じゃあるまいし」
そんな会話があって、何かと言い合いになってしまう。
「ぜってー落とすなよ」
「だから落とさないっつってんだろ」
テイトも頭に来たのか相当ムキになっている。
「こんなことになってもか!?」
「!?」
フラウが正面からテイトを襲った。
詳しく説明するなら、唐突にキスを仕掛けたのだった。テイトは危うく鉢植えを手から落とすところで、キスをされたことよりも落としそうになってしまったことに冷や汗をかく羽目になったのだった。
「お、おま……お前ー!」
「だから言っただろ」
「今のはナシだろ! あれは落としてもおかしくなかった状況だ!」
「そうか? お前の気合いが足りないんだな」
「何の気合いだー!」
「あんまり騒ぐなよ、シスターが飛び出てくるぜ?」
「え、マジで?」
「あー、今頃はボディケアの途中でそれどころじゃねぇかも」
「?」
テイトには、年頃の女の子が寝る前に何をしているのかなど想像もつかない。
「さて、と」
中庭に着くと、フラウはしばらく立ったまま黙り込んで何かを考えていた。
「ちょっと待ってろ」
フラウはテイトを少し待たせて、シャベルやらスコップやらを抱えて戻ってきた。
「えっ、何すんの!?」
「植えるんだろうが」
「今!?」
「ああ」
「植えちゃう!?」
「明日でもいいんだが、時間がなさそうだ」
「……」
「っつうか、お前も手伝ってくれ。本来ならもう少し大きくなるまでこのままでいいんだが、悠長なことは言ってられない。あとは明日ラブラドールに見てもらう」
「分かった」
ふたりでしたかった。
ラグスの鎮魂歌をいっしょに歌ったときのように、ふたりでこの芽を植えてしまいたかった。明日では間に合わない。だから、今を選んだのだ。
「一番日の当たる場所ってここでいいのか?」
「ああ、特等席だぜ」
「暗いのによく分かるな」
「中庭のことは知り尽くしている」
「そっか」
フラウは何年もここに住んでいるのだ。 昼でも夜はどこが一番月が綺麗に見えるか、夜になれば昼間はどこが一番太陽の光が照らされるかも分かっている。
まして中庭はいわゆるテリトリーでもある。まだここに来たばかりの時は、いつも木に登って怒られた。逃げる場所は木の上、泣きたくなったときも、彼を愛してくれる人と一緒に語るときもそこだった。外に出られないときは窓辺で語り合う。そうやって日々を過ごしてきた。
いつでもそばに居ると言ってくれた人はもう居ない。その魂が生まれ変わってくれるなら、絶対にまた自分のところに戻ってきてくれると信じていた。
「フラウはバスティン様に育てられたから、最期はあんなことになってしまったけど、オレにとっても大事な人だよ。感謝してる」
「まぁ、ここに来てからのオレは手がつけられなかったし、あの人が居なかったらどうなってたかな」
「それはオレも思う。こうして近い人を失うのって寂しいな」
「人を失う経験は慣れたぜ」
「慣れることなんかない。何度経験しても悲しみは薄くならないし、だから辛い」
「……オレがお前の頃にはもっと擦れてたもんだが、お前は大人だよ」
ちらりとそんなことを言ってみせると、
「何言ってんだ。オレはそんなんじゃない。たまたまそう見えるだけなんじゃないか」
テイトは急に照れて畏まる。
「その反応もいい感じだ」
「え、からかってんの?」
「いいや、マジだけど」
「ぬぅ。なんか引っかかるな」
テイトが不審な目を向けたところで、
「よし、んじゃ、移すか」
フラウがスコップを置いて鉢をそばに置く。
「大きくなりますように」
「オレより長生きしてくれないと困るから」
「作物が育ちますように」
「神のご加護を」
「フラウがエロ本読むのをやめますように」
「テイトの身長が伸びますように」
「……フラウの女癖が直りますように」
「テイトが横に伸びませんように」
「ってー!!」
「だから何の願かけをしているのか」
「ワケ分かんねーよ」
「お前がおかしなこと言い出したんだろ」
「オレじゃねー」
「明らかにお前だよ」
「ああ? オレは普通のことを言ってた。からかいはじめたのはお前だ」
「なんだとー?」
やはり一触即発の事態であるが、結局笑ってしまって喧嘩にはならない。こうしてふたりの思いを込めながら、やっと移し変える作業を終えたのだった。

フラウとテイトに撫でられたエーヴィの芽は、優しく暖かい色を放ち、この教会を永い間守ってゆくだろう。
過去の償いと、これから罪を負う迷い人の償いをも受け、世の人々が愛に満ちるよう願いながら。

道具を片付け、手を洗ってから庭から離れ、中に入った。
「悪ぃな、時間くっちまった」
「ううん。どうせ眠れなかったし」
「明日は寝坊すんじゃねーぞ」
「分かってるよ」
「その姿も見納めか。新しい服はあるのか?」
喪服姿のテイトを見つめて呟くと、
「うん。シスターが用意してくれた」
悲しい顔はまだ消えず、心の傷が大きいことを改めて知る。フラウはこれ以上ミカゲのことには触れず、
「まずはやるだけやってみろ」
あとは背中を押してやるだけだと思った。
「ああ。やり遂げてみせるさ」
まっすぐな視線を向けるテイトに、
「えらいな」
大きなてのひらで頭を撫でてやる。
実は、慰めるにはこの方法が一番効くもので、頭を撫でられて安心するという心理を利用し、フラウは何かあればテイトの頭を撫でてやっていた。
「ここまできたらやるっきゃないだろ」
「その通りだ」
(その扉の向こうで待っている)
フラウは心の中で呟いてテイトを見つめた。
「フラウも大変なことになっちまってオレのことなんか構ってる場合じゃなかったかもしれないけど……」
「そんなことねぇよ、色々助かったぜ」
優しい声音で言うと、テイトは真っ赤になって俯き、
「まぁ、お互いさまってことで」
妙に照れてしまうのをどうやってごまかそうかと懸命に考えていた。
「とにかく試験頑張れ」
「お、おう。お前も無理すんなよ」
「はいはい」
「じゃあな」
「おやすみ」
「おやすみ。……って、なんでオレ掴まれてんの?」
この時、フラウはテイトの腕をがっちりと掴んでいたのだった。
「おやー? 手が勝手に」
ニヤニヤしているところを見ると故意にやっているのだろう。しかし、
「フラウ、一人になるの寂しいのか?」
テイトが何となく思ったことを口にすると、
「まさか。オレはお前を離したくないだけだが」
熱い台詞でテイトを驚かせる。
「うお。はっきり言うな」
「なぁ、もう1回いいか?」
フラウはそう言ってテイトを引き寄せた。
「なに?」
フラウはテイトを抱き締め、大きく溜め息をつく。
「いや、何もしねぇよ、こうするだけ」
もう一度この手に抱き締めたかった。顔を見て会話をしているだけでは物足りない。
「フラウ?」
「ああ、ほんとに居るんだな。お前なんだな」
「!?」
「良かった」
「言ってることがよく分からない」
フラウの腕の中でもぞもぞと動いていたテイトが見上げると、フラウは力の抜けたような顔でテイトを見つめた。
「いいんだよ、分からなくても」
「えー?」
「つか、これももう1回」
「なに? ……むぐ!」
こうしてまたくちびるを塞がれ、テイトは抵抗しようと試みたが出来るわけもなく、あっさりとおとなしくなった。だが、ここは廊下である。部屋の中ならばまだしも、公共の場でこんなことをされて喜ぶ性癖も持っていない。
すぐに終わるだろうと思っていたキスは中々終わらず、
「……ッ! ……!!」
テイトがフラウの腕をつねって訴えるも、フラウはがっちりと押さえ込んでテイトに一切の自由を与えない。
しばらく何も言えず、何も出来ずに息を吸うこともままならぬ状態でフラウの激しい口付けを受けていた。
ようやくくちびるを離したかと思えば、
「で、何か言いたいことあるのか」
今頃になってフラウが訊ねた。
「キッ、キスが長いよっ」
「そうか?」
「だって、ここ何処だと思ってんの!」
「まぁ、廊下っつうところだ」
「無理だろっ」
「ベッドの中でならいいのか」
「そういう問題じゃなく!」
「しょうがねぇな、じゃあ、やめるよ」
「え」
「え、って何だ」
「……あっさりやめるんだなと思って」
「明日試験だもんな」
「そうだった」
「そういうわけで、これはオレからのおまじないだ」
「!?」
フラウは、もうやめると言っていた口付けを再度テイトに施す。
「!!」
テイトは更に惑乱し、フラウから離れようとしたがテイトの力ではどうにもならない。
舌が絡み合い、小さく漏れる吐息は宵の闇に溶け、テイトは今日あったことを思い浮かべて熱い記憶を持て余した。
ホークザイルで空を飛びながら自分を抱き締めてくれた、あの力強い腕がここにある。長い腕で包むように、そして大きなてのひらで髪を撫でるようにして抱かれるのだ。その甘い感覚に軽い眩暈を覚え、今も愛されていることを感じたが、それを口に出すことはない。
そう確信してしまうのが怖かった。
フラウに出逢い、抱き締められてキスをされるたびに、想いが強くなることを知った。恋愛の経験のないテイトが、恋をしていられる唯一の居場所がフラウの腕の中だった。
やがてフラウはくちびるを離すと、
「お前は今出来ることを精一杯やるんだ。それだけでいい。過去の辛さや失敗は忘れられないだろうが、今ある道を進め。迷いなく進め。恐れることは悪いことじゃない。だから素直にまっすぐに進むんだ。そうすれば自ずから未来は拓ける」
真摯な態度で呟いた。そして今度は、
「試験は落ちたらまた受けりゃいい。オレは二回も落ちてるんだぜ」
ニカッと子供っぽい笑みを見せながら言うのだった。さすがにこれには反応せずにいられない。
「あー、その台詞は何故か物凄く説得力がある」
テイトが呆れた。
「ま、今回一発でお前が受かったら、それはオレ様の濃厚なキスのおかげだな」
「なんでそうなる!?」
「色々あって心も躯もガッチガチだったのがほぐれただろ?」
「ほぐれ……てねぇ! むしろ固まった!」
「なんで」
「廊下でこんなことされたら緊張するに決まってる」
テイトの言い分も一理あるが、
「そんじゃあ、とろとろになるまでしてやるか」
フラウは引き下がるつもりはないようだった。
「あ、うそうそ! すっごいとろけそう!」
「どの辺が?」
「どの辺って……どこだ」
テイトが真顔で困っている。
「真面目に答える気か」
フラウはおかしくなって笑い出したが、
「フラウはどこがとろとろになる?」
「オレか? どこだろうなぁ、やっぱ、ココじゃねぇか」
自分の胸にトン、と手を当てて答える。
「う、ん。でも、クラクラしてきたりボーッとしてきたりする」
「脳味噌にきてんのか」
「そうかも。だから試験に落ちたら、前日にキスされて頭がおかしくなったせいだって言う」
「おい、それほんとに言えんのかよ」
「言えねぇ」
「だろ。だったら受かれ。ま、要するにキスのおかげってことには変わりねぇな」
「ちょ、だから違うって」
慌てて否定したが、試験に受かったら、それはフラウが的確な助言をしてくれたからだと言うことにしようと決めている。
絶対にキスのせいじゃない、万が一にもそれはない。
頑なに否定したが、一体どれが本当なのか分からなくなってしまった。

「でも、ありがとう。フラウが居てくれて良かった」

テイトが自分から躯を預け、そしてフラウの大きな背中に腕を回した。

「それはオレの台詞だぜ」

大事な人は、ここに居る。
互いの存在が確かであることを、深夜の回廊に小さく燈る篝火だけが迷うことなく証明していた。


fins