120秒(Kapitel.44より)


運命はこんなにも厳酷で、こんなにも悲しい。
テイトがパンドラの箱であることは隠され続けていた真実で、自身がそれに気づいてしまっても、もう、事実は変わらない。
自分の中で悪魔が蠢いているのに、ミカエルの加護もなく怯えるしかなくて。
テイトはすべてを受け入れる覚悟と強い勇気を心の中に秘めている。けれど、悪魔が目覚めれば最後に世界を滅ぼすのは自分だと思えば耐えられるはずもない。
「フラウ……」
たった今、テイトを闇の淵から救い上げてくれたのはフラウだ。目を覚ましたとき、テイトはベッドの上に寝かされ、過去を彷徨って戻れなくなっていたところをフラウによって引き戻された。名前を呼ばれて目を覚ましたが、テイトが見ていた過去は、フラウにも見えていて、彼もまたテイトがパンドラの箱である事実を知ったのだった。
「オレがパンドラの箱だったなんて」
叩きつけられた現実は、あまりにも惨い。
悪魔がテイトの魂を喰らうのならば、世界を滅ぼす前にすべてを終わらせなければならない。断ち切るための鍵を握るのはフラウだとテイトは告げた。自分たちは、フェアローレンの復活を阻止するために出会ったのだと、今、それがはっきりと証明され、決して偶然ではない必然の出会いに確信を得たのだった。こうなることが最初から仕組まれていた、絶対の世界。
「テイ……」
フラウが何か告げようと手を伸ばしたとき、奴隷船の操縦士がテイトの様子を見に来た。彼は、テイトが故障した奴隷船をザイフォンで飛ばし、ラグス城に着いてから再び気を失ったため、休む場を与えてくれた奴隷商人の一人である。過去を思い出す瞬間は必ずこういった症状が起きて、意識が遠のく。これもまた、フラウがそばにいてくれたから良かったものの、一人雪の中で倒れていたら一大事であった。
借りていた部屋は奴隷商人の根城で、少しの間そこに留まることにしたが、事態は一刻の猶予もないという焦りがあり、どこか空気がピリピリと張り詰めていた。
操縦士はテイトの様子を見に来たのもあるが、もうすぐ食事が出来ると告げに来たのだった。だが、フラウに睨まれて部屋を出て行くことになる。そもそも何故フラウが睨んだのかと言うと、テイトとフラウの話はまだ結論が出ておらず、これから深刻な話をしようとしたときに水を差されたような格好になってしまったのだから、彼はタイミングが悪かった。しかし、二人ともこの段階で結論は出せなかったのだ。誰かに委ねられるわけでもなく、どうすることもできない。そんなもどかしさにくちびるを噛み締めるしかなかった。
「……カペラは?」
ベッドの上でテイトが訊ねる。
「あいつも無事だ。今、食事の準備を手伝っている」
それを聞いてほっとするも、
「良かった。オレも行かなきゃ」
ここで寝ているわけにはいかないと思い、ベッドから出ようとするとフラウがとめた。
「……顔色が悪いぜ」
「大丈夫だよ」
「無理すんな」
「してない」
「お前は休んでろ」
「嫌だ」
「ったく、反抗期め」
「そんなんじゃない」
「言うこと聞けっての」
「だから心配いらないっつってんだろ」
両者一歩も譲らぬ恒例の言い合いである。すると、
「あー、違うんだ、オレ、こんなこと言いたいんじゃない」
テイトがぶんぶんと首を振って姿勢を正した。
「なんだいきなり」
「だ、だから……また助けてもらって……今、オレ……」
倒れて寝かせられていたということは、助けてくれたのはフラウしか居ない。しかも、過去に捕らえられていたところを助けたのもフラウだ。
「危なかったな」
闇を彷徨うたびに救い上げてくれる。前に進めなくて立ち止まって、崩れ落ちそうになれば抱えあげてくれる。嫌がるテイトを軽々と持ち上げ、からかっているがフラウにとってそれはアドバイスであり、愛情表現の一つでもある。
「ここまで運んできたのもフラウだろ?」
「ああ」
「駄目だな、オレ」
「そんなことねぇよ」
「フラウがいなきゃ何にも出来ないみたいだ」
「んなわけねぇだろ。それはお互いさまだ」
「お互いさま?」
「助け合い運動」
「は?」
「ま、気にすんな」
フラウは明るく笑っているが、テイトはこうして長い時間一緒にいることで、フラウへの信頼が厚くなっていく。
「とにかくありがとう」
それだけ言いたくて顔を赤らめながら言うと、
「お前は偉いよ」
辛い状況にいても周りをよく見ることの出来るテイトを認め、そう言って頭を撫でるのだった。
「別に偉くなんか……」
照れ隠しにごまかすが、
「強くなれ」
「……うん」
「これから何が起きても、負けるんじゃねぇぞ」
「分かってるよ」
「よし、いい子だ」
フラウがテイトの頭の上にポンポンとてのひらを置いてニカッと笑う。
「……」
「どうした」
「え。あ、なんていうか、カストルさんもだけど、フラウも子供の扱いうまいな、と思って」
「あー、そうか? それはどうだかな」
今度はフラウが曖昧な返事をした。
「教会で見てたときも思ったけど、子供たちに人気だったし」
「まぁ、子供は大きくなっていくだろ。これからの世の中を支えていくんだから大事にしないとな。そしてお年寄りはいつだって人生の手本だ。勉強すべき相手だ」
「うん。……つうか、フラウはいつもふざけてるけど、言うことは一理あるし、ちゃんと分かってるんだよな」
顔をしかめながら言っているのは、認めたくないけれど認めるしかないという気持ちがあるからだ。
「なんだ今更。オレ様に惚れ直したか?」
「そうじゃねぇよ」
これは否定という名の肯定である。テイトの照れ隠しには、たまに素直になれない天邪鬼が顔を覗かせる。
「んじゃ、オレは向こうに行ってメシが出来たかどうか見てくる」
ベッドの淵に腰掛けていたフラウが立ち上がると、
「オレも」
テイトも出ようとする。自分ばかりが寝ていられないと思うが、そういう性格なのだ。
「お前はいいっつうの」
「もう大丈夫だから」
「震えてるくせに」
「!!」
どんなに大丈夫だと自分に言い聞かせても、不安で怖くて、絶え間なく襲い来る苦悩に躯が震える。押しつぶされそうになって弱音を吐きそうになる。自分の中に悪魔の躯が封印されているなど、隕絶を招く恐怖に耐えられるはずもなかった。
「こういうときは荒療治かな」
フラウが再びベッドに腰掛けてテイトを見つめ、頬に触れて指先でくすぐるように撫でると、
「な、なに……する……」
テイトが困ったような顔をした。
「いいコト」
「えっ、今!?」
「抱くわけじゃねぇよ。んなこと出来るか」
「だ、だよな」
「でも、これなら出来るだろ」
ゆっくりと顔を近づけて距離を縮める。
「あ……」
キスをするのだと思った。
本当のことを言うと、テイトもそれを望んでいた。それだけはしてもいいと思っていた。だから、拒絶はしなかった。
「でも、誰か来たら……」
ここは教会に居たときのようにフラウの部屋でもなく、人影のない場所とは違い、さきほども様子を見に来られて焦ったというのに、今からすることは見つかってはいけない秘密の行為である。
「こういうスリルも大事だろ?」
フラウは余裕で笑うが、
「無理だって」
「じゃあ、やめるか?」
互いのくちびるまであと数センチのところまで来て、なかったことにするなど……。
「ううん」
テイトが即答した。
「でも……」
即答したわりには決意が鈍る。
「大丈夫だって」
「その自信はなんだ。え、ちょ……」
テイトが何か言いかける前にフラウはテイトのくちびるを塞いでしまった。
「あ……」
声が漏れる。
「……ッ……!」
キスは一瞬だけかと思っていた。しかし、フラウは離さないどころか顎に手を掛けてテイトの口を開かせようとする。
「ふ、ふら……う!」
「口開けろ」
「そんな……」
こんな時に濃厚なキスなど出来るはずがない。それを分かっていてわざとなのか、誰かに見られたらどう言い訳するのか、先のことを考えているのか全く理解できない。
テイトは頭の中で考えたが、フラウの攻め方が上手だった。
「2分でやめる」
「!?」
「3分やったら完璧止まらなくなるからな」
「でも誰か来たら……!」
「外からドアに手を掛けた音で気付く」
入ってくる前にやめるということだった。それならば……。
「……なら、平気、かも」
テイトがわずかに口を開いて顎を上げた。自らを差し出す仕草は、今まで見たことがないくらいあどけなく、そして淫猥だった。
「は、やく」
早くキスがしたいのか、しないと誰かが来るから焦っているのか、舌たるい言い方をしながらテイトはフラウのコートを引っ張る。
「急かすなよ」
余裕の笑みを見せて、角度を変え、フラウはテイトの口を貪った。
最初の10秒で手を合わせ、指を絡ませた。20秒間、指を開いてはまた絡め、開いては絡めて、30秒後に強く握り合った。
「……ぅ」
荒くなる呼吸と言葉にならない声。
40秒経ってフラウが片方の手をテイトの背に回す。そしてテイトはフラウの腕に縋る。50秒過ぎてからは背中に回しただけの手が躯を愛撫しはじめる。テイトは肩をすくめて背をピクンと反らし、感じているのだと態度で示す。
1分後にはフラウがテイトの舌を甘噛みする。
ここまでくると、今すぐ着ているものをすべて脱ぎ、肌を合わせて愛し合いたいという性衝動が生まれる。フラウの冷たい躯を感じるたびに、この滾るような熱を全身に伝えてやりたいと思うのに。
「シチューの匂いがするな」
ふとくちびるを離してフラウがそう言った。キスで危うく堕ちそうになっていたテイトは現実に引き戻されて我に返る。本来なら白けてしまうのだろうが、フラウは含み笑いをしながら故意に言ったことであって、テイトは逆に冷静になりながら、
「おいしそう」
言いながら笑った。
「でも、今は……」
今はいい、それよりも、もっと。
最後の1分間は、互いに言いたいことが収まらず滅茶苦茶になってしまった。
「フラウ」
キスをしながら喋るなんて初めての経験だ。
「なんだ?」
啄ばむようにフラウは優しいキスをする。
「オレ、強くなれる?」
そう言って口を開いて誘う。もう一度ここにしてほしいと、舌を見せながら濡れたくちびるを差し出して。
「強いさ。今でも」
引き寄せられるように重ねれば、甘い吐息がリンクする。
「強くないよ、ほんとは」
「ああ、泣き虫だからか?」
「う、うるさ……」
テイトの両腕はフラウの首へ。
「ホントは強くないってのも分かってる。オレの前ではな。オレにだけは弱音を吐いてもいいんだぜ」
フラウは両手でしっかりとテイトの細い躯を抱きしめた。守るように、包むように。
「泣きそう」
「泣くなよ」
「弱音吐いていいっつったじゃん。イジワル言うな」
「優しいだろ、オレは」
「そんなの……」
分かってる。
最後の5秒は、くちびるだけを合わせたまま動かずにいて、ジャスト120秒で二人はゆっくりと離れていった。目を開けて互いの存在を確認すれば、今一度絡み合いたいと思ってしまうのが切なかった。
「時間、きっかり?」
「ああ、時計見てたからな」
「そういうとこはキッチリしてんのな」
「腹時計だよ」
「んなわけあるか」
もう少し、もう一度だけ、あと5秒でいいから。
同じことを思っても、口には出さない。これは誘惑の罠だ。止められなくなる前に、この名残を刻めば次はもっと熱くなれる。今度抱き合うときに激しくなれることを知っている。
すると、部屋の外から元気な足音が聞こえてきた。
「フラウ兄ちゃん、テイト兄ちゃん、ごはんだよ!」
ドアを開けて、カペラの愛くるしい笑顔が飛び込んでくる。
「今、行くよ」
テイトが笑った。カペラを見ると自然に笑顔になるのだからテイトはカペラにもどれだけ助けられているのか知れない。
「テイト兄ちゃん、元気になった?」
心配そうに覗き込むカペラの頭を撫で、
「そうだな。お腹空いたから食べたらもっと元気が出るかな」
にっと笑うテイトのいたずらっぽい顔を見て、
「よかった!」
万歳をして喜んでいる。
「行こう!」
カペラが両手を差し出した。そしてカペラを真ん中にして三人が手を繋ぐ。
これが重い影を背負って歩く不幸の姿であると、誰が言えよう。まさに希望を抱く者が光のあるほうへ導かれ、幸せを掴むために前に進む、愛しい者の姿であることには違いない。
「フラウ」
テイトが歩きながら小声でフラウの名を呼ぶと、フラウは何も言わずにテイトを見つめた。
「ありがとう」
震えは止まった。
「まだまだ」
「な、なに?」
「泣きそうな顔」
「してねぇ!」
どうしてフラウには分かってしまうのだろう。
テイトは苦笑いをしながら、カペラにメニューを訊ねてごまかし、シチューのほかにチーズと牛乳があることを聞くと心の中でガッツポーズをするのだった。
対してフラウはげんなりしている。彼は乳製品が苦手なのだ。

その後、賑やかな食事を摂ると、テイトは一人で外へ出て行った。幼少の頃を過ごした城をもう一度見るために。

そこでまたフラウとテイトの絆が強く、強く結ばれることになる。
フラウの言葉はテイトに勇気を与え、彼を救う。けれど、そのたびに涙を見せてしまい、いつまで経っても「泣き虫」という第二のあだ名を返上することが出来ない。しかし、泣いた分だけ強くなれると言う台詞は、あながち嘘ではないと思った。

そして、今はまだ、この躯の震えを止めてくれる腕があれば、もう少し泣いてもいいのかもしれないと思うのだった。


fins