空が退紅色に染まってゆく。
外部からの進入をまったく許さない鉄壁の防御と世界随一の軍事力を誇るバルスブルグ帝国軍の基地、ホーブルグ要塞からゆっくりと外を眺めることが出来るのは、一日が平和に終わった証拠だった。 「今日はとってもいい日だったねぇ」 ヒュウガがのんびり呟くと、アヤナミはヒュウガを一瞥しただけで、また書類に視線を落とす。 軍の中で第一にハードスケジュールをこなしていると言われているアヤナミ参謀長官は、これから寝るまで会議会議の連続なのだった。もっとも、彼の一日の睡眠時間は3時間と決まっていて、眠らないこともあるくらいだ。 いつもカツラギ大佐がアヤナミの顔色を心配するが、アヤナミは食事もろくに摂らないし眠らない。だから顔色が優れないのだと日々訴えているものの、元々青白いのである。戦場に行けば顔色が良くなるため、ヒュウガいわく、 「知らなくてもいい秘密の事情がある」 なのだが、カツラギにとっては細身の参謀長官がストレスで倒れはしないか、栄養不足で病気にならないかとハラハラするのだった。 今はアヤナミとヒュウガ以外のメンバーが出払っており、部屋には二人しか居ない状況で、ヒュウガはここぞとばかりにアヤナミを「口説き」始めた。 「これからまた会議だってね。アヤたん、ほんとは会議中、目を開けて寝てるんでしょ」 仕事をしているフリをしながら、アヤナミをスケッチして書類の裏に描いている。 「貴様と一緒にするな」 「え、オレは目を開けて眠れるのはほんの数秒だけだよ。あれはなかなか難しいね」 「……」 「でも、目を覚ますいい方法があるんだ」 「そうか。それなりに努力をしているというわけだな」 「うん。眠くなったらアヤたんのこと考えると目が冴えるからね」 「……」 「いろんなこと考えちゃうよー。時にはアヤたんがオレの頭の中で乱れたりすると、すっごくいい感じ」 「……」 「アヤたんは眠くなったら何を考えるのー? まさか軍食メニューとかじゃないよね?」 ヒュウガはどこまでも茶化し、アヤナミを怒らせようとしているのだ。 「私は……そうだな、貴様のことを考えている、と言っておこう」 「えっ、マジで?」 「嘘は言っていない」 「マージーでー?」 大きな声を出してはいるが、棒読みである。ヒュウガは本気にしていない。 「好きなように捉えるといい」 それだけ言うと、椅子から立ち上がりカツラギ大佐の机に書類を置いて、そのまま部屋から出て行った。 「一人で行動するなってあれほど……」 ヒュウガがぼやく。 「アーヤたん、美人の一人歩きは危ないよ!」 ヒュウガが追って近づくと、 「お前も来るがいい」 アヤナミは珍しくヒュウガを誘う。 「え、オレ、何処に連れ込まれるんだろう……」 嬉しいのに不安な振りをして聞こえるように独り言を言うと、 「お前の好きなところだ」 アヤナミは珍しく返した。 「え、そこって……」 数十分後。 「イヤ。もう帰りたい」 ヒュウガが駄々をこねていた。 「帰ってもいいが、また明日来ることになるぞ」 「えー!」 二人は軍内の地図局に来ていた。 「っていうか、こんなところでデートは嫌だよ」 「……」 「あっ、そうか! 図書館でいかがわしいことすると燃えるっていうのと同じで、たまにはこういうところでアバンチュールすればいいってことか! アヤたんの意図が分かったよ。気付かなくてごめん」 ヒュウガはわざとらしく言いながら、アヤナミのそばに近寄った。 「で、どうされたいのかな?」 「……」 アヤナミは無視を決め込んでいた。何かを探しているようで、ヒュウガに構っている暇はないといった様子だ。そして厚みのある書類をいくつも取り出すと、ヒュウガに渡す。 「何これ」 「持ってろ」 「え、これ持ってプレイすんの? 新しいやり方だけど、オレ両腕ふざがってるよ? まさかアヤたんが奉仕!!」 「貴様」 「なんだよ、じゃあ、これ持ったまま筋トレ?」 「そうだな、お前はそれがいい」 「やだー。こんなのでしなくてもアヤたんで筋トレしたい」 「……」 ヒュウガはわざとそう言ってからかい、アヤナミの後ろをついて回った。その間に、いくつもの資料がヒュウガの腕に積み重ねられていく。 「重いんだけど」 「それだけあれば、そうだろう」 「こんなの抱えるより、アヤたんを抱えた……、!!」 積まれた資料の上に手を置いて、アヤナミがヒュウガを見上げた。数秒視線が絡まり、どちらも外すことなく見詰め合う。すると、 「私ごと抱えて帰るか」 いつものような冷たい笑みを見せてアヤナミが言った。 「うわ、それいいかも! この上に乗っちゃう?」 アヤナミが冗談を返すのは珍しい。ヒュウガも上機嫌になるが、 「ほんとに運べそうだけど。アヤたん、ちょっと痩せたでしょ」 鋭く指摘したのだった。 「……」 当然、アヤナミが答えるはずもない。 「体重が55キロを切ったらタダじゃおかないよ。無理矢理口の中に食べ物突っ込むからね」 そんなことを言うと、 「その必要はない」 いつものようにヒュウガの懸念を一蹴した。 「そりゃもうすぐ戦地に向かうからねぇ。この資料はそのためのでしょ。相変わらず熱心だこと」 「お前たちにも働いてもらう」 「頑張りますよ。アヤたんの為だもの」 「お前には一番難しい任務を与えよう」 「え、ホント? 難しいのは嫌いだけど、やってみる」 「お前に出来ることだ。お前にしか出来ないと言うべきか」 「そう言ってくれると嬉しいね」 「だろう」 「だって、オレが何のために人を斬るか分かるよね?」 「……」 「人を斬れば斬るほど、アヤたん綺麗になるからね。あ、アヤたんはいつでも美人だけど」 ヒュウガがそう言うと、背を向けていたアヤナミが含笑した。 「今、笑ったでしょ」 後ろを向いていても分かるよ、とヒュウガは付け加え、 「抱きしめたいのに出来ないって、これなんてプレイ? 焦らしとも違うような」 両腕が塞がっていて、二進も三進もいかないと訴える。 「……」 「そんなわけで、どうせここまで来たんだから、いかがわしいことしよう」 立て続けに繰り出されるストレートな物言いに、 「残念だが、今はそんな暇はない」 迷うことなく撥ね付けたのだった。 「アヤやん、暇がないからこそいいんだよ? 時間がない、誰か来る、バレるってのが刺激的なんだから。大体さ、こんなの取りに来るの、アヤたん自らすることじゃないじゃん。カツラギさんに頼むとかコナツに言えば即行で持ってきてくれる。それをオレを連れてくるなんて、アヤたん誘ってるとしか思えないんだけど?」 もっともなことで応戦するヒュウガだが、 「お前は口の減らない男だな」 アヤナミが冷たく言い返す。 「……」 今度はヒュウガが沈黙した。 「いや、減らないというより、口の巧い男だと言っておこう」 アヤナミが言いやった。 「あれー、外された」 ヒュウガは笑いながら、 「五月蝿いって言われたら『口塞いで』って言おうと思ってたのになー」 失意の念を表し、落ち込んだ振りをした。 「私がその手に乗らないのは分かっているだろう」 「うん。でも、口が巧いって言われるとは思ってなかったな」 「まさか自分で気付いていないとでも言うのか」 「そんなの自分じゃ分からないでしょ」 「戯言を」 「ほんとだってー」 「ならば助言してやろう。そうやって口巧く誰彼たぶらかすな。私を含めてだ」 「誰彼って、オレはアヤたんに夢中だよ?」 「……」 「ってことを証明するためにあっちこっちに手を出してみる」 「!」 「そうすると、本当に本気なのは誰かってのが分かる」 「そういう言行を言っているのだ。お前はそういうのがいけない」 「駄目出し……」 「惰気さえなければお前は十分なのだから、せめて目立たないようにしていろ」 「おや、オレはいつも目立たないようにしてるじゃん」 その素顔を隠してまで。 サングラスで人との距離を作って本物の自分を追いやり、力すらもすべて出し切ったことがほど慎戒している。 「オレはアヤたんが大事だから」 「……」 「もう何度も聞いてるでしょ、この台詞」 そう言われて初めて、アヤナミが一瞬惑うような仕草をした。 「私は……」 「大丈夫、もう何も失わせない」 その言い方は、いつもの敵陣に躍り込むような勢いはなく甘やかで、それでいて侃直としていた。 「ヒュウガ」 いつだってそうだ。こんなときだけ、持っている全てを武器にしてアヤナミに襲い掛かる。その武器とは愛情と優美の契合なのだった。 不安なものは取り除いて邪魔なものは追い払い、惑わせるすべてのことから救ってやりたい。そうしてあの場所へ行けるなら、もう何も要らないのに。 何秒もの霞むような沈黙が二人を包む。このまま永遠に時が止まればいい、そう思っていたが、 「でも、そろそろ荷物重くなってきてるんだけどね」 ヒュウガが大きくため息をついてうんざりと呟いた。 本を大量に抱えたまま時が止まってしまっては無様である。どうせ止まるなら、本ではなく、アヤナミを抱きしめたまま止まって欲しい。 そう思うも口には出さず、 「もう用は済んだんでしょ? 帰ろう。アヤたん会議あるって言ってたじゃん」 ここでいやらしいことをするのも諦め、執務室に戻ることを促した。 「まだだ」 「えー! 重いしー!」 「私の重さだと思えば大したことはないだろう」 「なんでー! アヤたん、こんなに硬くないよ。あっ、頭は固いかなっ」 また冗談を言い始め、そのうちアヤナミが本気で怒るようになる。 「では、最後はこれだ」 そう言いながら、厚さも広さもある資料を一番上に乗せると、アヤナミはさっさと出口へ向かって歩き出してしまった。ヒュウガもやれやれと後を追うが、 「荷物持ちなら街でお買い物しながらのほうが良かったなぁ」 本音を漏らす。 「ならば今度付き合わせてやる」 男二人で買い物をする図を思い浮かべたが、その前にアヤナミがそんなことをするわけもなく、 「あ、大人のオモチャ売り場とかはやだよ?」 おかしなことを言い出した。 「貴様……」 「でも拷問具買うなら付き合う!」 その拷問具の餌食になるのは自分かもしれないというのに、ヒュウガは面白そうに呟いた。 「そうか。その言葉を忘れないでおこう」 「……怖い」 言ってしまって後悔するヒュウガだった。 執務室に着いたとき、カツラギ大佐を始めとする残りのメンバーが揃っていた。彼らは食事に出掛けていたのである。 「お疲れ様です、アヤナミ様。どちらへ行かれていたのですか」 カツラギが言うと、 「地図局まで行ってたよ、見て、この資料と地図!」 ヒュウガが説明して机の上にドサリと荷物を置く。 「凄い量ですね!」 コナツが驚き、 「こういうの見てると眠くなる」 クロユリがあくびをした。 「仰って頂ければ私がお持ちしましたのに!」 カツラギが惶急するが、 「私が独断で選んだものだ。だが、お前達にも目を通してもらう」 そう宣言したのだった。 一番ギクリと反応していたのはヒュウガで、 「オレは持ってる間に見ちゃったからいいよね」 なんとしても逃れようと言い訳を考える。 「お前が見たのは表紙だけだ」 「いや、透視して見たし!」 「ヒュウガ。私がさきほど言った言葉を忘れたか。お前がそのような態度を取るのなら特別な厳科が必要なようだ」 「はいはい、ちゃんと見まーす」 「お前は私が会議から帰ってくるまでの間、すべてに目を通しておけ」 「えー! 何時に帰ってくるのさ!? 無理でしょ」 不遜な態度を示すと、 「本日は会議が続けてありますので24時は回ると思います」 カツラギが言及する。 「オレ、9時に寝ないと駄目なんだ」 しれっと言うが、 「少佐がそのような時間にお休みになられたことは……」 コナツに事実をバラされそうになる。 「コナツゥー」 「は、はい。でも、たぶん大丈夫ですよ、少佐なら。お仕事の書類とは違いますし、一度お読みになっただけですぐに頭に入るようですし」 「そうかな?」 「ええ」 コナツがにっこりと笑う。 「おやおや。コナツは少佐の扱いがうまくなりましたね」 「いえ! そんなことは!!」 カツラギに褒められ、コナツは顔を赤くして否定していた。 「では、そろそろ会議の時間です。参りましょう」 会議にはカツラギが同席するようだった。 「あれ。アヤたん、ご飯は?」 「必要ない」 「また! やっぱり引きずってでも食堂連れて行くなり何か買ってきて食べさせれば良かった! カツラギさん、休憩になったら無理矢理食べさせて下さい!」 ヒュウガには一大事であるが、メンバーにとっても同じで、 「てっきりアヤナミ様はヒュウガ少佐とご一緒にどこかで夕食を摂られていると思ってました」 カツラギが驚いている。 「今日のメニューは美味しかったですよ、アヤナミ様」 クロユリまで説得している。 「ほんとに何も食べてないんだ。アヤたん、お腹の虫が鳴っても知らないからね」 ヒュウガの物の言い方には緊張感がない。 「私が何とか致します」 カツラギが責任を負うと言ってくれたお陰でヒュウガもクロユリもコナツも安堵の表情を見せるが、 「ほら、アヤたん、部下に心配かけちゃいけないでしょ、ちゃんと食べてね!」 「……」 矢継ぎ早に言われてアヤナミの怒りの鞭が飛ぶかと思えば、アヤナミは静かに笑っていた。かろうじて、そう見えるとしか言えないほどだったが、こうしているのは、決して嫌いではないようだった。 「では、行って参ります」 アヤナミとカツラギが部屋から出て行った。 「さて。オレもご飯食べよう」 「あ、少佐もまだでしたね」 「というわけで、行こうか」 「お食事ですね? 行ってらっしゃい」 「いや、コナツも」 「私は済ませましたが……」 「いいから、付き合う! そばに居るだけでいいんだから」 「でも仕事が」 「それは後で! クロユリ君も来る?」 クロユリにも声を掛けるが、 「僕はハルセのところに行くもん」 「分かった。気をつけて」 「うん!」 クロユリがトコトコと可愛らしい足音を立てて部屋を出て行く。 「私は仕事を……!」 「聞き分けないこと言わない!」 「聞き分けがないのは少佐じゃないですかぁ!」 ヒュウガはコナツを引きずるようにして食堂に向かった。アヤナミのこともこうして引きずっていけるのなら、どんなにいいか。……そう思いながら。 食事を終えたあとは例の書物に目を通さなければならないのだが、速読で斜め読みをしただけで殆どの内容を覚えてしまい、図に関しては一度見ただけで詳細を記憶してしまった。 「終わりー!!」 と告げた言葉は始まりの言葉で、 「えっ、もうですか!? って、ちょ……あ……!」 仕事をしているコナツにちょっかいを出し始めた。ちょっかいと言っても大人向けの内容である。 「またこんなところで何を……! 今は駄目です! 残業がますます伸びます!」 「いいじゃん、仕事よりこっちの方が簡単じゃない?」 「そ、それはそうですが……って、違います!!」 「コナツは可愛いねぇ」 「もう! 少しは手伝って下さい!」 「キスさせてくれたら」 「……ほんとですか?」 「ほんとほんと」 こんなやりとりもゲームのうち。楽しい楽しい言葉遊び。 「では、お仕事をして下さったら、キスして下さい」 「……そう来るんだ」 「ええ、仕事を終わらせてからのほうがゆっくり出来ますし」 「……コナツ、誘うの巧くなったね」 ヒュウガは腕を組んで真剣に考え込んでいる。 「さ、誘ってません! 順番的に言って普通です」 「まぁ、いいや。早く終わらせようか」 「はい!」 ヒュウガが意欲的に仕事に取り掛かった。 「アヤたん帰ってくるまで待ってたら喜んでくれるかな〜」 「それまでには終わってしまうかと思うのですが……」 コナツが首を捻っていると、 「よし! 一枚終わり! キスしてもいいよね!」 ヒュウガが一枚書類にサインしただけの状態でペンをスピニングしながら声高らかに訴える。 「はい?」 「一枚終わったよ! 一枚でも”終わらせた”ことには変わりないんだから苦情は受け付けない」 「……」 コナツが呆れ果てていた。しかし、 「そう、ですね。一枚ごとにキスをしていたら……唇が腫れそうですが、時間がかかって終わる頃にはアヤナミ様もお帰りになるでしょう」 ひくひくと顔を引きつらせながら呟いた。 「でしょ! いいアイディアだよね! 早速……」 ヒュウガはコナツの腕を強引に引っ張ると、腕の中に抱きとめた。 「しょ、少佐……毎回こんな感じ……ではないですよね」 「もちろん。色々試すよ」 「試す!?」 コナツは一体何が起きるのか仕事に集中できなくなりそうだった。 結果、仕事が終わったのと会議の終了時間が重なり、部屋に戻ってきたアヤナミはコナツの顔を見て、 「ヒュウガ」 と声を落として名前を呼んだ。 「なんでしょう」 「……お前はやはり私の言ったことが分かっていないようだ」 「え。なんでバレてんの?」 コナツの憔悴しきった顔を見れば一目瞭然である。憔悴と言っても、目は潤んで頬が赤く染まり、色気のある症状でぐったりしている。服装は乱れてはいなかったが、尋常ではなかったということは誰が見ても分かる有様だった。 「まさかイタズラされたのですか」 カツラギが遠慮なく言うと、 「いえっ」 コナツが否定した。 「でも、明らかにおかしいですよ、コナツ」 「あ、あの……休憩もしてなくて……」 しどろもどろになって言うと、 「ご苦労さまです。明日の仕事に差し障りますから、もうお休みになって下さい」 カツラギがコナツの肩に手を掛けて労った。 「はい」 「明日も仕事は詰まっています。特に明日は先日会議で出た規約の起草を書くためにコナツには働いてもらわなければなりません」 「分かっています」 コナツが頷くと、 「よかった。キスだけにしといて」 ヒュウガは悪びれもなく言い放った。 「キ……」 カツラギが今更ながら驚く。 「コナツの唇は柔らかくて小さくて食べちゃいたくなるんだよね。甘いし」 「少佐っ」 「カツラギさんもアヤたんも、コナツと二人きりになると分かるよ。キスしたくなる唇ってこれなんだなーって思うから」 「少佐ー!」 コナツが慌てた。だが、 「そうかもしれませんね」 カツラギが納得している。 ここまで弄られるとは思っておらず、コナツは顔を赤くしたまま言い返すことが出来なくなっていた。 「ヒュウガ。お前からはまず邪念を追い払ってやらなければならないようだな」 「アヤたん……オレからそれを取ったら何が残るのさ」 「……」 アヤナミは何も言わず椅子に座ると、仕事を始めようとしていた。 「えー、これから仕事!?」 「お前も付き合うか」 「酒付きなら」 「……いいだろう」 「おっ。話の分かる上司でありがたいね」 ヒュウガは喜んでいるが、 「明日は時間通りに行動してもらうがな」 「酔いつぶれるなんてことはしないよ」 というような会話が続けられ、 「本当に仕方ありませんねぇ」 カツラギが乾いた笑いを漏らすのだった。 「でも、私たちの強さは誰にも負けませんからね」 コナツが呟く。 「そうですね」 二人は顔を見合わせながら笑った。 「少佐、本当に飲みすぎないで下さいね」 「分かってるよ。具合悪くなったら呼べってことでしょ?」 「……はい、いつでもお呼び下さい」 「じゃあ、飲んだらコナツのとこ行って介抱してもらおう」 ヒュウガはまた無茶なことを言い始めるが、 「いいですよ」 コナツが拒絶することはないのだ。 「それなら少佐、私のところにいらしては?」 カツラギが挙手する。 「あれ。カツラギさんが優しくしてくれるの?」 「ええ、そういうのは得意です」 「うわー、どうしよっかなぁ」 なぜか照れているヒュウガだが、 「お前は本当に痛い目を見ても分からぬようだ」 アヤナミの表情が怪しく曇っている。 「んー? オレには逆療法も順療法も効かないよ?」 「そうだな」 打つ手が無い。もはやこの男には何を言っても何をしても無駄なのだった。 夜半に薄く浮かぶ弓張月がゆっくりと動き、やがて消えてゆく。 執務室からアヤナミの部屋に移り、アヤナミはそのまま仕事をしていたが、ヒュウガはバルコニーに出てグラスを片手に暗い空を見上げていた。彼もさきほどまでペンを走らせていたものの、飽きてワインを飲んでいる。と言っても、もうボトルを一本空けそうな勢いである。 酒の力で冗談がますます濃くなっていったが、アヤナミの態度は変わらないのだった。 どんなに伝えても、どれだけ口付けても、どれほど抱いても、心の中にある想いなど伝わるはずもない。伝わっても、すべて知り尽くしてもらえるはずはないのだ。その想いがどのくらいのものかは当人でしか分からないのだから。 ならば一生を掛けて誓い、言い継いでゆこうと思う。同じ言葉を何万回刻むことになろうとも、こうしてそばにいられるのなら、届かぬ想いと知っていても、ただ聞いてくれるだけでいい。時々笑って受け止めてくれるのなら、思いの丈を囁くしかない。 それが理不尽な言い分だということは分かっている。 「さぁ、今からどうしようか、な」 ヒュウガはバルコニーから室内に入り、窓を閉めた。大人たちの本当の時間は、これからなのだ。 もう月もなく、二人を見ているものは誰もいない。だから、闇の時を、楽しもう。 ボトルに残った最後のワインを瓶から直接口をつけて含むと、ヒュウガはアヤナミに近づき問答無用で口付けた。味蕾を甘く刺激するそれは、アヤナミの喉を潤す。 「あとはアヤたんのお気に召すままに」 その後のことは、二人にしか知らぬこと。妖しく婀娜めく二人の影に、夜の闇までもが羨んだに違いない。 |
fins |