望蜀


教会にアヤナミがブラックホークのメンバーを引き連れて潜入した。
対峙したアヤナミはラブラドールを襲い、フェア・クロイツにしたように彼を喰らおうとした。そこへカストルが庇い、彼はアヤナミに左腕をちぎられてしまったのだった。
ラブラドールの必死の施術のもと、カストルの腕は何とか回復しつつあるが、大きな衝撃を受けたことには違いない。瀕死の重傷を負いながら、カストルは自分が死んでもラブラドールには生きてほしいと告げたのだ。
どうして自分などを庇ったのか。
そう思うと、ラブラドールは暫く口を利くことも出来なかった。暫く黙り込んで俯いたまま、顔を上げることもない。
「もう大丈夫ですから」
カストルが声を掛けるも、返答がない。
「ラブ……気にしなくていいんですよ?」
「……」
「あなたが弱気になるなんて、珍しいですね」
カストルが笑うと、ラブラドールは少しだけカストルのほうを見て、また目を逸らした。血まみれのカストルを直視できるはずもない。だが、
「顔を見せて下さい。これは私からのお願いです」
そう言われて顔を上げると、今度はカストルが驚く。
「もしかして、泣きましたか」
「……」
目にいっぱい涙をためている。
「あなたの泣き顔は嫌いではありませんが……」
ラブラドールはまた下を向く。小さな涙の粒がひとつだけ零れ落ちた。
「そういうタイプではないのに、どうして。私のことなら心配無用ですよ」
「……」
ラブラドールはカストルの左腕に触れようとしてためらった。痛みが残っていれば触れられない、もう完治したとしても、それは幻で、触ったら、また消えてしまいそうだと思った。
「どうぞ?」
カストルがにっこり笑う。
「あなたが触れてくれたら、もっとよくなります」
「……」
ラブラドールは祈るようにゆっくりと手のひらで触れ、目を閉じた。
「私のせいで、あなたが憂えることはないのです」
慰めたつもりだったが、ラブラドールは首を横に振る。
「あなたの運命のほうが、過酷なのに」
カストルが呟く。
しかし、ラブラドールにとって自分のことよりも、カストルの身に何かあるほうが辛いのだった。
「でも、今はこうしていられる」
カストルは右手でラブラドールの手を握る。
「私たちのなすべきことは、まだあります。どんなことがあろうとも、決して諦めず前に進むしかありません。テイトくんたちの後も追わねばならないし……」
絡まる指に、力が入る。
ラブラドールはくちびるを噛み締めて顔を歪めた。
「出来るなら、あなたのそんな顔は見たくないけれど……」
「……」
「でも、私の前でだけ弱音を吐いて下さい」
ラブラドールを助けたい。既に未来が見えている彼の辛さを受け止め、そして苦しみを半分にしてやりたい。
「僕は……」
ようやくラブラドールが口を開いても、その先を言葉にすることはなかった。
視えていた未来。
教皇を救えずに悔いても、覚醒してしまったフェアローレンの恐ろしい魂の闇を封じることが出来るなら、すべてを背負ってもよかった。
「ラブ。今は、嫌なことは何も考えないで。私とランセもいます。まず、体勢を整えることが大事ですよ。都合のいいことだけを考えるというのはどうです」
カストルに言われ、それもいいかもしれないと思った。
現実逃避と言われればそれまでだが、心が破けそうになるたびに暗闇に飲み込まれて何もかも朽ち果ててしまえばいいと思うこともある。生きることほど辛いものはなく、苦しみの渦に引き込まれそうになるのに、光に向かって手を伸ばしてしまうのはどうしてだろう。
世界が終わっても、どこかで光が地上を照らす。そしてまた時が作り出され、新たな歴史が刻まれる。
ならば、ずっとそばに居たい。そのときがくるまで、ずっとこうして共に居たい。
「じゃあ、腕が治ったら僕の言うことをきいて」
ラブラドールは悲しそうな顔で笑ってみせた。
「いいですよ、何でもします」
「花の手入れを手伝ってもらうだけじゃ済まないよ?」
「そうですねぇ、忙しくなってシスタードールが作れませんか」
「うん。だって、いっぱい抱きしめてもらうし、キスもしてもらうから」
「それはそれは……でも、キスなら今でも出来るじゃないですか」
「……」
「あなたからすればいいのです」
「で、できないよ、そんなこと」
「それは困りましたね」
「どうして困るの」
「私があなたをからかいたくなるからです」
「どういう意味?」
「10年前のあなたは、とても愛らしかった」
「!!」
さきほどまで、墓所のデータ改竄を確かめるべくランセに「遺魂の力」で過去に遡っていた。時を10年前に巻き戻して事実を知ったわけだが、二人とも子供の頃に戻ってしまい、ラブラドールは更に愛らしい人形のような姿をお披露目してしまったのだ。
「今もとても愛らしいですが、なんというのでしょうね、天使のようでしたよ」
普通なら歯の浮くような台詞もカストルにかかればお手の物である。
「カースートールー」
「なんです?」
「君だって可愛かったよ、とっても!」
「ありがとうございます」
嫌がらないカストルが意外で、ラブラドールは同じことが言えなくなった。
「どうして怒らないの」
「ランセに言われたときはムッとしましたけど、ラブに言われるくらいではね」
「ぅ! じゃあ、遺魂に頼んで君だけまた戻してもらおうかな」
「ラブ……怖いこと言うんじゃありません。ランセはあなたの言うことは聞きますから、滅多なことを提案しないで下さい」
「さぁ、どうしよう。君の時を戻せば躯も戻るし、いいかもしれないよ?」
「あなたは時々怖いことを言いますね」
「だって、カストルが変なこと言うからじゃないか」
「でもね、あれだけ愛らしかったら、本当に天使と呼ばれていたのでは?」
「知らないよ」
「今からでも遅くないでしょうか」
「何を?」
「あなたをそう呼ぶのも」
カストルは本気でラブラドールを天使と呼ぶつもりだろうか。
「フラウに頭おかしいと思われちゃうからやめたほうがいいよ」
「そうですね」
二人は笑い合った。
「カストル……ありがとう。君が来てくれなければ、どうなっていたか分からない」
フェアローレンであるアヤナミは容赦がない。ラヴラドールを一目置いているようだが、その力を一番に必要とし、闇を喰らい続ける。そうしなければ生きていけぬように、失ったものの悲しみを埋めるために彼が行い続ける罪は重すぎるほど重い。
「あなたをあの人に渡すことは出来ないのです。フェアトラークだけでも痛手だというのに」
カストルは厳しい状況であることを知って襟を正そうにも、
「僕は、彼を助けてあげたい」
「!」
ラブラドールの発言には驚かされてばかりだ。
「あなたらしいですね」
情けなど必要ないと言っても、やはり天使は羽根を失っても天使なのだ。
「君は反対するだろうけど、今でも、そう思ってる。君をこんなにした憎い相手でも、だからこそ、救えるのなら……」
「そう言うだろうとは思っていました」
ラブラドールが敷いた花の寝床に横たわって右手を差し伸べるカストルの笑顔は、心に焼きつくほど優しくて、その右手を自分の頬に当てて、そしてラブラドール自らカストルの右手の手袋をとって甲にくちびるを当てた。
「おや、珍しい」
「ぼ、僕からだってこのくらい出来るもの」
「じゃあ、もうちょっと先のレベルアップを……」
「カストル。フラウじゃないんだから、そういう台詞は似合わないよ」
「そうですねぇ、我ながらフラウに似てきたと思ってしまいます。彼の影響力は凄いですね」
「でも、僕は嫌いじゃない」
ラブラドールはカストルを覆うようにして一瞬だけくちびるを合わせた。
「……もう一度、同じ台詞と、それを繰り返してもらえますか」
右手の指先で、離れていったラブラドールの淡い色のくちびるをなぞり、カストルが要求した。
「カストルの意地悪」
「私は怪我人なので」
動けないことを盾にとるわけではないが、こうでもない限りラブラドールからの行為は余りあることではない。
「出来れば、もっと長く」
「やっぱり意地悪」
「いいでしょう、たまには。いえ、今は、と言うべきでしょうか」
「今は……ね。そうだね、今なら僕からしたい」
「いい傾向です。これなら何度病に倒れても……」
「カストルー?」
ラブラドールがカストルの台詞を遮ってにっこり笑った。
何度病に倒れてもラブラドールから手厚く看病してもらえそうだと言ってしまったら、キスをされながら頬をつねられていただろう。
「いいえ、何でもありません」
「おかしなことばかり言ってると、カストル用にお花の髪飾りとか大振りの花で首飾りとか作っちゃうから」
ラブラドールが上半身を少しずつ倒してゆく。
「それはそれは!」
「カストルなら似合うかも」
喋りながら顔を近づけ、会話をすることで大胆な自分の行動を紛らわせているが。
「そうでしょうか」
「だって、ほら。こんなに近くで見ても……」
それは、キスをするとき、くちびるを開いたまま重ねるため。
「カストルは素敵だもの」
「それはこちらの台詞ですよ、ラブ」
合わされたくちびるは、すぐに互いの舌を求めて絡み合った。さきほどよりも長く、けれど、本当ならすぐにでも終わらせなければならない行為。その究極のジレンマが二人を熱くする。


「ランセが来る。とても、とても悲しいことが起きてしまったから」


どれくらいこうしていたか分からないが、悲しみに包まれた扉は既に開け放たれていた。
「時が過ぎれば薄れる辛苦もあるけれど、喪失感は時間が経てば深まるものです。失った悲しみは、あなた一人だけには背負わせない」
カストルの言葉にラブラドールの閉じていた瞳から、再び涙が溢れた。
「行くときは、一緒ですよ」
手を取り合うことが、今は大事だと言って、扉の向こうに旅たつ決意を交わす。

「誰もが幸せになれるように望んでも、こんなにもうまくいかない」
「人は望みを叶えると、更にもっと欲しくなる。そういう生き物です。だから、コールの成れの果ては、誰もが理解できる姿」
「そうだね。ただやみくもに願いを叶えることは不幸の始まり。人の生とは、そんなに容易いものじゃない。犠牲を払わなければならない痛みがその証」
「とても辛いことです」
「だから、少しだけ我儘を言ってしまうんだ」
「……秘密の願いですね」
「そう。僕たちにしかないもの」
「誰にも言いませんよ」
「そして、もう願わない」
「ええ、今日は二回もキスをしてしまったことは誰にも言いませんし、今日はもうこれ以上のことは願いません。願うとすれば……」
「こうしてまた二人でいられるときがあればね」
「そうです」

それがいつになるかは分からない。もう、無いのかもしれない。
だから。
もう少しの間だけ、この手は離さないでいて。永久にとは言わない。ほんの少しだけ、もうちょっとだけ、この手の大きさを、記憶させて。

あといくつ望めば、世界が壊れる?
あとどのくらい願えば、世界は救われる?
未来と過去は今につながり、今という残酷な時は、夢を見ることも許さない。それでも生きていたいと思うのは、こうして手を取り合えるから。

「大好きですよ」

大好きな人が、耳元で囁いてくれるから。


fins