「遺魂を呼び戻そうと思うんだ」
ラブラドールがそう呟いたときの悲しそうな声が忘れられない。窓際で外の闇に投げかけるように紡がれた言葉の先には、現実を叩き壊す悪夢があることを示していた。 「やはり……」 カストルはさして動揺もせずに頷く。最近のラブラドールの憔悴しきった顔を見ていたカストルは、何を聞いても驚かないようになってしまった。つまり、覚悟は出来ているということだ。 「墓所の記録が書き換えられているかもしれない」 ここのところの不穏な動き。 「そうですか」 「あくまでも僕の予想だけれど、もし、そうだったら……」 「ええ、分かっています」 「カストル、僕は……」 「前に進むしかありません。私たちは大丈夫ですよ」 「君がそう言ってくれると、安心する」 「おやおや、私はあくまでもあなたが居るからこそ強くいられるのですよ? あなたの預言は絶対です。それにどれだけ救われていることか」 「カストル……」 「私と一緒に守るべき者を守る。だから、負けてはならない。あなたが居れば心強い」 「そう言ってくれると嬉しい」 ラブラドールは微笑んだ。その寂しい瞳を満たせるものは、カストルの言葉しかなかった。 10年前に起こった出来事は、すべてがうまく作られたシアトリックであった。作られた戦争、仕組まれた策略。なにもかも、目晦ましの嘘に翻弄され続けた、偽りの歴史。 先のことが見えてしまうラブラドールとって、未来は時に切ないものであり、それが辛い過去に繋がるとすれば、幸せは一つも残らず目の前をすり抜けてゆくだけ。 「あなたの苦しみを私が代わってあげられるものなら、私がすべて受け止めるのに」 そう呟いたカストルの言葉があまりにも優労で、ラブラドールは思わず背を向けて俯いてしまった。涙が零れると思ったからだ。 「カストル。君がこうして居てくれるだけで、辛くても僕は幸せだと思えるよ」 ラブラドールの声が震えていた。 「ええ、そのために私たちは共に居るのですから」 カストルが後ろからラブラドールを抱きしめる。 「!」 驚いたのは本心だが、本当は最初からこうして欲しかったのかもしれない。 「ありがとう。君がいてくれてよかった」 カストルが抱きしめる腕に力を込め、ラブラドールの躯がわずかに強張ると、 「駄目ですよ、力を抜いて。私が支えていてあげますから、リラックスするといいです」 そう言われて、ゆっくりと息を吐いた。 「本当はとても緊張するんだけどね」 「どうしてですか」 「分からない? 君が僕の気持ちを知っているのなら、君のほうが分かると思う」 「……そうですね。もし私の考えていることが確かなら、あなたが緊張するのも分かります」 「ね」 ラブラドールが笑う。その声が愛しく、カストルはそのまま自分よりも一回り小さい躯をずっと抱きしめていた。 この部屋を訪れたのは2時間ほど前。司教としての仕事の話もあったが、セブンゴーストとして、これからのことも話しておかねばならず、早めに切り上げるつもりが長くなってしまった。絞り出すようにラブラドールが告げた言葉がレリクトを教会に戻すという決断だった。 「ねぇ、カストル。もう少しこのままでいてもいい?」 「私もこうしているほうがいいです」 「よかった」 「雲が月の光を遮るたびにあなたの髪の色も瞳の色も、この躯もすべて溶けてしまいそうになるので、私が守ってあげなければ」 「何おかしなこと言ってるの」 「でも、事実ですよ」 こうして窓際で佇むのは、常に外の気配を感じとるため。そしてもう一つは、このままベッドへ崩れ落ちて快楽を求めることに夢中にならないため。 「変なの」 「ひどいですねぇ。ところでランセは今何処に居るのでしょう」 「連絡したばかりでまだ返事がないから、もし遭難していたらどうしようと思ってた」 ここは笑うところであったが、カストルは真顔で捉え、 「カイル君も居るから無理はしていないはずなんですが」 カイルというのはランセの司教見習いとして一緒に行動をしている少年である。二人とも登山者のような格好で教会を出て行ったのはいいが、ランセは自他共に認める方向音痴で、巡回するより迷途していることのほうが多い。無事に連絡がつけばいいのだが、今はただ待つしかなかった。 「ランセのことだから分からないよ。故意に無茶するのではなくて気付いたらこうなってたってパターンだもの。カイルくんが常に冷静でいてくれることを願ってる」 「そうですねぇ。ところでラブ」 「なに?」 「あなたとヴィーダ君は?」 ヴィーダという少年もラブラドール付きのアプレンティスで、非常に優秀であり、彼の草花の手入れやお茶を淹れることの至妙な技は賞賛に堪えなかった。 「彼はとても飲み込みが早くて僕にとっては自慢の司教見習いだよ」 「そういうことではなく」 「?」 「彼が優秀なのは分かっています」 「うん?」 「狙われていませんよね?」 「え? どういう意味!?」 「何もないのならいいのです」 ラブラドールの表情から見てとり、カストルが自己完結しようとする。 「待って、それって……」 「彼からこんなことされていませんよね?」 カストルは抱きしめた腕に更に力を込めて、ラブラドールの躯を撫で上げた。 「!!」 ラブラドールはぐるりと躯の向きを変えてカストルを見上げた。端正な顔を目の前にして、一瞬、見蕩れそうになったが、今はそれどころではない。 「まぁ、そんなことをされていたら君も普通ではいられなくなると思いますが」 「当たり前でしょ! 大体、そんな素振りもなければ、お互いそんな目で見たことなんて一度もないし、これからもないよ!」 珍しく大きな声を出してしまう。ラブラドールの慌てように笑ってしまったカストルだったが、 「それならいいです」 これ以上追求することはしなかった。 「あ、でも特別な思い入れはあるかも……」 「それは一体?」 「親子のような……」 「なんだ、それなら分かります。ラブラドールがお母さんか、ヴィーダくんがお母さんか……どちらでしょうね」 ラブラドールに至っては我が子を褒める親ばかなところも垣間見えるし、ヴィーダはラブラドールの無防備さに手を焼くこともある。 「そう見える?」 「見えます」 「はっきり言われるのも何故かショック」 「いいえ、あなたとヴィーダくんはとてもいい関係であることが分かりました」 「おかげさまで」 「でも、決して躯を許してはいけませんからね」 「だからそんなことしない! 親子みたいだって言ったでしょ」 「感覚的にはそれもありですが、年齢的には無理でしょう。しかもあなたは美しい人です。それなのに自覚がないから困ります」 「何言ってるの。心配しすぎだよ」 「そうでしょうか」 話題が変わり、おかしな方向に進んでしまったことが幸いして、ラブラドールはよく笑うようになった。 「なんだか、深刻になってたのが嘘みたい」 「……」 決してふざけているわけではない。事態は窮迫し、本来なら今すぐにでも真相解明のための行動に移りたかった。 けれど。 「僕一人だったら、どうなっていたか」 「ええ。今はフラウも居ませんし」 「カストルだって、戻ってきてくれたからよかったものの、あのままハクレン君と出ていたらどうすることも出来なかったよ」 「呼び戻してくれればいいのです」 「それはそうなんだけど」 「あなたももうすぐヴィーダ君と外に出るようになるでしょう」 「うん。だから、今はこうしていたい」 「正直に言うなら、こうすることが必要なんです」 カストルはラブラドールの柔らかい髪にキスをした。 「カストルのおかげで嫌なことぜんぶ、忘れそう」 「可愛いことを言いますね」 「本当のことだもの」 「あなたが辛いと思うことは、忘れさせてあげます」 目の前にいる優しい人に、その身を委ねれば苦しみから救われる。今まで交わしてきた言葉、温かな抱擁、優しい眼差し、そのどれもがラブラドールにとって心が潤されるものであった。 「今まで僕は、人と関わることが怖くなったり辛くなったりしたこともあったけど、もうそんなことにも慣れて、いつしか何も感じなくなってきて。でも、それがラクになることではなかったのに、君と出会ってから変わってしまった」 「ラブ……?」 「背負うものが同じで、助けてくれる人がいるとね、呼吸をするのも楽しくなるんだよ」 「ラブラドール」 「僕は人と話すより、花や草や木々と会話をするほうがよかった。僕の存在価値は、その中にあると思っていた」 「寂しかったんですね」 「分からない。それが当たり前だったから。でも、今は君ともっと話をしたい。もちろんフラウも大事、テイト君も同じ。ランセはずっと僕を慕ってくれたけど、だからかな、僕があまり頼るわけにもいかなくて」 「そうでしょうね。けれど、どんな過去があれ、あなたは花のように鮮やかに笑っていたほうがいいですからね」 「カストル……そういう口説き文句みたいなこと言うの、やめてほしいな」 「口説いていません。先日からラブはどうしたんですか?」 「君は計算して言ってるんだよね。でなきゃ、天然だ」 「あなたに言われたくないです」 「もう、そんな顔で言われたら……」 「私がどんな顔をしているというんです」 「なんでもない!」 ここでカストルの整った顔をほめてしまったら会話が続かなくなる。続かないというよりも、どういう方向に進むか分からない。収拾が付かなくなって微妙な空気が流れるのは避けたかった。 ラブラドールは負けるまいと知らぬ振りをしたが、 「ラブ?」 「あー、でも、こういうやりとりも好きだな」 たまには騒がしくするのも中々楽しい。 「君とフラウが言い合いしてるのを見て、いいなぁって思ったこともあったんだ」 「えっ!?」 あまりに意外な発言だった。 「仲いいもの」 「ラブ! あなたとあのような喧嘩は出来ませんよ!?」 「そうだけど」 「驚きました。私だって普段は大きな声を張り上げることはないんです。フラウは特別ですからね」 「うん。でもね、たとえ喧嘩であろうとなんだろうと、フラウとテイトくんって賑やかだし、見てて微笑ましいっていうか」 「フラウとテイト君みたいなノリがいいんですか?」 あんなふうに無邪気になりたいと思うこともある。暗く重い過去と未来を背負っていても、テイトはいつも一生懸命だ。 「まぁ、僕たちには無理だけど」 「そうですねぇ……フラウとテイト君と同じようなことと言いますと……ホークザイルに二人乗りとか。私があなたを担ぎ上げたりですか?」 「ちょっとイメージじゃないなぁ」 当然である。 「ああ、一つだけ出来そうなことがありますね」 「なに?」 「一緒にお風呂に入ることでしょうか」 「……ッ」 ラブラドールは思わず吹き出しそうになった。 「テイト君からの報告書にも書かれてありましたよ。お風呂も賑やかだって」 「それなら可能かなぁ。すぐにでも実行出来そうだし」 「え、本気ですか、ラブラドール。彼らは旅をしていますから、それもありでしょうが、私たちのことは冗談で言ったんですよ?」 「どうして? 僕は本気にしたけど?」 「ラブ……」 「冗談にはしない。嫌なの? カストル」 「それは……いつか……」 「いつかっていつ?」 「そんな子供みたいなことを言わないで下さい」 「だってカストルが冗談で済ませようとするから」 「分かりました、じゃあ、今度ね」 「今夜!」 「……あなたは一度言ったら意見を変えないし、梃子でも動かないことがありますからね。私にとっては手ごわい相手ですよ」 「そんなことないと思うけど」 「顔は可愛いんですけどねぇ、気が強いときは強いし。それなのに優しいときはどこまでも優しくて」 「もう、何が言いたいのさ」 「……」 「僕のことが嫌い?」 「……好きですよ」 「それは……」 嫌いと聞かれて義理で答えたものか、それとも他にも意味を持つのか。 「好きです」 「カストル」 「もう一度言いましょうか?」 ラブラドールは咄嗟に首を振った。 「いいえ、言ったほうがいいかもしれない。でなければ、あなたは分かってくれません」 「分かる、分かるよ」 「本当に?」 「ほんとに」 「……態度で示す?」 「そうですね、それが一番いいです」 窓ガラスに映る二つの影が重なる。 求め合う腕が、互いの躯に絡まるまでそう時間はかからなかった。そのあとは言葉もなく、吐息と視線が想いを結び、やがて ── 。 すべてが過ぎてゆくときの追想となる。さきほどまで交わしていた言葉も、たった今触れ合っている肌の温かさも、何もかもが過去になって積み重なる。優しい記憶、失くしたくないレコードファイル。この先もずっと一緒にいられるのなら、もっと我儘が言えるのに。 「花のように笑うあなたも、花びらのように綻ぶあなたの涙も、すべて、大好きですよ」 「君がそう言ってくれるから……」 追憶することでしか得られない幸せでも、悲しくはない。こんなふうに狂おしいほど満たされる二人だけの甘い時間があれば、もう何も怖くない。 |
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