「どうしました、ラブラドール」
カストルが椅子に座ったまま動かなくなったラブラドールに優しく声をかける。 「……」 「座ったまま、寝てましたか?」 「……えと」 ラブラドールは目をこすりながらカストルを見つめた。 「疲れているなら、先に休んでも構いませんよ?」 現在夜の12時。本来ならば教会内に住んでいる者は自室に入っているはずだが、カストルとラブラドールにはまだ仕事が残っていて、カストルの部屋で作業を続けていた。 司教の仕事は決してラクではない。今日は特にコールにとりつかれた老若男女が数多く訪れ、右往左往しながら応対し、自分の仕事もまもとに出来なかったのだ。 「ううん、まだ大丈夫」 「無茶をしてはいけません。あとは私がしますから。ああ、でも明日いらっしゃる方々の名簿だけでも目を通してもらえますか?」 「うん、どれ?」 「これです」 「わー、明日もいっぱいだね」 「そうですね。救いを求めて来られるのなら、私は彼らをすべて受け入れたいと思っています。逃げることと、革めることは違います」 「僕もそう思っているよ、カストル。ああ、でも、明日は……」 「?」 ラブラドールは予言が出来る。先のことが分かるのだ。だから、彼の言葉はたった一言でさえも神の声に等しいと言われていた。 「何でもない」 言いかけていた言葉を飲み込んで、ラブラドールは再び書類に視線を落とした。 「そうやって隠すということは、あなた自身のことなのでは?」 カストルが厳しい声で言及する。 「カストル……」 「何か大変なことが起きるのなら言って下さい」 「大丈夫、ホントにたいしたことじゃないから」 「それならいいんですが」 カストルは真剣だった。 「優しいね、君は」 ラブラドールはたまらずに笑いながら呟く。 「そうですか? 私は普通にしているつもりですが。ああ、でも、あなたには特別優しいかもしれませんね」 「ラゼット並みに大事にされているような気がするよ」 ラブラドールはまた微笑んだ。 「彼女とは、違います」 カストルが真剣な顔でそう言うから、 「え、そう……かな? それはどういう……」 ラブラドールも戸惑い、更に追求してしまう。 「ラゼットはラゼット、ラブはラブです」 「よく……分からない」 「じゃあ、言いますか?」 カストルは少し挑戦的な目でラブラドールを見つめた。この司教は、自分の顔が如何に整っているのか自覚しているのだろうか。ラブラドールはしばしカストルを見上げ、 「……その頬、捻っちゃおうかな」 端正な顔が憎らしく思えてきて、わざとおかしなことを言ってみた。 「今、なんと?」 生真面目なカストルには、その言葉の意味が理解出来ない。 「んー? 頬を捻って眼鏡奪って逃げようかなーって言ったの」 「ラブ!?」 「だって、カストルが僕をいじめるから」 「いつ私が苛めましたか!」 「今」 「苛めてませんよ。最近のあなたはとても天邪鬼だ」 「そんなの、今に始まったことじゃないもの」 「でも、いい子ですけどね」 「……」 「可愛いから許します」 「……カストル。君さ、そうやって女の子を口説いたことは?」 ラブラドールが真剣な顔で問うと、 「あ、あるわけないでしょう! 私たちがそんなことをする必要がありますか?」 カストルが赤くなって言い返す。 「じゃあ、いつもそうやってラゼットを口説いてるの?」 「口説く?」 「うん」 「私は誰かを口説いたことはありません。ああ、フラウに説教なら幾つか。フラウこそ、相当の女性を口説いてますよ」 「口説くのと説教は違うでしょ。フラウの場合は気分転換だからね。じゃあ、君のそれは無意識なんだ」 「何がです?」 「なんでもないよー。でも、あまり僕を困らせないで」 「困らせる!? 私はラブの重荷になっていますか?」 「違う、違うんだ」 「では一体……」 「僕が言いたいのはこんなことじゃなくて」 「ラブ……」 「でもね、僕はこの先の言葉を言ってはならないんだ」 ラブラドールは悲しい目で俯いた。 「どうしたと言うのです。あなたのそういう顔は見たくありません……。でも、私が至らなくてあなたを困らせているなら、謝らなければ」 ラブラドールの困惑や心痛は、カストルには理解出来なかった。 「カストル、君は完璧だから、僕は仕事で困っているわけではないんだよ」 ラブラドールにとってカストルは、真面目なところも一途なところも、いつも冷静で確かなところも、それなのに時に意地悪な冗談を言ってみせるところも、すべてが印象に残る、そんな人だった。一緒に居て、それが当たり前だと思える相手。ただ、これがどういう感情なのかラブラドール自身もよく分からない。 「そうですか? あなたの足手まといになっていなければいいのですが」 「全然。それでなくても君が大司教補佐に指名されたときは当然だと思ったほどだよ」 「教皇の代理が出来るあなたに褒められるのは光栄ですね。なんだか照れます」 「それでも、僕にとっては君の一言はとても大きい」 「ラブ……?」 「未来を予言出来ても、僕は君の言葉のほうが大事なんだ」 「それは……」 「ごめんね。僕は君の前だと、隠し事が出来ない」 心を許している相手だからこそ、さらけ出してしまうものがある。まして彼らは他の司教とも違う立場に居る。 「あなたの発言は、解釈によって意味が変わります」 「好きなように受け取ってくれて構わない」 ラブラドールは微笑むと、逃げ道を探した。心の中の全てを知られるわけにはいかなかった。 「それはいい。ですが、私も、これ以上のことは言えません」 「カストル」 「言ったらあなたを傷つけてしまいます」 「いいのに」 「いいえ。言えません」 「じゃあ、僕が当てる」 「ラブ。あなたが僕の考えていることを当てたからといって私が認めるとは限らないでしょう? 駄目ですよ、禁じ手を使っては」 「手強いなぁ」 「それはこちらの台詞です。それに、私はあなたを困らせることはしたくないと言いました」 「じゃあ、優しくしてくれるよね?」 「そうですね」 言葉ではなく、態度で。 ラブラドールの目はそう語っていた。もっとも、カストルは最初からそうするつもりだった。 「もう休んで下さい。私のベッドを使っても構いません」 「……」 「私は巡回をしてきます」 「君は何処で眠るの?」 「大丈夫ですよ、ラブと違って野良寝はしませんから」 「それはそうだけど」 「すぐに戻ります」 「待ってる。でも、もう待ちきれないかも」 「……眠そうですね」 「すごく疲れたから」 「じゃあ、先にこれだけ」 カストルの手がラブラドールの指先をとった。 「あ……」 かすかに震える声が、甘い風韻を燻らせる。 「おやすみなさい」 細い指先に口付け、そして素早く手を絡ませると、少しだけ力を込めて握ってからそっと離し、カストルは自分の部屋を出て行った。 「もう。君はいつもこうやって……」 ラブラドールはカストルが触れた指先を噛んで、主の居ない部屋でただ一人、揺れる心を持て余しながら、鍾愛の時を待つのだった。 慌しい一日ではあったが、夜の庭園はとても静かだ。カストルは外の様子を見回り、一安心して帰路につく。この平穏な日々が永遠に続けばいいと願わずにはいられない。 「おや」 夜空の闇すらも心地がいいと思えるほど澄んだ空気が頬を撫で、庭に茂る草木の香りが、カストルを優しく包む。 草花はラブラドールの心情を表す。安らかな薫りと美しい調べ。それらはまるで若葉のように瑞々しく、そして人を愛し、愛されることを願っているようだった。 |
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